母が「後者」で私が「前者」なのは、もう、どうしようもないことで

すみません、完全、自分用メモです。

 

ウチの母が、心屋さんで言うところの「後者」で、

しかもがんばって「前者であろうとし続けてきた後者」で、

私が「前者」であることは、もう、本当にどうしようもない。

 

やっと、やっと、自分が鬱だったときに

実家へ帰るという選択は、責められるから無理だと思ってできなかったこと、

その淋しさ(自分の人生でいちばん、どうにもならなくなったときに

頼れなかったという気持ち)を抱えていても「私はその私であっていい」こと、

そして母もまた「母らしい個性を備えた人間であっていい」こと、

その部分では通じ合えない、と「私が勝手に受け止めてもいい」こと、

通じ合えなくてもお互いに『愛』は持っていて、感じていて、

もう、それでいいんだ、ということが、実感として心に湧いた。

 

泣けた。

私は「母が示したい形」で愛されてきたし、

それが私の「希望する形」ではなかっただけだった。

 

気づかせてくれた記事をリンクしておきます。

心屋さんの『前者・後者』論に興味のない人には

本当にわけのわからない話でごめんなさい。

 

そして、明かしてくださった、にゃあさんと心屋さん、

心屋さんのリンク先の方々に、感謝します。

 

本当にやっと……なのだろうな、うん、抜けられた~。

いつかチロッと通じることもあるかもしれないし、ないかもしれない。

でも、今の距離を保っていられるのは、私にとって、

そしてたぶん母にとっても幸せ。そう思っていいのだ。

 

もっと『今』に生きていこう。量子的なことも意識しよう。

仕方ない、私は結局、母のことが好きだし(この歳になってもね)、

母はどうしたって、あのやり方で、私を心配してくれるのだ、愛ゆえに。

そこで起きるズレ、しかも過去の記憶の中にある「残念さ加減」を、

後生大事に抱えて、みずから、疑問と罪悪感と淋しさに縛られる必要なんて、

どこにもないのだ。

 

最後にリンク。

大きくうなずいて、納得してしまった。これが標準でもいいのだ。

母の思いや考えがあるはず、と勝手に読み取ろうとしていたのは、

ヘンに気を回して「良い子だと思ってもらおう」としていたのは、私だった。

◎にゃあ さん
『後者vs前者』
http://amba.to/1OCKD7N

 

たまたま母という立場にある、前者ぶった後者さんに、

罪悪感を「持つ練習」をさせられていたことにも気づく。

あ、決して悪い意味でなく、

母は「人への思いやり」について母の表現で伝えただけ。

そこをあえてこじらせて「呪い」にしてきたのは、これまた、私だった。

◎心屋仁之助 さん
『■そんなこと言っていいと思ってんの? していいと思ってるの?』
(この記事内の「前者、後者」は、一つ前の文章を指す単なる表現で、
論で言う「前者・後者」ではない。ややこしい)
http://amba.to/1D9cbiu

 

ご本家版「前者後者」論も、最後のまとめのみ。さすがです。

◎心屋仁之助さん
『■【永久保存版】前者・後者、完結編』
http://amba.to/1SHQjmR

 

2016_05_20

想い方が違い、表現の仕方も違う。ただそれだけ。
それぞれ持っている愛はある。その「違い」に優劣なんてつけられない。
なのに、望んでる形じゃない! とやっていただけだった。ふぅ(^^;)

Photo by GDJ, ArtsyBee
Pixabay

 

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