その1、その2はここからどうぞ。
もう一度、言います。
思考は、あなたのなかには湧いてくるけれど、
「あなた自身」ではない。
あなたが抱えているもの、その所有物やら問題やらとも、
あなたはイコールではない。
そして私たちは常に「今、この瞬間」を感じられる存在。
じゃあね、その「思考」、そのものも、
まさに「今」、眺めてみればいいんだよ。
だってそれはあなた自身、ではなくて、
アタマのなかに「今」湧いてるもの、にしかすぎないから。
欲、志向、希望、要望、不安、怒り、戸惑い、喜びもうれしさも。
そういう感情、思考が
「ああ、今まさに、私のアタマのなかにあるな」って。
そうすると、「喜び」は、もっとじんわり噛みしめられて、
ありがたさまでくっついてくるよ。
そう感じられる自分、というものがここにいるや。
今、感じさせてもらえてるな、そういう瞬間なんだ、
うれしいな、こういう瞬間があるって、なんかありがたいな、って。
遠くから眺めることで、増幅する。
「苦しみ」はね、少し、落ち着いて眺められる。
私は「苦しい」って今、感じてるんだな。
頭のなかで、それが湧いてるよ。
そしてどんよりした空気のような重さ、そんな「体感」まである。
でもこれ、自分自身じゃないんだ。
単なる「思考」のひとつなんだ。
確かに「苦しさ」は、感じてるけど、
「私そのもの」とは、これ、「別」なんだ、違うんだ。
「私が今、感じていること、考えていること」と、
「私そのもの」は、ごっちゃにしなくていいのか。
解決策云々、は「今」この瞬間、とりあえずなし。眺めるだけ。
怒り、の熱さ、
別離、の冷たさ、
同感、共感の温かさ。
それぞれを「今、感じている」自分がいるな、ってこと。
その視点に立てるようになっていくと、
出来事や問題とそれに対する感情、気持ち、
そこと自分がはっきり分かれて、眺められるようになる。
眺められるようになると、全体像も見えるようになってくる。
そうしたら「今、できること」も少しずつ、
時間を置いてになるかもしれないけれど、
だんだん、わかってくる。
あなたがいられるのは常に「今」の時点だから、
少し落ち着いた、さっきよりは「よい今」になったと感じたとき
その瞬間から、何か思いついたことを、動けばいい。
そうしたほうが「よい思いつき」解決につながるアイデアも
生まれる可能性が実際、グンと高くなるみたいよ、
いろいろな人の話や体験を聞くと。
だってすごく小さいことからでいいんだもの、別に。
本当は所有してない、思考でしかない「過去」と「未来」
(しかも未来は保証なし)ばっかり見て
なんとかしようとアタマでさらに思考し、
苦しんで悩みまくって、自分の欲に対する答えばっかり
未来へ(思考のなかでのみ)探し求めなくても、
「今は眺める」という、まずできることによる「変化」を
感じるつもりになればいい。
解決にはまだ、具体的に何もつながらなくても、
気分転換で動いてみればいい。そしてまた
その瞬間そのものを、今はまず味わってみればいい。
思考を自分と同一視しなくなるなら、気分転換も上手になる。
そしてそれは「今まず眺めていくためにできること」であって、
逃げ、ではない。練習。
眺められるようになるまで、アタマを切り替えていくだけの話。
眺める、やってみる、眺める、試してみる、眺める。
その積み重ねと繰り返しこそが、
いつか「未来が今になった瞬間」のあなたを、
結局は、変えていくことにもなるのだ。
ふだんから「今の自分の思考や感情、
そして周囲を眺める」、そんな感覚の練習。
「本当は借り物なんだけど、所有した気分」が可能になることも含め、ね。
問題などとはまったく関係なし、別の何かのタイミングのときに。
買おうがもらおうが、何か概念的な、立場っぽいものとか相手の思いやりとか
太陽がきれいだなあとか、そういうもの、ことを得ようが。
それを感じたときに「いいな」「うれしい」と思えたら
(思考に囚われないようになれば、そういうのも見渡せるようになる)、
そのとき、その都度、その瞬間できちんと味わえるようになり、
「ありがとう」「うれしいな」
食べものなら「おいしかった」「ごちそうさま」って、
それを提供してくれたすべてに(宇宙から太陽から地球から材料から、
作ってれた人、そのときそこに一緒にいてくれた人まで全部含め)、
もっとうれしさを感じながら、感謝もできるようになるから、さ。
にぎやかなレストラン、その明るい空気、雰囲気のなかに
自分が今、いられて、一緒に(隣の席の見知らぬ人であったとしてもよ!)、
同じタイミングで、空間を分かち合いながらご飯を味わえること。
そこでわざわざ「アタマのなかにて比較」なんて思考、しなくていいでしょう?
何をしたいのさ、ご飯時に。「今」を味わうことのほうを選ぼうよ。
一人のとき。静けさのなかで、音楽を聴けること。
そうした瞬間、瞬間を、自分が得ていること。
他者だって、「思考」とイコールの人ではない存在なのだ、もちろん。
その本人は気づいてないかもしれないけれどね。
あなたはただ、その人に対する、その瞬間の「自分が感じたもの」と、
「その人が感じているであろうこと」、そしてそれとは別の、
自分自身、相手自身を、それぞれ眺めてみればいい。
そんなふうに、ものを、空間を、他者を、自分の思考をも、
自分そのものではない、
でも「今」関わっている、関わってくれているものとして認識し、
「今この瞬間」、まさにそれを、眺めてみる。
そんな練習をすればいずれ、眺め上手の感謝上手になれるから、
毎日「普通に」、いくつも何回も「楽しかったりするわ」になっていけます。
瞬間、瞬間、味わえばいいだけだから。
ドタバタさえ、眺められるようになるよ。
で、そのほうが落ち着けるから、
「ああ、今は置いといて」とか、あるいはとりあえず、
「ん、じゃあまず今、こうやってみるかな」ってことになれる。
なんとなく振り回されないようになって、わりと落ち着いていられて、
おまけに楽しめる感覚、をいくつも、増やせれば?
人はその瞬間を「平穏」とか「幸せな状態」と、呼んだりするわけです。
そんなの、イヤなんだもん、私は自分が望んだ通りの状態にならないと
幸せなんて感じないもん!
って方は、そうですか、では、いつまででも
「今」を感じず、そのときどきのうれしさも喜びも全部、見逃して
アイデアを思い浮かべられるかもしれないタイミングも逸して、
自分のアタマのなかの「観念」と「欲望」にだけしがみついて
「できなかった」「いつか」「どうすれば」「あいつが」って、
解決策に苦しんで人を恨んだりもしつつ、
悩んでいってくださいな。そこは選択、ご自由に。
王様になるとかすれば、ちょっとはその希望、叶うんじゃないかしら。
いろいろ、同一視せず眺める練習から始めて、
落ち着けるようになってからちょっとずつやってみたりさ、
何よりまず気分的に、単純にラクになれるしさ、
お風呂に入ってるときとか、そういう別のタイミングで
アイデアも湧いてきたら幸いだしさ。
そうやって毎日を味わいながら、いいじゃない、
先に幸せは幸せとして、感じて受け取っていれば。
やがては思いついて動けるさ。そうやって Let’s 悩み減らし☆
いやほんと、数々の書籍類とそれをつくってくれた人たちに、
今回はさらに感謝な気持ちです、今の私m(_ _ )m