カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

安心することは自己の安定を生み出し、その安心は「自分がつくれる」ということ

昨日、ある方へコメントを書いたときから

徐々に自分のなかで形になっていったこと。

あえて『常識ではない』例も出すので、意味不明にならないよう、

気をつけて書いていこうと思う。

 

あ、先に、昨晩コメントを入れさせていただいた方へ。

読んでくださっているかどうかわからないけれど、

とても大きなインスピレーションをいただけました。

コメント自体は、スパッとした言葉で書いてしまってごめんなさい。

でも、はっきりとした違和感、を感じられたのです。

それが今回の記事につながりました。感謝します。

 

さて。

自分が安心したい

安心しながら生きていきたい

 

これって「そう思わない」人のほうが少ないだろうと思う。

 

安心できれば、しかもそれが継続できそうな感じなら、

そこでこの先の未来についても、しばらくは

とりあえず安心できそう、な「気がして」、

つまりはそれが

私がしばらく安定していけそうだわ

という希望につながる、と。

 

一歩間違えれば、保険の勧誘みたいなことを書いているけれど

この安心も、そこから生まれていく安定も、

自分でつくり出さずに「外側からもらおう」とすると、

とたんに苦しくなるんだなあ、と。

 

こういう形で「安心」を得るべきだ、「安定」を作り出すべきだ、

という、今の社会的なルールに囚われすぎてしまうと、

「こういうやり方で安心することが成功だ、勝ち組なんだ」みたいな話になり、

「安心」をくれない、「安定させてくれない」他者を憎むことになり……。

 

結婚、収入、出世、名誉、外見……すべての「外側」について

アイツが協力してくれないだの、邪魔するだの。

これが究極になると、

自分の思い通りにならないから、気に入らないから殺す、

なんてところに発展する。

外側に求めすぎた、なれの果て、とも言えると思う。

 

あのさ。

安心、って、自分でつくって良いんだよ。

自分で安心をつくり出したら「負け組」っぽい?

誰か立派な人(守ってくれそうな人とか、偉い人とか)を得ないと、

世間に「ほらほら!」って偉そうには顔向けできない?

親に認めてもらえなさそう?

誰のために生きてるの?

 

それにさ、成功者って呼ばれる人、

みんな自分で自分の安心と安定、つくってるよ?

どうしても世間的に、の一面が欲しいなら、

自分でつくったほうがよっぽどあなたも、

そう「思ってもらえる」よ?

 

っていうか、成功だけが安心を生むんじゃないよ。

成功、なんてものは「安定」させるために

ずっと「不安」と戦う必要あるよ? 

外側のもので「成功」をつくったら、

その「外側」を永久に保たなくちゃいけないから。

ずっと不安で、つまりはそれ、不安定を自分でつくり出すってことだ。

 

まず、何よりも、安心、って、

自分が、自分にとって心地よいものを決めて選んでいいんだ

って知ることでも、それを実践することでも、得られるの。

外側の「評価」に振り回されずに、得られるの。

実はそこが、スタート。

他人の思惑よりも、自分の「感覚」に従っていいの。

 

これがメチャクチャ怖い、って感じる人もいること、よくわかるよ。

私もかつては「家族の言うこと」にさえ従っていればいいんだ、

間違いじゃないんだ、っていう思い込みを、

まさに生身で実践してたからさ。

 

ところがどっこい。

その思い込みを離れ、

自分の好きなもの、と、集中的に「つきあい」始めたら

自分の心が安心もしたし、安定もしたのですわ、あっさりと。

 

他者の意見に、動じなくなった。

あなたはそう感じるのですね、で済む。

たとえば、

その心配という形の思いやりだけ、いただきます、ありがとう、

でも私、とても今、落ち着いていられます、

なんとかするのも自分でやっていい、とわかったから、

という感じのことを素直に言えるの。

 

ここでいう「自力」はベースが自分であっていい、という意味ね。

自分だけでなんとかできるんだ、という「おごりの気持ち」ではない。

なんとかしていくために、他者の協力を「あおぐ」けれど

「なんとかする」の部分はまず、自分の感覚に従って

自分でやっていいという「許可」を、自身に出せる、っていうこと。

 

すると、安定、という意味では社会に「ほらほら、どうよ!」って

自慢できるものが『あってもなくても』よくなる。

そもそも、そういうのを目的にしなくてよくなる。

 

もし、たまたま、そういうものが生まれたら、

それは協力してくれた方々のおかげでもあるから

そこには感謝しか生まれなくなる。

 

そういうサイクルに、自然に変わっていく。

 

これを一生懸命、伝えてくれている人も世の中には増えてきていて、

あなたが「成功」「安定」だと思っているものは外側だから苦しいんだよ、

安心ってそんなことからは生まれないよ、って

私もたくさん、教えてもらって、学んで練習してきた。

これからもずっと練習していけばいいのだと、

今はもう、わかっていて安心できてるよ。

これって「自分の安定」でもあって、とてもラクなのだ、自分が。

他者に縛られない代わりに、『自分』という責任は負うよ、

でも本気で、昔よりはずっとずっとラク。自分を信じていいからさ。

 

少なくとも、自分の「好き」は、

自分にしかわからない大切な「感覚」なんだから

それは貫いていく「勇気」を持ってよいと思えるよ。

 

一つ前に書いた「自己観察」も、そのための視点。

私が何を感じているのか、を見守ることって

社会の常識やらと、自分の好みをすりあわせることじゃない。

 

すりあわせようと思うから葛藤が生まれて、

自分のなかで、自己感覚と

「自分が捉えていると思っている世間」に従わなきゃ怖い!

という「アタマのなかの理屈」が戦うことになる。

いっつもそこで、勝ち負けになる。

 

そこには「安心」なんて、ひとかけらも生まれはしないのだ。

 

この「自分の気持ちがどこを向いているか」を「ガスの元栓」に

たとえてくれた心屋さんの記事を1つと、

あなたの思う「常識」は本当に『素晴らしくて正しくて、

それ一つしかない』ものではない、

ある「ものの見方」には、必ず光も影も両方、備わっていて

どれが正しいとか、そんなことは言い切れないのだ、ということを

明確に教えてくれる堀江昭佳さんの記事2シリーズを、

最後にご紹介しておきます。

 

とくに堀江さんの記事は、彼の言う「ものの見方」のほうが、素晴らしい! 

ということでもなく(そんなことはご本人もおっしゃっていない)、

「常識の両面性」について、感覚をつかんでもらえたら、

というつもりでリンクします。

いやでも、この人も勇気あるなあ、すごいわ。

感謝m(_ _)m☆

 

◎心屋仁之助さん
『★うつやパニックは病気ではない』
http://amba.to/1qTd2k9

 

◎堀江昭佳さん
『「食う、寝る、遊ぶ。」~人間は働きだしてから不幸になった。その4~』
http://amba.to/1Osv96g
(1~4 まで。全リンク付きの、最後の記事です)

『「人間は、一夫一婦制の生物である。」←うそだよ。その6』
http://amba.to/1Ucs9wx
(1~6 まで。これも全リンク付きの、最後の記事を)

 

ようはどこでバランスを保っていくか、自分で選んでいいってこと。

少なくともその自覚、持ってみようよ。

自分で自分の安心はつくらない、

自分でその責任は負わずに逃げるってことは、

自分の感覚をある意味、殺すことでもある。

少なくとも「自分の安心と安定の責任」、

その根拠を他人に全部、負わせておきながら、

自分の感覚をまったく殺さないでいるという「好き勝手」は

できない、ってことだ。

 

2016_05_29

Photo by stevepb
Pixabay

 

揺れてるわ 違ってるわ

おお 今日はそんな私がいたな

そういえば あのときは こう揺れてたな

 

それを観察している私がいる 

あくまでもニヤニヤと笑いながら

ここはいつも 器 小っちぇー とか

あら 意外に大胆 とか

おや 結構 あのときとは違ってもう平和 とか

 

で この 観察している自分が 

「本当に私が感じたいことって何なのか」を教えてくれるのよ

植松 務さんがおっしゃっていた

「だったら こうしてみたら?」を

自分で見つけていくために

絶対 必要な存在

 

焦る自分も 怖がる自分も いていいの

それはとても 普通で当たり前のことなの

その気持ちが湧くから

「だったら 自分は 本当には どうしたい?」も また

自分に問いかけることができるのよ

 

誰かに良く思われなくちゃ とか こうあるべきなのに! とか

そういうことばっかり アタマで考えている人は

自分が本当に感じたいことは 無視して

自分にさえ アタマで 対処してウソをつく

 

そんなこと 本当はうれしく思ってないでしょう!

ということに 自分で気づけないの

 

自分にさえ「良く思われたい」とか 考えていくんだよね

 

良く思われたいじゃないよ

そんな他人任せっぽい表現 丸ごと捨てなよ

 

私は いつも 私を観察して

へぇー って毎日『感じて』ていいんだよ

 

それを続けていけるかどうかで

「本当はどうしたい」

「だったら こうしてみる?」が生まれるの

 

心地よさ を基準にするって そういうことだよ

考えていくんじゃないよ

感じていくんだよ 本当に小っちゃいことからたくさん

 

理屈っぽいこと並べないで

誰かにどうこう「思われるから」なんていう言い訳もやめて

あなたが自分を観察して 感じて 選ぶ 

こっちを積み重ねてごらんよ

 

そんなのをやったことのない

恐怖心だらけの理屈屋さんには

意味不明かな……

だったらその恐怖心のほうを 先にほどいていけますように

 

伝わる方に 必要なことが 伝わりますように

自己非難という いちばん苦しい自分の追い詰め方を

まさに「これ 馬鹿げているわ」と 気づける日が来ますように

 

それを続けていくから うまくいかないのよ

ただ それだけの話

 

自己非難ってさ 自分の中の自分同士が 対立してこれやってるのよ

これ どちらも自分だよ 何か違うってこと 気づけるよね?

2016_05_27

Photo by PublicDomainPictures
Pixabay

これが「人として正しくあるべきだから そのために必要な姿」

で あるはずないよね?

こんなことずっとやってて

自分が 苦しくならないでいられるはず ないよね?

 

なぜこんなこと 自分がやってるか

そっちを先に解いたほうがいいっていうの

この写真見れば 意味 わかるよね?

 

 

母が「後者」で私が「前者」なのは、もう、どうしようもないことで

すみません、完全、自分用メモです。

 

ウチの母が、心屋さんで言うところの「後者」で、

しかもがんばって「前者であろうとし続けてきた後者」で、

私が「前者」であることは、もう、本当にどうしようもない。

 

やっと、やっと、自分が鬱だったときに

実家へ帰るという選択は、責められるから無理だと思ってできなかったこと、

その淋しさ(自分の人生でいちばん、どうにもならなくなったときに

頼れなかったという気持ち)を抱えていても「私はその私であっていい」こと、

そして母もまた「母らしい個性を備えた人間であっていい」こと、

その部分では通じ合えない、と「私が勝手に受け止めてもいい」こと、

通じ合えなくてもお互いに『愛』は持っていて、感じていて、

もう、それでいいんだ、ということが、実感として心に湧いた。

 

泣けた。

私は「母が示したい形」で愛されてきたし、

それが私の「希望する形」ではなかっただけだった。

 

気づかせてくれた記事をリンクしておきます。

心屋さんの『前者・後者』論に興味のない人には

本当にわけのわからない話でごめんなさい。

 

そして、明かしてくださった、にゃあさんと心屋さん、

心屋さんのリンク先の方々に、感謝します。

 

本当にやっと……なのだろうな、うん、抜けられた~。

いつかチロッと通じることもあるかもしれないし、ないかもしれない。

でも、今の距離を保っていられるのは、私にとって、

そしてたぶん母にとっても幸せ。そう思っていいのだ。

 

もっと『今』に生きていこう。量子的なことも意識しよう。

仕方ない、私は結局、母のことが好きだし(この歳になってもね)、

母はどうしたって、あのやり方で、私を心配してくれるのだ、愛ゆえに。

そこで起きるズレ、しかも過去の記憶の中にある「残念さ加減」を、

後生大事に抱えて、みずから、疑問と罪悪感と淋しさに縛られる必要なんて、

どこにもないのだ。

 

最後にリンク。

大きくうなずいて、納得してしまった。これが標準でもいいのだ。

母の思いや考えがあるはず、と勝手に読み取ろうとしていたのは、

ヘンに気を回して「良い子だと思ってもらおう」としていたのは、私だった。

◎にゃあ さん
『後者vs前者』
http://amba.to/1OCKD7N

 

たまたま母という立場にある、前者ぶった後者さんに、

罪悪感を「持つ練習」をさせられていたことにも気づく。

あ、決して悪い意味でなく、

母は「人への思いやり」について母の表現で伝えただけ。

そこをあえてこじらせて「呪い」にしてきたのは、これまた、私だった。

◎心屋仁之助 さん
『■そんなこと言っていいと思ってんの? していいと思ってるの?』
(この記事内の「前者、後者」は、一つ前の文章を指す単なる表現で、
論で言う「前者・後者」ではない。ややこしい)
http://amba.to/1D9cbiu

 

ご本家版「前者後者」論も、最後のまとめのみ。さすがです。

◎心屋仁之助さん
『■【永久保存版】前者・後者、完結編』
http://amba.to/1SHQjmR

 

2016_05_20

想い方が違い、表現の仕方も違う。ただそれだけ。
それぞれ持っている愛はある。その「違い」に優劣なんてつけられない。
なのに、望んでる形じゃない! とやっていただけだった。ふぅ(^^;)

Photo by GDJ, ArtsyBee
Pixabay