カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

持ってないもので悩む、の話 ~その3~

その1、その2はここからどうぞ。

◎持ってないもので悩む、の話 ~その1~

◎持ってないもので悩む、の話 ~その2~

 

もう一度、言います。

思考は、あなたのなかには湧いてくるけれど、

「あなた自身」ではない。

あなたが抱えているもの、その所有物やら問題やらとも、

あなたはイコールではない。

そして私たちは常に「今、この瞬間」を感じられる存在。

じゃあね、その「思考」、そのものも、

まさに「今」、眺めてみればいいんだよ。

だってそれはあなた自身、ではなくて、

アタマのなかに「今」湧いてるもの、にしかすぎないから。

欲、志向、希望、要望、不安、怒り、戸惑い、喜びもうれしさも。

そういう感情、思考が

「ああ、今まさに、私のアタマのなかにあるな」って。

そうすると、「喜び」は、もっとじんわり噛みしめられて、

ありがたさまでくっついてくるよ。

そう感じられる自分、というものがここにいるや。

今、感じさせてもらえてるな、そういう瞬間なんだ、

うれしいな、こういう瞬間があるって、なんかありがたいな、って。

遠くから眺めることで、増幅する。

「苦しみ」はね、少し、落ち着いて眺められる。

私は「苦しい」って今、感じてるんだな。

頭のなかで、それが湧いてるよ。

そしてどんよりした空気のような重さ、そんな「体感」まである。

でもこれ、自分自身じゃないんだ。

単なる「思考」のひとつなんだ。

確かに「苦しさ」は、感じてるけど、

「私そのもの」とは、これ、「別」なんだ、違うんだ。

「私が今、感じていること、考えていること」と、

「私そのもの」は、ごっちゃにしなくていいのか。

解決策云々、は「今」この瞬間、とりあえずなし。眺めるだけ。

怒り、の熱さ、

別離、の冷たさ、

同感、共感の温かさ。

それぞれを「今、感じている」自分がいるな、ってこと。

その視点に立てるようになっていくと、

出来事や問題とそれに対する感情、気持ち、

そこと自分がはっきり分かれて、眺められるようになる。

眺められるようになると、全体像も見えるようになってくる。

そうしたら「今、できること」も少しずつ、

時間を置いてになるかもしれないけれど、

だんだん、わかってくる。

あなたがいられるのは常に「今」の時点だから、

少し落ち着いた、さっきよりは「よい今」になったと感じたとき

その瞬間から、何か思いついたことを、動けばいい。

そうしたほうが「よい思いつき」解決につながるアイデアも

生まれる可能性が実際、グンと高くなるみたいよ、

いろいろな人の話や体験を聞くと。

だってすごく小さいことからでいいんだもの、別に。

本当は所有してない、思考でしかない「過去」と「未来」

(しかも未来は保証なし)ばっかり見て

なんとかしようとアタマでさらに思考し、

苦しんで悩みまくって、自分の欲に対する答えばっかり

未来へ(思考のなかでのみ)探し求めなくても、

「今は眺める」という、まずできることによる「変化」を

感じるつもりになればいい。

解決にはまだ、具体的に何もつながらなくても、

気分転換で動いてみればいい。そしてまた

その瞬間そのものを、今はまず味わってみればいい。

思考を自分と同一視しなくなるなら、気分転換も上手になる。

そしてそれは「今まず眺めていくためにできること」であって、

逃げ、ではない。練習。

眺められるようになるまで、アタマを切り替えていくだけの話。

眺める、やってみる、眺める、試してみる、眺める。

その積み重ねと繰り返しこそが、

いつか「未来が今になった瞬間」のあなたを、

結局は、変えていくことにもなるのだ。

ふだんから「今の自分の思考や感情、

そして周囲を眺める」、そんな感覚の練習。

「本当は借り物なんだけど、所有した気分」が可能になることも含め、ね。

問題などとはまったく関係なし、別の何かのタイミングのときに。

買おうがもらおうが、何か概念的な、立場っぽいものとか相手の思いやりとか

太陽がきれいだなあとか、そういうもの、ことを得ようが。

それを感じたときに「いいな」「うれしい」と思えたら

(思考に囚われないようになれば、そういうのも見渡せるようになる)、

そのとき、その都度、その瞬間できちんと味わえるようになり、

「ありがとう」「うれしいな」

食べものなら「おいしかった」「ごちそうさま」って、

それを提供してくれたすべてに(宇宙から太陽から地球から材料から、

作ってれた人、そのときそこに一緒にいてくれた人まで全部含め)、

もっとうれしさを感じながら、感謝もできるようになるから、さ。

にぎやかなレストラン、その明るい空気、雰囲気のなかに

自分が今、いられて、一緒に(隣の席の見知らぬ人であったとしてもよ!)、

同じタイミングで、空間を分かち合いながらご飯を味わえること。

そこでわざわざ「アタマのなかにて比較」なんて思考、しなくていいでしょう?

何をしたいのさ、ご飯時に。「今」を味わうことのほうを選ぼうよ。

一人のとき。静けさのなかで、音楽を聴けること。

そうした瞬間、瞬間を、自分が得ていること。

他者だって、「思考」とイコールの人ではない存在なのだ、もちろん。

その本人は気づいてないかもしれないけれどね。

あなたはただ、その人に対する、その瞬間の「自分が感じたもの」と、

「その人が感じているであろうこと」、そしてそれとは別の、

自分自身、相手自身を、それぞれ眺めてみればいい。

そんなふうに、ものを、空間を、他者を、自分の思考をも、

自分そのものではない、

でも「今」関わっている、関わってくれているものとして認識し、

「今この瞬間」、まさにそれを、眺めてみる。

そんな練習をすればいずれ、眺め上手の感謝上手になれるから、

毎日「普通に」、いくつも何回も「楽しかったりするわ」になっていけます。

瞬間、瞬間、味わえばいいだけだから。

ドタバタさえ、眺められるようになるよ。

で、そのほうが落ち着けるから、

「ああ、今は置いといて」とか、あるいはとりあえず、

「ん、じゃあまず今、こうやってみるかな」ってことになれる。

なんとなく振り回されないようになって、わりと落ち着いていられて、

おまけに楽しめる感覚、をいくつも、増やせれば?

人はその瞬間を「平穏」とか「幸せな状態」と、呼んだりするわけです。

そんなの、イヤなんだもん、私は自分が望んだ通りの状態にならないと

幸せなんて感じないもん!

って方は、そうですか、では、いつまででも

「今」を感じず、そのときどきのうれしさも喜びも全部、見逃して

アイデアを思い浮かべられるかもしれないタイミングも逸して、

自分のアタマのなかの「観念」と「欲望」にだけしがみついて

「できなかった」「いつか」「どうすれば」「あいつが」って、

解決策に苦しんで人を恨んだりもしつつ、

悩んでいってくださいな。そこは選択、ご自由に。

王様になるとかすれば、ちょっとはその希望、叶うんじゃないかしら。

いろいろ、同一視せず眺める練習から始めて、

落ち着けるようになってからちょっとずつやってみたりさ、

何よりまず気分的に、単純にラクになれるしさ、

お風呂に入ってるときとか、そういう別のタイミングで

アイデアも湧いてきたら幸いだしさ。

そうやって毎日を味わいながら、いいじゃない、

先に幸せは幸せとして、感じて受け取っていれば。

やがては思いついて動けるさ。そうやって Let’s 悩み減らし☆

いやほんと、数々の書籍類とそれをつくってくれた人たちに、

今回はさらに感謝な気持ちです、今の私m(_ _ )m

 

持ってないもので悩む、の話 ~その2~

その1はここからどうぞ。

◎持ってないもので悩む、の話 ~その1~

 

で、さて。

私たちは「本当は所有してるように思わせてもらえるだけ」のものを、

勝手に持ってきて使ってるくせに、アタマでなんとか「所有」しようと悩んでる。

次にその「概念」、アタマのなかの「思考」の話に移ります。

私たちが「ない」とか「ある」とか、考えるとき。

「明日は」「あのときは……」などと考えるとき。

それらは全部、アタマのなかの「思考や感情」でしかない。

過去も、未来も「思考」です。

過去が思考、というのはわかるよね、思い出。

自分が「記憶として持っている」ものであって、

「今、目の前のこの瞬間」ではない。

で、未来は?

これ、面白い表現を知ったのだけれど、

「未来というものを、私たちは絶対に捕まえることができない」。

意味わかるかな?

たとえば明日は○○する、という予定をアタマのなかで立てたとして、

それを実際に行うときって「今」になっているよね。

私たちがいるのは「常に今」。

どんなに先のことを考えていっても、

それを実際に体験するときは「今」、になるわけです。

ゆえに、私たちにはずっと「今」しか存在しない。

だから時間も「思考で捉えているもの」になる。

時間がない、というわけではない。空間、があるように、

太陽が東から西へ移動してくれることにより、それを「時計」という

もので区分けして使っている(ように感じている)だけ。

動作をすることにより「感覚的に今の瞬間が

連続するように思えるから、使っているように感じられる」もの。

実はそれなりに、アタマのなかのもの、時間。

物理学上で時間が四次元、というのも、そういうことなんだと思う。

空間までは、なんとか「所有」した気分になれるけど(家の中とかね)、

時間は所有できないし、連続性も概念でしかない。

私たちは常に「今」を感じられるだけ。

そんなことはない、私は生まれてからここまで育ってきて、

過去の私は小さかったけど今の私は大人だし、将来は年老いていく。

うん。予測とか、感覚的なもの、は、そうだよね。

でも、もしあなたが記憶喪失になったら?

過去の私を「忘れて」しまったら、小さいころの私って、

あなたのなかにも「存在」しなくなるよね?

つまり「小さいころの私」っていうのも、記憶でしかない。

将来像ももちろん、アタマのなかの「考え」なわけです。

あまりここばっかり語ると、不安を感じる人もいるかもしれないので、

次にいくけれど、要するに私たちは、過去の記憶も含め、

そうしたいろいろな「思考」「感情」を

まとめてきたものが自分、と、ふだんからなんとなく、

しかもずっと、捉えてきているわけです。

アタマのなかで「考えてきたこと」イコール私。

思考と私が常に一緒になっていて、

考えていることの内容総まとめが私、みたいに

なっているのだ、いつのまにか、ついつい。

さ、では「今ここにいるあなた」は思考、ですか?

身体もあるし、それを少しでも動かせるし、

五感でものごとを感じてるし、

食事もするし、寝るし、人とも話をする。

そのすべての「あなた」は、思考、ですか?

違うよね。思考はアタマのなかのもの、だと「知っている」はず。

未来や過去、ああなりたい、こうなりたい、とか、

あのときああだった、いつかはこうだった、とか

「アタマのなかでいろいろやっている」だけの話。

あなたはそれとは別もので「今、ここ」にいるのに。

「今、ここにいる、この瞬間の自分」はなかなかまともに見ず、

当たり前にして、常に過去を意識したり、未来を想像したりする。

次に所有するものを考えたり、失ってしまうかも、と思ってみたり、

延々とアタマのなかで「過去か未来のどちらか」だけを見て、

何かを「いつか未来に得よう」としている。思考・概念のなかに。

だって、「今」はまだ「足りてないことだらけ」だから。

感激することもあったけど、もう過ぎ去ったから。

飽きたから、もっと興奮したいから、つらいから、

もう一度ワクワクしたいから、「未来」だけを見る、または

イヤな過去を引っ張り出して原因を探し

今じゃないのに、まさにこの瞬間に! 「思考」だけで落ち込む。

で、「次」の何かを得るために(別に本当には所有してないのに)、

所有した気分になれるものまで「未来」に対して「思考」だけで求める

(思考がすべて悪いわけじゃないよ、でも今は、その話は置いておく)。

人間関係も所有の思考が絡んでるよね。

恋人は「私のもの」、家族や仲間は「私とつながっているもの」、

失う、失わない、思い通りに行く、行かない、

なぜ、どうして、過去に、いつか、

あの人が、私が、あれが、これが、隣の国が(笑)……etc.

ある、いる、と実感できる「今」はそんなに見ない。

過去か、未来ばっかり気にして「考え」を繰り出す。

で、そうやって、アタマのなかにしかない「思考してること」が

自分自身だ、とさえ感じる。

思考と自分を同一視するから「今、ここにいる」自分は吹っ飛び、

ずっと過去や未来の「何か」の思考、思惑、自分への評価、他者への要望、

言ってしまえばある種の欲をも含む考えや感情に、

自分が振り回されもしちゃうわけです。

その時間のほうが、ずっと長かったりする。

で、睡眠するときだけホッとするとか、アルコールやタバコなどで

自分を強制的にボーっとさせて、考えるのやめようとするとか。

……痛いよね、なかなか。

今、感じていることは、イコール私、じゃないんだよ。

それを「自分自身」だと思い込んで、思考の中身だけで

即、簡単に「私はああだこうだ」、自分を決める、

そんなふうに評価するのも違うよ、ってこと。それって単なる考え。

他者との比較も、いろいろ全部、あなたの「思考のなか」だけの話なのだから。

~噛みしめて欲しいので、ここで分けて、さらに次へつづきます(スマンね)

 

持ってないもので悩む、の話 ~その1

このところ読んだ本などが(例によって乱読です)、

いくつか私のなかでつながったので、その話をしてみたいと思います。

受け売りの総まとめ&私なりの解釈編、ってことです(笑)

私たちは、というと、なんだか弱くなっちゃいそうに感じるので、

今回は「あなたは」の言葉も、結構、使ってみます(これは

書く前の自分予想です。いつもはなんとなく、

多用しないようにしている……)。

でも別に「あなただけ」に限った話ではなく、人間全員、とさえ

言えるような話なので、ただの呼びかけだと思ってくださいね。

あなたは常に「○○がない」と、どこかで何か、

考えていたり、不満に感じたり、おびえていたり、するかもしれない。

「△△は持ってるけど、○○がない」「□□はまだぜんぜん足りない」

それはお金だったり、家だったり、地位や名誉や立場だったり、

他者との関係性(恋人、家族、友人等)だったり……だよね、たぶん。

そして常に「アタマのなかの考え」で、自分を動かしている。

「○○しなくちゃ」「△△の予定は」「次は□□だ」

この、2つが、自分のなかにある、ということ自体は

(○○がない、と今まで一度も思ったことがないって人は……

よかったですね、おめでとうございます)、

まあ、普通のことだと、感じてもらえると思う。

で、まず「○○がない」のほうから。

物質的なことを例にしてみようかな。

家、車、服、身を飾るもの。そうしたものを「交換する媒体」、

道具であるお金(ゆえにお金という存在は、交換において便利なツール)。

これらを私たちは通常、「自分のもの」として「所有」する。

「私が買った(労働をお金に交換して、それをさらにモノと交換した)」

「私のもの(自分がお金払ったんだから)」っていう感覚。

この「所有」って、経済を成り立たせる上での「概念」だよね。

「持っている」という感覚、意識、認識。

で、それを、私とあなた、私と他の誰かの間で、

差、違いをつけるために使ってる。

意味がわからない? じゃあ、こう言ってみようか。

あなたは、そのモノを「作っている材料」を、自分で生み出しましたか?

もし仮に、人間以外の生きものや、鉱物的なものにも

「所有する」という意識、感覚があったとすれば。

牛は「そもそもそれって、私の皮なんですけど、

黙って勝手に持って行きましたよね」と言うでしょう。

植物「それは、私の繊維です」

砂「このガラス、私の仲間が高温によって変化してるだけなんですけど」

……わかるかな。あなたがたまたま「所有」しているように思えるものって

全部、どこかから「人間が断りもなく勝手に」持ってきたもの。

で、さらに、地球はこう言うでしょう。

「とんでもない、有機物にせよ無機物にせよ、

それ、もとは全部、私の上でできたものですから」

太陽「いや、あの、先に私がいて、そのおかげで地球もできたので、

そもそもそれ、私の所有物です」

宇宙「何を言ってる、太陽は私ができ始めたあと、できたのだから、

全部私のものだよ」と。

ほかのものが幸い、そうした「所有権」を主張しないで済んでくれてるので

私たちは「持っている」つもりになれるわけです。

え、説教くさいって?(笑) だって単なる事実だよ。

人間は頂点ではなくいちばん最後(ホントはまだ、いろいろ新しく

作られているっぽいんだけど今のところ亜種扱いだよね、

たとえば色違いの虫とか菌の変化とか)に

なんだか「作ってもらったもの」でしょ、一応。

細胞群、それが集まった動物の「こうなっていったら、

より、生きていくのにいいんじゃない?」的な変化により、

結構、最後のほうで、生まれさせてもらったもの。

なのに、それを説教とか概念とか言わないでね(笑)

他のモノたちが優しくて文句言わないから、そんなこと、

やってられるんですよ。

「いや! 殺さないで!」って人間の言葉で絶叫する牛や鶏、

植物や細菌がいたら、とんでもないことになるよねσ(^_^;)

人間自体、生きていけなくなっちゃう。

で、なぜそんな、かりそめのものを自分が「所有してる」などと思うのか。

これがさっき言った「私」と「あなた」の違い、他者を区別するため。

経済活動って、そういう「意識・思考」的な面を含んでいるわけです。

たとえ実体的に感じる部分があったとしても、

「人間が人間同士の関係のためにつくった約束、ルール」にすぎないことは、

その基本である貨幣、を考えればわかってもらえると思う。

お金の価値って、単なる「決まりごと」。

物体としてはある種の紙とある種の金属でしかない。

だからそこから発生する所有も「アタマのなかで作ってる」概念で、

所有したいのは「比べる(あるいは奪う)相手がいる」からなのです。

他者がいなければ、自分が「所有したい」とか

いちいち、思わなくていいでしょう?

そこにあるの、いつでも使えるわけだし。

 

~長くなるので、次へつづきます~