「役に立つ」ことと「認めてほしい」こと

誰かの、何かの「役に立つ」ということ。

例えば仕事や家事、ボランティアなどの奉仕で考えてみると

わかりやすいと思うけれど、

やってみた結果、それが役に立ったと感じられれば、

また次へのモチベーションも生まれる。

自分にそれが任されているという責任感の大きさも

感じるだろうし、その任される、という機会を

与えられたことに、誇りを感じたり、

相手からの信頼を感じたり。

そういう達成感、うれしさ、というメリットがあるからこそ、

自分のなかにやりがいが生まれる。

だからこそ、それを感じたくて頑張るのだし、

できれば相手から、言葉や愛情や、仕事ならお金、立場、

物質的なプレゼントも含め、それを示してほしいと願う。

が、しかし。

そのメリットが、達成するためのモチベーション、

よい意味での「目の前のニンジン」であるうちはいいけれど、

ときに、メリットが常に感じられないと

やる気が起こらない、なんてことになったりもする。

ある一定期間で100やるところを10やった段階で

まずいったん示してよ、だったり。

また逆に、自分の達成感をもっともっと、と求め、

本来なら100でいいところを

120、150と勝手にハードルを上げてしまうこともある。

私は後者の考えで鬱になってしまったクチだけれど、

自分がハードルをそうやって上げたり下げたりしていることに

全然、気づけないでいた。

要は、認めてほしかったんだと思う。

これだけのこと、やりましたよ、ほらほら、どうよ、って。

やってみて、相手からの信頼もその行動に対する誇りも、

すべて結果として生まれるもので、

たとえ直接的にはほめられなくても、

役に立っていること、その喜び自体を

「自分自身が」もっと味わえていればよかったと。

なぜ、それが狂っていったか。

今日も1日やり遂げた、手を抜かず頑張った、

そして一定期間かけて終わらせた、仕上げた、という

事実を味わうことを忘れ、

その先、つまりやった結果生まれる、ほめてほしい、

認めてほしい、ということを「目的」にしてしまっていたのだ。

そのすり替え原因の根本にあったのは、

たぶん「怖れ」だったと思う。

認めてくれるのかな、ほめてくれるのかな、信頼を得られるのかな、と。

それが仕事でなく、家族間や友達、恋愛であれば

「愛してもらえるのかな」という怖れになるのだろう。

何か、誰かの役に立ってうれしいのは自分。

その喜びを感じるのは自分。

その喜びを、自分が何よりも受け取っていいはずなのに、

他からの評価、言い換えれば自分以外からの見返りを、

いつの間にか目的にしていたのだ。

こうなると、キリがなくなる。

極端な言い方をすれば、底なし沼状態の見返り欲にはまる。

責任感、という言葉を自分への言い訳に使ったりしながら、

認めて、認めて! 信じて! ほめて! 愛してよ! と

誰かに叫び続けることになる。

相手にそういうものを示してもらうことが「信頼や愛情」の証になり、

ひたすら、それだけを欲しいがゆえに頑張るのだ。

少しずつ頑張っている、あるいは、

きちんとやり遂げ頑張ったという事実さえも、

自分では認めてあげず、置き去りにして。

うん、そりゃあ私、苦しかったはずだわ。

「今日も1日、つつがなく頑張れた」ことを

全く忘れてたんだから。

自分が日々、自分を認めてあげられてなかったんだから。

当たり前だから、仕事だから、あるいは大人だから、責任あるから、って。

しかも私の場合なら、文字に触れるという部分は、

仕事のうえでの喜びのひとつだったはずなのに。

そんなことはもう、すっかり忘れてた。

達成、達成、達成。

見返り、どうかちゃんと、あとからでもちょうだいね、

give me please 信頼&愛情。

……。日々、健康に、息をして、身体が動かせて、

多少の失敗があったとしても、つつがなく1日を過ごし、

さらに言えば1日を過ごせる環境をある意味、周りの協力もあって

与えられ、自分でも努力して獲得し、ときに喜び、楽しんで。

そんな感謝やありがたさやうれしさも置き去りにしていた。

慣れたから、当たり前で。

役に立つこと、自体を、もっと味わってよかった。

認めてもらえるかどうかを怖れ、おびえ続ける必要まではなかった。

人よりある程度は抜きん出て認めてもらわないといけない、

そのために立派に正しくあらねばならない、

なんてことも、どこかで感じていたのだと思う。

結果を出すより先に立派である必要はなかった。

確かに結果が派手な達成、だと、周囲がある程度、

勝手には認めてくれるけれど、

世の中で、長い期間に渡り、スゴイな、と感じる相手というのは、

1日1日、少しずつ積み重ねるという形で努力し、

そうした1日をまた大切にもし、

日々の自分の領分を達成したことを自分が認め、

日々の努力を無理なく続けていらっしゃるな、と思える人だ。

そういう丁寧な積み重ねをするからこそ「結果として」

認めてもらい続けられる……ということになるのだと。

瞬間的な成功者、でもなく、その場限りの

信頼や愛情のお返し、などでもなく……ね。

恋愛でたとえていえば、誰かを想うということが「できる」こと、

そういう相手に恵まれたことそのものが、

ときに片思いであってさえ、嬉しかったはずなのに、

いつのまにか愛や信頼を返してもらう、認めてもらわないと

気が済まない、という事態に陥り、

いつも「返してもらえるかな、認めてもらえるかな」を

目的、愛情の前提にしてしまって、一緒にいられること自体は

本気で真摯にうれしく、ありがたく思わない……。そんな感じ。

見返りがないとやってられない、という気持ちも、もちろんわかる。

何も役に立ってないような気持ちに陥ってしまいそうになる。

でも、任された、という時点ですでに必ず
、程度はあるにせよ

きちんとやれば結果として「役に立つこと」が

すでに相手から想定されている、ということだ。

もっと言ってしまえば、そこにずっといること、

たとえば誰かのそばにいることを許されている、というのなら、

その段階ですでに「自分がいること自体」が

何らかの役に立っているのだと。

たとえ反面教師的な役割であってさえ、

誰かの存在は、誰かに影響を与え、

その影響をどう受け止めるかも、

受け止める人次第、という面は、確かにあるのだろう。

願わくば、その役割も、受け取り方も、

心が痛む方向でないことを祈るけれど。

……うん。前よりは随分、マシになったとは思うけれど、改めて

日々の自分を「ないがしろ」にするのは、

もっと本気で、やめていこう。

できていることを、できたことを、

呼吸して今、生きている事実さえも、

自分が何らかの形で役立ってきたという証だ。

そう、死を選ばなかった結果、そのあとのさまざまな経験で

思い知ったのだけれど、そもそも家族や親族、友達にとっては、

生きていてくれるのが当たり前と、思ってもらえてはいる……。

そこまでの基本に毎日、立ち返る必要はないにせよ、

「自分がやっていること」をもっともっと、大切にしていこう。

1日ケガもなく無事に、つつがなく過ごす……ということ、

働くことも楽しむことも、つまりそれらはちゃんとした結果なのだし、

その結果、というものを、よく過ごせたということ自体を、

誰よりもまず、丁寧に自分が認めてあげようと思う。

その積み重ねはまたやがて、何かを生むはずだから。

穏やかな満足感とか、周囲への感謝とか、

そういういろいろな温かいものを、きっと必ず、生むだろうから。

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