前回の記事では、あえて
変わるには何か負荷がかかる、
と書き、それを「リスク」と表現した。
たぶん、動けない人には、そのほうが伝わりやすいだろうと思った。
自分で自分の「思考と言動の責任をとる」という表現も、
そう捉えて怖がっている人がいると思い、そのまま使ってみた。
で、今回は人間関係の面に絞り、それって本当に、怖いことなの?
という点を、話したいと思う。
リスク、責任、負荷、と書くと、何かとてもきつくて苦しくて、
そうそう、だからやるのが怖いんだよ、
考えるのさえ、重たくて怖いんだよ、
というふうになっていくだろう。
だからそれよりは今の、この、すんごい苦しくて
他の人より劣ってて、人とうまくいかなくて、
自分がダメなままなんだけれど、
これまで慣れてきた考え方、やり方のほうに
結局は、とどまってるんだよね、と。
うん。
あなたがこの先も、一生そのままでいることのほうを、
きちんと本気で覚悟して選択するのであれば、
それもまた、一つの生き方だろうと思う。
でもそれならば。
苦しいんです、つらいんです、私はダメで、
と吐いて、不特定多数の人に慰めてもらう必要も、本当はないはず。
身内か、親しい友人くらいに、たまに甘えればいいのだ。
厳しい言い方をしているけれど、
本当は変えたくないのに、たまにはちょっと話聞いてよ、
どうしたらいいんだろう、と話すのは、
実は相談ではなく、甘えだ。
そっちを選んだのが自分なのだから、たとえ他者から
大丈夫だよ、などと慰めてもらったとしても、
そのときだけで終わることのほうが多いでしょう?
あー、いっぱい刺さる書き方してゴメンね、
続きがあるから、あえて、なの、もうちょっとガマンしてくださいね。
さて。
怖いから、見たくない。やれない。
やれない、できない、と書くと
とても受動的で不可避な感じがするけれど、
本当は別に、不可避でない。
やるほうを選択する気になれない、という
自分の選択の問題なのだ。
ここで鬱の人に、先に言っておきたい。
鬱の最中は、選択したくなくなる脳みそ回路に
自動的になってしまうだろう。
それは今現在の、脳みその仕組みゆえ、なんだけれど、
実は自分のなかで「やるほうを選択しなくなる思考回路」
が、暗くなっていく過程で先に芽吹いていたことも多い。
途中からだんだん、
もともと、そう考える性格だから、鬱になっていくのか?
鬱になってるから、そう考えるのか?
の区別がつかなくなるような、
卵が先か、鶏が先か、みたいな状態。
なのでここではその、もともと、の部分が
多少は、気づかぬうちに途中からでも、
芽吹いていったと仮定して、話を進めていく
(実際、そういう場合も多いと思えるので )。
で、あらためて、書く。
怖いから、結局、選択していない。
じゃあ、その怖さって、どこから来ているのか?
たいていの場合は「過去から」だ。
過去にイヤな経験をした。
それが足かせになり、同じ思いは繰り返したくない、と。
うん、そうだよね、私もいまだにそういう部分はいくつも持っている。
イヤな経験は繰り返したくない、単純に。
でも、自戒を思い切りこめて書くけれど、人間関係の面で言えば
それって実は、他者を否定し、排除している考え方。
自分の思考のパターンにだけとらわれ、
今、目の前の状況、目の前の他者が目に入っていないのだ、実は。
同じ人相手に、完全に同じタイミングで、
自分も同じ年齢、同じ日時、同じ状況であれば、
あなたはまた、同じような対応をして、苦しく気まずくなるかもしれない。
でも、そんな完全同一のシチュエーションは、あり得ない。
過去は絶対に、帰ってこない。
相手は、以前の、たとえばひどい人とは違う人間だ。
以前は、あなたを「けなす」意図で相手が発言したかもしれない。
でも今回は、ほぼ同じ言葉であっても、
相手が自分を心配してくれている場合もある。
その相手の言い方がヘタなだけで、
以前の意地悪な人とは、意図が180度違う可能性だってあるのだ。
~後編につづく~