自己満足と他者評価

恋愛にせよ、仕事にせよ、友達関係にせよ。

自分が満足・納得できるように

他人から認められることを望むと、

その望みの枠は際限がなくなる。

自分が誉められても

認めてほしい部分じゃなければ

「え、そんなの当たり前の話でしょ」

くらいにしか思えず、素直には受け取れない。

自己満足するレベルを、他人の評価任せにする限り、

違う部分は別に認めてほしいわけじゃない、とか思うし、

たとえ望んだ形の評価が得られても、すぐに

もっと もっと もっと

もっと 私のこと 認めてよ

というバキューム状態に陥るのだ。

そして、たとえば問題が起こり、場合によっては、

相手側が自分の間違いをごまかすために

こちらに責任を転嫁し、非難してきたのだとしても

「こんなこと言われるのは、やはり私がどこか悪いんだ、

何か足りないせいだ」と落ち込むハメになったりもする。

すべて、自分で自分を認めず、代わりに他人を当てにして、

「自分の代わりに他者から」認めてもらおうとするがために

起こる悲劇である。

そもそも、せっかく他人が良く言ってくれた点を

「当たり前」とか「大したことない」と考えてしまうのは、

傲慢でさえある。

はい、鬱になる前の私が、仕事の面でまさにそれをやってました。

当然なのに、と思ってた。

素直に受け止められなかった。

そうなっていた理由は、自分には自分の価値、というものがあることを

私自身、どこかで信じてなかったから。

常に常に、結果を出さないと私はダメなんだと、思いこんでた。

そうじゃないと、私は価値がない人間なのだと。

ゆがんでるよね、この考え方。しかも強情で傲慢。

他人にそう受け止めていただけたことへの感謝もなくて。

今も、それが上手に受け止められるようになったかどうか、

自分ではわからない。

でも、そう言ってくださるんだ、ありがたいなあ、

と、いう感謝の気持ちは、持てるようになった。

そして、たとえよくわからなくても、ありがたく頂戴しようと。

こうしたことも、練習が必要なのだと思える。

私は、自己満足ばかり考えすぎていて、

ずっと自分をイジメていて、

なのに自分の傲慢さには、

気づけないでいたということだ。

他者がいることのありがたさを感じるより前に、何よりも先に、

自分が自分をゆるめなくてはいけないこと、

を知った。

そしていろいろ学んで、自分がバカであることを、

だいぶん、そのまま「ま、いいや」と、ゆるせるようになった。

こうしたことに気づかせてもらえたのだから、

鬱という病を経験したことも、私には意味があったのだと、

今さらながら、思えている。

だから今は苦しい方でも、私ほどのバカは

まあ、そうそういないと本気で思えるから(^◇^;)、

それぞれの方にそれぞれの形でいつか、気づきは訪れるのだと、

そういう学び方をされているのだと、

素直に思える次第である。

そして自分の、他者の、気づきを見つめられる時間を

死なずに与えていただけたこと、

今もこうして生かしていただけていることに、感謝している。

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