カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

追い詰めるのが向いていない人

自分を叱咤して「これではまだまだ ダメ」と感じて

たとえばテストで90点取れても 落ち込んできたタイプの人は

自分を追い込みすぎて 鬱にも至ったりする

ねえ その 自分の足りなさを否定して がんばろうとするやり方が

病にまで通じてしまう あるいはそれに近いのなら

あきらかにそれ やりすぎ なんだよ?

あなたの場合は その捉え方 もはや 向いていない

うまくいかなかったことにだけ もはや 執着しているとも言える

ごめんね 苦しんでいるのに こんな書き方して

でも 叱咤 つまり自分を追い込めば 追い詰めてがんばれば

なんとかなるというのって 真実 ではないのさ

何をどうがんばろうと 努力しようと ダメなときはダメで

それは あなたのがんばりとは

まったく関係ない理由で そうなったりもする

人間関係でいえば

相手の問題であることを あなたが解決しようとしても

相手が気づかない限り 届かないことは 普通にありえる話で

がんばったのに と 思うあなたの気持ちは

「成果を出せなかった」ことに対する 後悔ってことになる

問題の本質からは もはや 離れたうえに

自分だけが勝手に決めつけ 自分を責めている

結局ひどいことしたんだわ 私ではダメだったのに

私には 足りなかったんだわ 能力や才能や その他のものが

いや そうじゃないよ

相手の問題を 自分ががんばればなんとかできる という思い込みが

そもそも ずれているんじゃない?

あなたは神様になりたいの? って話になるのよ

すべてをうまくいかせることなんて 誰にもできないのに

人間関係であろうが 公的な立場を保つ(仕事とかね)ことであろうが

自分がターゲットとして定めたものに関しては

「うまくいかなければいけない」なんて決めつけたら

うまくいくまで 自分のことを 否定と非難しか できなくなるよ?

それに人間関係の場合でいえば  

「うまくいくほう または悪くなるほうを 選ぶ権利」は

相手側にもあってさ

自分でなんとかしようと あまりに思い定めると

ある意味 相手側の権利を 無視してかかるわけだから

結局は その人の気持ちそのものを 無視してるとさえ言える

で できなければまた「自分が悪い」思考に はまるでしょう?

失敗した 格好悪い 恥ずかしい それがどうしたの?

取り戻すことが出来るのよ そんな評価なんて 

今からほかのもので 十分に

ほかのものではイヤだというなら それは執着しすぎってことだし

常に常に完璧で あろうとするから なろうとするからこそ

逆に おかしくなる

だからさ そういうタイプの人の場合

そもそも「できない自分」がいることを

否定すること自体 向いてないのさ

何か起こると すぐ 他人だけを非難して

自分側の問題点は 一切 省みようとせず

こっちは悪くないのにと

あらゆる理由を並べ立てる人にこそ その方法を試してほしいわけで

できない自分を 叱り 否定する形で やり直し続ければ 

いつか「ちゃんと」がんばれて なんとかなる という

その思い込みは 少なくとも あなたには 向いていない

もはや 自分を否定するからこそ

さまざまなことが うまくいかなくなってる

直すとしたら そこだよ

できなかったことに集中する視点より

自分ができたことを 見つめる目を養う練習のほうだよ

自分を否定して 非難しても

もはやあなたは 反省 には つなげづらくなってて

非難と自己卑下と後悔しか できなくなってるから

反省して うん よし って気持ちを切り替えて

その後は「気にしなくなれる」くらいのところまで

もう一度 自分を 取り戻さなきゃ

ひどい例になるけれど たとえば故意に 人を ころして 

他者の人生を 自分側の理由や都合で

勝手に 永遠に奪ってしまったのなら

そこまで取り戻すのは ものすごく 難しい話になるよ

でも あなたは そんなにまで ひどいことしてないでしょう?

だから じゅうぶん 「いていい存在」なのです

自分のあやまちを 自分でゆるして 

気にしてクヨクヨするのは 短い時間でおしまいにして

自分のステキな部分を 楽しんでいいのです 新たに もう一度

それだけの価値は あなたに じゅうぶん 備わっていて

あなたが そこから 目を背けているだけなのです

人生 うまくいかないことがあっても

別に かまわないし だいじょうぶだし

ある意味 当然の話

あなただけが 神様みたいに 完璧にならなくてもいい

そんなのぜんぜん 問題では ない

あなたが うまくいかない自分を 否定し さげすみ 嫌うこと

それだけが もはや今 唯一最大の 問題点なのです

だから その枠から はやく抜け出してね

失敗した あなたでも

じゅうぶん 今のそのままで すばらしいからね 本当は

はやく そのことに 気づいてあげてね

あなたには それだけの価値が 今も確実に あるからね

本当にそう思って だいじょうぶだからね

そこだけは 私 保証できる

だって本当に 本当のことだもの 

あなたは 今もじゅうぶん

これからも いつも 価値あるすばらしい人 です

心地よい あり方 を選ぶ

自分が やりたいことで

かつ 心地よくなるものを

選択することは

自分自身を 

大切にしてあげることに

つながる

うしろめたいこと

心苦しくなること

気分がよくならず 不満が残ったりして

心に引っかかって 尾を引くようなことは 

見つめれば見つめるほど

やればやるほど

自分を イジメることになり

よい心地にはなれない

たとえば 他者を殴る快感は

あとから自分を 居心地悪くさせる

いくら自分を正当化しようとしても

心地悪いことは 変わらない

それによって 自分を嫌ったら

さらに心地悪さを 引きずるだけなのだ

社会など 何か「非難すること」に

わざわざ目を向け続け 罵倒を続けるのも

どこか 自分を正当化したいからで

自分を 正当化したいのは

どこかで実は 自分を 非難している部分が あるのかもしれない

ひどいことから 目をそらせ と言っているわけではない

私だって 社会のことを 口にする

でもそれは どこを目指したいかを自分で整理して

うん そのほうが より 未来が明るくなり

自分が 相手が 周囲が みんな 心地よく感じられるな

と思えるものを 改めて 自分に

気づかせるためにやろうと 心がけている

だって素敵な未来を 創りたいから

自分にとっても 周りにとっても 

心地よくなる方向のものを 選びたいのだ

だから 怒りも なるべく どこへ向かえばいいか を感じるように

その気づきのために 使いたいと思うし

なかなか 難しくはあるけれど 

おそれも できるだけ そう使いたい

そんなふうに 自分に心地よい方向のものを

毎瞬 毎瞬 選択することは

自分の『あり方』を変える練習だと

私には思えている

『やり方』でなく『あり方』

あり方が変われば だんだん やり方も 変えられるのだと

何か やるときも

できない と決めれば 実際にやっても 

うまくいくはずがない

それでもね

うまくできなくても

失敗しても

やったほうが 自分に心地いいときは

やることを選択すると あとから

「やれたことそのもの」が うれしくなる

他者の目ではなく

自分の目で 自分に

心地よくなったね

頑張って楽しかったね

ちょっと ほめてあげようかな 自分を

と思えることのほうを 選択する練習を積めば

結局 自分が心地よくいられる練習を 積むことになるのだ

行動は あり方を変えるための ただの手段のひとつ

そんなふうに 捉えられるようになると思える

だから これからも 私は

自分が 心地よくあること

そのための

心地よくなること を 選ぶ

それはいつか 必ず

他者もまた 心地よくあることに

つながると思えるから

win-winのほうが よりうれしいから

そのための 毎瞬のあり方の練習

言い訳や 自己正当化でない

ただ素直に よいと思えることを

なるべくたくさん 自分で選択したい

空が青くて心地よいな

目が見えて 青さを心地よく感じられて うれしいな

世の中が平和で 

だから空も見られる余裕が持てて ありがたいな

そんなのでも 良いわけだし

誰が見ていなくても

すがすがしい気持ちになりたいから

道端のゴミだって

ときに拾って捨てるのだ

何をか を 別に得なくても

何をか を 達成しなくても

そういう一つひとつを 自分がより多く選ぶことが

心地よいあり方だと 自分をうれしくさせるあり方だと

私には 思える

イヤな感情そのものを 否定しすぎない

人間 イヤなことは 起こります

そのとき 当然 イヤな気分になります

そんなの 普通です

あなたが 劣っているせいではない

イヤな出来事 イヤな感情は 誰だって イヤです

ただね そのとき その感情を自分が否定しすぎると 

逆にもっと とらわれたりもします

暗い気持ちのときに 何がいけなかったか 

反省しようとしても なかなかうまくいかず

先日書いたような 後悔へとつながりやすいだけだし

あるいは単純に

イヤな感情にとらわれてるな

抜け出せないな

抜け出せないよ

ああ こんな自分がさらにイヤ

これをやると

イヤな感情の上塗りになるだけです

そのことで 切り替えられない自分を否定し

誰かが関わっている場合は

その相手のこともまた 思い出します

そして過去のイヤな出来事も 連鎖して思い浮かべる

それって 嫌うあまりに 否定しすぎなのです

そう わざわざ イヤな気持ちを

増幅させるほうを 

自分で 選んでいる

ということになってしまいます

鬱の頭の人などは とくに

ネガティブ感情を忘れようとするあまり

自分を そんなイヤな感情の渦の中へ 導いてしまったりもします

そういう回路を 作りやすい 脳みそだからね

だからこそ あえて わざと

目の前のことに 集中する

なるべく その今 やってることの よい点を探し

そこだけを 意識的に見つめるのです

ボーッとしてるなら

ボーッとできる自分を 喜び

ほめてあげていいのです

そんな時間自体 持てることは

実は 幸せだから

ありがたいことだから

そういう環境下でないと

ボーッとする時間さえ 取れないこともあるから

ありがたいな 心地いいな と捉え続ける

逆にやることが いっぱいな人は

やれることがある という状態自体を

感謝することもできます

身体がちゃんと動いて それを任されている からです

そういうものを 得られることも

幸せなのです

要は あなたの 受け止め方 ひとつ

ゆったりすればするほど

私は優雅に過ごせている

動き回れば回るほど

私は元気に 恵まれていて ありがたい

そういうふうに捉え

目の前のことの よい面に意識を集中し

楽しむことに 気持ちを集中し

自分を 自分で 楽しませてあげる時間を持ってみてください

ふだんと同じことをするのでも

これは楽しい ここは好きかも

と思える部分を見つけ

それをあえて意識できるかどうかで

1日の疲れが 全然変わってくる

ああ 今日も あの部分を楽しめた と思えれば

自分で満足感さえ 湧くのです

イヤな感情があるときは まさに

そういう練習をする「チャンス」なのです

その機会を どうぞ逃さず 練習して

自分を 楽しませてあげてください

もちろん 自分にとって心地良さそうなことを探し

そちらに意識を集中するのも

自分を大切にするうえでは

とてもよいことだと 私には思えます

あなたの日常のなかにある

その当たり前は 

決して 決して 当たり前ではなく

ありがたいこと 恵まれていることだったのだと

少しでもたくさん 気づけますように

そして イヤな感情を思い浮かべる時間そのものを

短くできますように

自分が何を見つめるかは 自分で選択してあげていいのです

そういう許可そのものも 自分に出してあげられますように

自分を大切にできる そうした切り替え練習が

上手になっていけるよう 祈ります