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相手を傷つけたい人の話

人を傷つけたい人に出会い、自分が傷つけられたとき。

その相手の人は、そのとき本心から「攻撃したい、傷つけたい」と思い、

あなたに対し、ボロクソに言ったりします。

普通、他人に向かってそんなふうに「傷つけたいという欲求」を、

自分が持つことはない……という人が多いかと思うので、

攻撃された側はたいてい最初に、まず驚きます。

そして次に「ふだんから自分を卑下するクセがついている」(鬱の病に

かかっているときなどもそうですね)人の場合、

自分がそもそも、そんな感情を抱えたりしないがゆえに、

「ここまで言うからには、私がよっぽどひどいのでは」と

言われているうちに、捉え始めたりもしてしまいます。

が、しかし。

もし、もし万が一、あなたに落ち度があったとしても、

「ボロクソな言い方をすると人は傷つく」ことを、普通、人は、知っています。

あなたを「よりよくしたい」という思いやりの心が(それが相手側の

勝手な都合による思いやりだとしても)ある場合、

そんなボロクソな言い方にはならないでしょう。

つまり、相手をボロクソに言う人は、

まさにボロクソに「相手をやりこめ、傷つけたい」からこそ、

それをやっているのです。

その際に、あなたが何をどれくらいしたか、は

あまり……というか、ほとんど、関係ないことも多いのです。

「本当に相手が激怒するくらい、悪いことをした」覚えがあるなら。

こちらだって一瞬まず先に「そんな言い方をしなくてもいいのに」という

反抗心、みたいなものが芽生えるはずです。後ろめたいから。

思わずムッとしてしまったり、さらには同時に

「あ、やばい、やっちゃった」みたいな焦りも沸いたりするでしょう。

残念なことに、こちらが最初にまず「え?」ととまどったり

「は?」という感じであっけにとられてしまうのであれば、

相手側はほぼ間違いなく、「自分の力で傷つけたい」からこそ、

ボロクソに攻撃してきているのです。

さて。

心理学やら世界各種の大きな宗教やらの本を読んでみると、

こうした心理的攻撃は「自分を守り、かつ優位に立つために仕掛ける」とされており、

しかも「そういう方法のほうが、より自分を守れる」と考えているときに、

先制で行われたりする場合が多いようです。

つまり状況によっては「本気で自分の都合だけ、

自分を優位にしたいがためだけに、攻撃できそうな対象者に向かって

攻撃を仕掛けてくる」なんて事態も十分、起こりうるわけです。

そういう場合、なぜそんな方法でしか、その人が相手に向かえないか、というと、

その人自身が、自分の不満を自分で解消できないから。

せめて自分より弱者を攻撃してやり込め、相手が傷つき、へこむのを見てやっと

『自分には力がある、だいじょうぶ』と、そこで安心して自分をごまかせるわけです。

これに支配欲も絡んだりすると、性的暴力へもつながったりしちゃうわけです……。

そういう「一方的な傷つけ方」をしたいのは、

その人が自分の欠点を自分で認められなかったり、

その欠点をたまたま指摘され(あるいは自分で勝手にそう捉え)逆ギレしたりするため。

つまりは「その人自身の弱い面ゆえ」ってことです。

そのような相手から「こちらが傷つくことを望まれて」攻撃された場合、

本当ならそれにおつきあいする必要性は、こちら側にはありません。

相手の弱さを隠す、ごまかすための行動に、応じてあげなくちゃいけない理由なんて

こちらには存在しないのです。たとえ親や配偶者、子どもであっても。

愛ゆえ? いいえ、相手を思いやる、愛ある行動であるならば、

「傷つかないよ」と完全に流し、相手の目を真摯に見つめるほうが、

本来であればよほど「愛」として伝わるでしょう。

イギリスからの独立を果たしたインドの人たちが行ったのが、

まさにこうした「静かに相手を見つめる」という方法でした。

ただし暴力を伴う状況なら当然、それをするとさらに相手が逆ギレして

こちらに身体的被害が及ぶ危険性がかなりあるため、

目を見つめる方法は避けたほうがいいです(というよりもう、

物理的にその相手から逃げるのが先です)。

我が身を振り返りたくないから、攻撃する人だって、いる。

自分のイライラを抑えきれないからと、

八つ当たり的に攻撃する。そのひとつが子どもの虐待だったりもします。

だからそんなときは、こちらもまず自分のことを考えて、

自分を守ってあげていい。

相手を殴れとまでは言いませんが、

少なくとも相手の攻撃をまともに受け止めて

あなたが「傷ついてあげる」ことは、しなくていいのです。

それは完全に、相手側の問題です。

善意から相手を変えたいとしても、

そんな爆発を本人が起こしている時期には、たいてい、

こちらの言葉も思いも、届きません。時間も必要なことが多いでしょう。

こちらが相手に支配されたくないように、

相手だって、あなたに変えてほしい、とは、その最中、思えません。

意識の奥のほうにある「本人の弱さ」に、よほど上手にアクセスできれば、

劇的に変わったりする可能性もないわけではありませんが、

そのためにはこちら側も「そのための事前の、心の準備」をものすごく

しておかなくてはいけないし、きちんとした心理的な相手の把握、

自分自身の感情コントロールもかなり必要です。

そんなドラマのような展開には、まずあまり、なれません。

あなたがドラマの主人公みたいに振る舞いたいわけでもないでしょうし……。

「他者を傷つけたい」と思う人自身が、そんな自分を変えたい、と感じない限り、

アクセスは難しいのです。この場合は、とくにそうみたいです。

ですからもう一度言います。そんな攻撃を受けたなら、

まずは何より、自分を守ってあげてください。

相手側の問題が浮上したのだということを認めていく。

言いがかりを、きちんと「これは言いがかりだな」と認識し、流すようにしていく。

とりあえずやり過ごし、あとから認識することだってできます。

相手から離れることが一番の対策だったりすることも、実際、あり得ます。

攻撃性、については、本当にそういう場合があり得るのです。

どうか、むやみに、攻撃をまともに受け止めないでくださいね。

そういう相手が、どうしてもしばらく(しばらくであってほしい……)そばに

いる場合は、自分の受け止め方のほうをまず練習してみてください。

それはまた、自分のことを、自分で大切に扱ってあげる練習でもあるのです。

変化のリスク。 ~後編~

同じ言葉で、前のときとは真逆の意図。

実際、私はそれを体験したことがある。

そして2回目のそのとき、以前にはなかった違和感を感じた。

この人は、前の相手とは考え方が違うはず、

何となくそんな「匂い」が、今までしてきてたのに……。

そう思えたので、後日、勇気を出して、今の相手に真意を尋ねた。

すると相手の方は「そんな意味に捉えてたのか! ひどいな」と

少し怒りは見せたけれど、やはり「心配したゆえ」の

セリフであった、と説明してくれた。

それでお互いに謝りつつ、自分のわだかまりを消すことができた。

それは仕事の面での発言で、2回めの相手は

上司(ぶっちゃけ社長)だったわけだけどね(^^;)

今だから言えるけれど、退職もちょっと覚悟してた……。

そんなふうに、前と今を「同じだ」「まただ」と

判断するのは、自分自身の感覚のみでやっているのだ。

そして、もし本当に似ていると感じたとしても

「ならば前とは違う対応を、自分が絶対にするんだ」

と、強く念じて、決意することもできる。

このとき必要なのは、やってみる勇気だけだ。

新しいやり方ゆえ、結果はどうなるかわからない。

でもわざわざ、同じことを繰り返す必要は、まったくない。

まったくないのに、同じ、と決めてそちらを選ぶのが、自分なのだ。

しかも相手は、違う人間。自分が違う反応をすれば、

相手もまた、違った対応になるはず。

たとえもし同じ相手だとしても、こちらが対応をはっきり変えたら、

答える言葉は少しくらい、相手側も変えるだろう(たまにこれが、

ものすごくよい効果を発揮することだってある、同じ相手ゆえに)。

そう、違うことをやってみる勇気、が、

自分の選択を変えてくれるのだ。

このとき、自分のことが大嫌いだと、

その選択にまったく自信が持てないだろう。

でも実は、全然、持てないままでもいい。

そのままでいいから、そのときの最善(と思えること)だけ、選ぶのだ。

そのためには落ち着く必要がある。

「前と同じだ」と思った瞬間、心臓は鼓動を早めるだろう。

だからその場であえて、深呼吸する。

一拍置いて、絶対に絶対に、すぐには答えない。

間髪入れずに答えたほうが、相手に畳みかけることができ、

有利に思えたとしても、いやいや、対応はいくらでも方法がある。

よいことならば、ゆったりと柔らかく答えるのも、またよい印象になる。

反論する必要があるなら、力を溜めて、重量感あるパンチを

繰り出したっていいわけだ。

焦って空振りするよりは、よっぽどいい。

何より。

相手の真意を探るには、こちらも「聞く耳」を持たねばならない。

「前と一緒だ、前と一緒だ」と、頭の中でわざと繰り返してしまうと、

相手のことを無視して、自分の過去の経験とテンパった気持ちで

いっぱいいっぱいになってしまう。

これは本当は、コミュニケーションではない。

相手を疑いまくりなのだから、失礼だよね、やはり。

それでは、相手の言葉は聞けない。意図は絶対、探れない。

以前と何も変わらない方向、同じパターンに陥ることを、

自分からわざわざ、選択してしまうのだ。

経験は、危機を避けるために使う。確かにそうだが、

それは同じ失敗(と思えるもの)を繰り返すために

あるわけではない。そうではなく、

次に違う対応を自分から試してみるために、

前の経験を使う(比較する)ことだって、できるのだ。

そのために必要なのは、ちゃんと落ち着いてから、

新しい勇気を出すことだけ。

真摯に、真剣に。本気で。

よい方向を探る気持ち。

この丁寧な勇気は、過去にとらわれた「怖さ」とは違うことも、わかると思う。

ドキドキするけれど、それは明るいドキドキ、冒険のドキドキであり、

あらかじめ、前と同じパターンを予測して、

焦って勝手に想像して暗くなるドキドキとは、全然、違うのだ。

以前とは、自分も相手もまったく同じではない。

違う方向を、本気で、静かに試す。

このことを肝に銘じ、新しいことを、

自分がきちんと落ち着いて試すとき、

そのリスクには『冒険の』という肩書きがつく。

過去からの怖さを捨て、その新しい冒険のドキドキのほうを、

選んでほしいと思う。

しかも、丁寧さだけ心がければ、結果がどうあれ、まずは

「試したこと自体を評価できる」自分が生まれる。

失敗しようが成功しようが、練習だもの。

やってみた、その達成感のほうをあえて意識的に集めてほしい。

丁寧にやればこそ、それが集められる。

そうやって練習を積んで、どんどん前とは違う対応を試して、

自分へのうれしい評価を増やしてほしい。

どんなに小さなことからだって、それは構わないのだ。

どうだろうか。

どうせ他人なんて、と過去のパターンにばかり相手と自分を当てはめ、

変われないから、と決めたまま、投げやりで生きるよりは、

そっちのほうが、少しはマシだと思えないかな……?

変化のリスク。 ~前編~

前回の記事では、あえて

変わるには何か負荷がかかる、

と書き、それを「リスク」と表現した。

たぶん、動けない人には、そのほうが伝わりやすいだろうと思った。

自分で自分の「思考と言動の責任をとる」という表現も、

そう捉えて怖がっている人がいると思い、そのまま使ってみた。

で、今回は人間関係の面に絞り、それって本当に、怖いことなの?

という点を、話したいと思う。

リスク、責任、負荷、と書くと、何かとてもきつくて苦しくて、

そうそう、だからやるのが怖いんだよ、

考えるのさえ、重たくて怖いんだよ、

というふうになっていくだろう。

だからそれよりは今の、この、すんごい苦しくて

他の人より劣ってて、人とうまくいかなくて、

自分がダメなままなんだけれど、

これまで慣れてきた考え方、やり方のほうに

結局は、とどまってるんだよね、と。

うん。

あなたがこの先も、一生そのままでいることのほうを、

きちんと本気で覚悟して選択するのであれば、

それもまた、一つの生き方だろうと思う。

でもそれならば。

苦しいんです、つらいんです、私はダメで、

と吐いて、不特定多数の人に慰めてもらう必要も、本当はないはず。

身内か、親しい友人くらいに、たまに甘えればいいのだ。

厳しい言い方をしているけれど、

本当は変えたくないのに、たまにはちょっと話聞いてよ、

どうしたらいいんだろう、と話すのは、

実は相談ではなく、甘えだ。

そっちを選んだのが自分なのだから、たとえ他者から

大丈夫だよ、などと慰めてもらったとしても、

そのときだけで終わることのほうが多いでしょう?

あー、いっぱい刺さる書き方してゴメンね、

続きがあるから、あえて、なの、もうちょっとガマンしてくださいね。

さて。

怖いから、見たくない。やれない。

やれない、できない、と書くと

とても受動的で不可避な感じがするけれど、

本当は別に、不可避でない。

やるほうを選択する気になれない、という

自分の選択の問題なのだ。

ここで鬱の人に、先に言っておきたい。

鬱の最中は、選択したくなくなる脳みそ回路に

自動的になってしまうだろう。

それは今現在の、脳みその仕組みゆえ、なんだけれど、

実は自分のなかで「やるほうを選択しなくなる思考回路」

が、暗くなっていく過程で先に芽吹いていたことも多い。

途中からだんだん、

もともと、そう考える性格だから、鬱になっていくのか?

鬱になってるから、そう考えるのか?

の区別がつかなくなるような、

卵が先か、鶏が先か、みたいな状態。

なのでここではその、もともと、の部分が

多少は、気づかぬうちに途中からでも、

芽吹いていったと仮定して、話を進めていく

(実際、そういう場合も多いと思えるので )。

で、あらためて、書く。

怖いから、結局、選択していない。

じゃあ、その怖さって、どこから来ているのか?

たいていの場合は「過去から」だ。

過去にイヤな経験をした。

それが足かせになり、同じ思いは繰り返したくない、と。

うん、そうだよね、私もいまだにそういう部分はいくつも持っている。

イヤな経験は繰り返したくない、単純に。

でも、自戒を思い切りこめて書くけれど、人間関係の面で言えば

それって実は、他者を否定し、排除している考え方。

自分の思考のパターンにだけとらわれ、

今、目の前の状況、目の前の他者が目に入っていないのだ、実は。

同じ人相手に、完全に同じタイミングで、

自分も同じ年齢、同じ日時、同じ状況であれば、

あなたはまた、同じような対応をして、苦しく気まずくなるかもしれない。

でも、そんな完全同一のシチュエーションは、あり得ない。

過去は絶対に、帰ってこない。

相手は、以前の、たとえばひどい人とは違う人間だ。

以前は、あなたを「けなす」意図で相手が発言したかもしれない。

でも今回は、ほぼ同じ言葉であっても、

相手が自分を心配してくれている場合もある。

その相手の言い方がヘタなだけで、

以前の意地悪な人とは、意図が180度違う可能性だってあるのだ。

~後編につづく~