今日の話は……まだ、受け止められない方もいらっしゃるかもしれません。
そんな予感もしつつ、書いてみたいと思います。
まず、少し本題から離れるけれど、「幸せ」を得るためのアプローチについて。
私が『アメーバなう』でよくつぶやかせてもらっている、
カウンセラーの心屋仁之介さんと、書道家の武田双雲さんの話から、
始めさせていただきます。
ちなみに私、どちらの方にもお会いしたことはないですし、
学びの会やら講演会にも、とくに参加したことはないです。すみません(^_^;)
というのも、この方々については私、
このブログを始められるようになってから知ることができたわけでして、
私は、お二人がおっしゃってくださっていることを、ありがたいことに
鬱以降、すでに他の方々や本などからたくさん受け取れていたからです。
なので今のところは、自分がさらにラクになるための気づきとして、
ブログを拝読させていただいている次第です。
さて。
このお二人は、「幸せになる方法」について、よく書かれています。
心屋センセは、『black』と自らミドルネームを
つけていらっしゃるだけのことはあって、率直で、ときに厳しいです。
「別に嫌われてもいいから届けたい」という強い愛の形。
双雲さんのほうは「Happyになるための視点変換の工夫」を、
素直に何度も語りかけられる柔らかい思いはからい、親愛、というふうに感じます。
どちらのアプローチも、ステキだな、と思えます。
私自身は「評価を気にする成功Love型」ゆえに(笑)、心屋センセのような強い手法は
たぶんこの先も、使えませんがσ(^◇^;)
で、どちらの方も、「自分で変える」ということを、力説されています。
そのためのポイントやヒントを、大量発信されている。
そしてとにかく先にまず、やってみなさい、と。
この際に、とくに引っかかりを感じられるのが、
「誰かを恨んでいる、憎んでいる」人のようです。
誰か、というのが、「他者」であることもあれば「自分自身」のこともあります。
もしかしてネガティブのなかでもとくに、キツイ、黒い、重い感情かもしれません。
なぜなら、ゆるしたくない、からです。
どう考えても、何度考えても、「ゆるせない」。
その相手を、あるいは自分を。
そこにあるのは、たとえばものすごい「悔しさ」なのかもしれません。
あるいはどうしようもない「後悔」。
で、私はあえて、「それを自分のために、視点変換して上手に使いませんか?」と
今回、言ってみます(過去にも何度か言っていますが、今回はとくにはっきり)。
「自分を自分で幸せにする」ための、大きなヒントが、そのなかに隠れているからです。
そして「この先、一生、幸せになってはいけない人」は、いない、からです。
相手の幸せ……云々のことではないです。
そこではなく、素直に『自分自身の幸せ』の話です。
先ほど、私は、「ゆるせない」と書きました。
あと「悔しさ」「後悔」も。
これ、実はある意味で、受け身型の感情表現です。受動的。
なので表現上は、こう言い換えられます。
「ゆるせない」
→「ゆるすということを、自分が選択していない」
「悔しさ」
→「後悔に『怒り』を加えた形。その形で、自分が感情を抱え続ける、と
自分で決めている」
「ものすごい後悔」
→「ひたすら悔やむ、という形のまま、自分のなかにとどめることを、
自分が許可している」
……あら、結構、厳しい表現になったかも?(^_^;)
要は、本当は、「どうしようもない」もの、受け身的、不可避なものではない、
と言いたいわけです。一時的にはそう感じられても、絶対的にそうではない。
その感情は、あなたの内側にあるものなので、
本当は、あなたが、変えられます。
というか、たとえ周囲から気づきはもらえるとしても、
自分のなかの感情、受け止め方を変えるのは、あなたにしかできません。
だから、それならば、いいほうへ使ってみませんか、と。
ゆるすことは、負けではありません。
そして相手のことを思いやるから、「ゆるす」のではなく。
もちろん将来、そうなれたら、もっと自分が解放されて、ラクに、幸せになれますが、
今は、その一つ前の段階として
「相手のこと(あるいは自分のこと)をそんなふうに捉えていたら、
自分自身が苦しいだけ。
この先もずっと、自分にとっては苦しみが続くだけで、何の益もない。
だからこれからの自分のために、そう捉えること自体を、もうやめる、と“決める”」
はい、「○○のせい、云々」という思い“そのもの”を、
「もう考えない」ようにしていく、のです。
もちろん、すぐにスルッとできるわけではないでしょう。練習は必要。
でも決して、「ずっとこれからも、絶対できない」わけではないのです。
その究極の例のひとつが、光市母子殺人事件の、本村洋さんだろうと。
愛する家族を無慈悲に殺され、押し入れに放り込まれ……。
極刑を求める、としながらも、人が人を「殺して良い」という「判断」を
人間という存在はしていいのだろうか、というところまで悩み、考えられ。
Wikiペディアにはとくに書かれていないのですが、苦しまれた様子は
『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(新潮文庫/¥578)
というノンフィクションなどを読めば、ご本人の心情の経緯として綴られています。
これは究極すぎる、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが、
これであってさえ、なお、これからは「幸せを求める」ことを選ぶ、
そちらへ切り替えることはできるのだ、と。
ゆるす云々、というのではなく、もう、そこから自分が離れ、
これから先の自分の幸せ、『次を見つめることにする』という選択です。
そのほうが、よいこと、だから。自分にとって。
そうすることできっと、自分への自信も、いつか新たに生まれるのかも、と。
~後編へつづく~