同じ言葉で、前のときとは真逆の意図。
実際、私はそれを体験したことがある。
そして2回目のそのとき、以前にはなかった違和感を感じた。
この人は、前の相手とは考え方が違うはず、
何となくそんな「匂い」が、今までしてきてたのに……。
そう思えたので、後日、勇気を出して、今の相手に真意を尋ねた。
すると相手の方は「そんな意味に捉えてたのか! ひどいな」と
少し怒りは見せたけれど、やはり「心配したゆえ」の
セリフであった、と説明してくれた。
それでお互いに謝りつつ、自分のわだかまりを消すことができた。
それは仕事の面での発言で、2回めの相手は
上司(ぶっちゃけ社長)だったわけだけどね(^^;)
今だから言えるけれど、退職もちょっと覚悟してた……。
そんなふうに、前と今を「同じだ」「まただ」と
判断するのは、自分自身の感覚のみでやっているのだ。
そして、もし本当に似ていると感じたとしても
「ならば前とは違う対応を、自分が絶対にするんだ」
と、強く念じて、決意することもできる。
このとき必要なのは、やってみる勇気だけだ。
新しいやり方ゆえ、結果はどうなるかわからない。
でもわざわざ、同じことを繰り返す必要は、まったくない。
まったくないのに、同じ、と決めてそちらを選ぶのが、自分なのだ。
しかも相手は、違う人間。自分が違う反応をすれば、
相手もまた、違った対応になるはず。
たとえもし同じ相手だとしても、こちらが対応をはっきり変えたら、
答える言葉は少しくらい、相手側も変えるだろう(たまにこれが、
ものすごくよい効果を発揮することだってある、同じ相手ゆえに)。
そう、違うことをやってみる勇気、が、
自分の選択を変えてくれるのだ。
このとき、自分のことが大嫌いだと、
その選択にまったく自信が持てないだろう。
でも実は、全然、持てないままでもいい。
そのままでいいから、そのときの最善(と思えること)だけ、選ぶのだ。
そのためには落ち着く必要がある。
「前と同じだ」と思った瞬間、心臓は鼓動を早めるだろう。
だからその場であえて、深呼吸する。
一拍置いて、絶対に絶対に、すぐには答えない。
間髪入れずに答えたほうが、相手に畳みかけることができ、
有利に思えたとしても、いやいや、対応はいくらでも方法がある。
よいことならば、ゆったりと柔らかく答えるのも、またよい印象になる。
反論する必要があるなら、力を溜めて、重量感あるパンチを
繰り出したっていいわけだ。
焦って空振りするよりは、よっぽどいい。
何より。
相手の真意を探るには、こちらも「聞く耳」を持たねばならない。
「前と一緒だ、前と一緒だ」と、頭の中でわざと繰り返してしまうと、
相手のことを無視して、自分の過去の経験とテンパった気持ちで
いっぱいいっぱいになってしまう。
これは本当は、コミュニケーションではない。
相手を疑いまくりなのだから、失礼だよね、やはり。
それでは、相手の言葉は聞けない。意図は絶対、探れない。
以前と何も変わらない方向、同じパターンに陥ることを、
自分からわざわざ、選択してしまうのだ。
経験は、危機を避けるために使う。確かにそうだが、
それは同じ失敗(と思えるもの)を繰り返すために
あるわけではない。そうではなく、
次に違う対応を自分から試してみるために、
前の経験を使う(比較する)ことだって、できるのだ。
そのために必要なのは、ちゃんと落ち着いてから、
新しい勇気を出すことだけ。
真摯に、真剣に。本気で。
よい方向を探る気持ち。
この丁寧な勇気は、過去にとらわれた「怖さ」とは違うことも、わかると思う。
ドキドキするけれど、それは明るいドキドキ、冒険のドキドキであり、
あらかじめ、前と同じパターンを予測して、
焦って勝手に想像して暗くなるドキドキとは、全然、違うのだ。
以前とは、自分も相手もまったく同じではない。
違う方向を、本気で、静かに試す。
このことを肝に銘じ、新しいことを、
自分がきちんと落ち着いて試すとき、
そのリスクには『冒険の』という肩書きがつく。
過去からの怖さを捨て、その新しい冒険のドキドキのほうを、
選んでほしいと思う。
しかも、丁寧さだけ心がければ、結果がどうあれ、まずは
「試したこと自体を評価できる」自分が生まれる。
失敗しようが成功しようが、練習だもの。
やってみた、その達成感のほうをあえて意識的に集めてほしい。
丁寧にやればこそ、それが集められる。
そうやって練習を積んで、どんどん前とは違う対応を試して、
自分へのうれしい評価を増やしてほしい。
どんなに小さなことからだって、それは構わないのだ。
どうだろうか。
どうせ他人なんて、と過去のパターンにばかり相手と自分を当てはめ、
変われないから、と決めたまま、投げやりで生きるよりは、
そっちのほうが、少しはマシだと思えないかな……?