おお 今日はそんな私がいたな
そういえば あのときは こう揺れてたな
それを観察している私がいる
あくまでもニヤニヤと笑いながら
ここはいつも 器 小っちぇー とか
あら 意外に大胆 とか
おや 結構 あのときとは違ってもう平和 とか
で この 観察している自分が
「本当に私が感じたいことって何なのか」を教えてくれるのよ
植松 務さんがおっしゃっていた
「だったら こうしてみたら?」を
自分で見つけていくために
絶対 必要な存在
焦る自分も 怖がる自分も いていいの
それはとても 普通で当たり前のことなの
その気持ちが湧くから
「だったら 自分は 本当には どうしたい?」も また
自分に問いかけることができるのよ
誰かに良く思われなくちゃ とか こうあるべきなのに! とか
そういうことばっかり アタマで考えている人は
自分が本当に感じたいことは 無視して
自分にさえ アタマで 対処してウソをつく
そんなこと 本当はうれしく思ってないでしょう!
ということに 自分で気づけないの
自分にさえ「良く思われたい」とか 考えていくんだよね
良く思われたいじゃないよ
そんな他人任せっぽい表現 丸ごと捨てなよ
私は いつも 私を観察して
へぇー って毎日『感じて』ていいんだよ
それを続けていけるかどうかで
「本当はどうしたい」
「だったら こうしてみる?」が生まれるの
心地よさ を基準にするって そういうことだよ
考えていくんじゃないよ
感じていくんだよ 本当に小っちゃいことからたくさん
理屈っぽいこと並べないで
誰かにどうこう「思われるから」なんていう言い訳もやめて
あなたが自分を観察して 感じて 選ぶ
こっちを積み重ねてごらんよ
そんなのをやったことのない
恐怖心だらけの理屈屋さんには
意味不明かな……
だったらその恐怖心のほうを 先にほどいていけますように
伝わる方に 必要なことが 伝わりますように
自己非難という いちばん苦しい自分の追い詰め方を
まさに「これ 馬鹿げているわ」と 気づける日が来ますように
それを続けていくから うまくいかないのよ
ただ それだけの話
自己非難ってさ 自分の中の自分同士が 対立してこれやってるのよ
これ どちらも自分だよ 何か違うってこと 気づけるよね?
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Pixabay
これが「人として正しくあるべきだから そのために必要な姿」
で あるはずないよね?
こんなことずっとやってて
自分が 苦しくならないでいられるはず ないよね?
なぜこんなこと 自分がやってるか
そっちを先に解いたほうがいいっていうの
この写真見れば 意味 わかるよね?