そして、後悔、についても同じです。
あとから『悔やむ』。
事態は起こったあとですから、改善できることもあれば、
改善できないこともある。
でも、悔やむ、という感情、その行為は、
「次はやらないよう、気をつけて練習し、また、ほかのものへ活かす」
ことへつなげられます。
これもまた、ひとつの究極な例を申し上げてみましょうか。
私は、仕事仲間であり、仕事上では「先輩」にも当たる人の心の苦しみを、
放置しました。
お世話になった仲間が、鬱という病で苦しんでいること自体は知りつつ、
しかも自分だって同時期に、同じような理由から鬱になって、
その人の心情はある意味、私が一番深く身近に感じられ、
一番よく、その苦しみに関わっていけることができたのに、
私は自分が立ち直ることに必死で、相手の苦しさに触れませんでした。
自分のことを何とかしなくちゃ。それを言い訳にして。
たまに仕事でお会いすることはあったので、「どうですか? だいじょうぶですか?」と
ランチなどで時間をとって尋ね、少しずつでも話し合うことはもちろん可能だったし、
また、最近、疲れておられるのかも、ということは気づいていたのに。
再入院したことさえ気づけないくらい、見ないようにしていました。
そして、その人は自死を選択されました。
仕事の面でたくさんお世話になり、学ばせていただけたのに、
私はご恩返しするどころか、その方が大変なときに、自分のことにかまけました。
もう二度と、お会いすることはかないません。
私は、もう二度と、何もできません。
初めてお墓に伺ったときは、泣いてお詫びを述べること以外、できませんでした。
この「その方に対しては何もできない」という気持ち自体は、
ある意味、後悔のまま、止まっているのだと思います。
そして、その方の死があったことにより、
私は逆に「死ねない」立場に変わりました。
そうして、今、生かされています。
自分が再び、ご飯を食べ、眠れ、感動その他を味わい、
日々、ありがたさを感じて生かされている今の状態には、
その方の「死」が、きっかけのひとつとして、存在しています。
だから私は、「ひどい後悔」をやめました。残ってはいるけれど、
それを今後は「反省」とすることに決めました。
それがあった、起こったことにより、ですが。
なぜかはわからないけれど、私は「死を選択できない」方向へ導かれ、
結果として生かされた。そう自分で、捉えることができるようになった。
そしてその後、生かされて「今ある」ことの恩返しをしたいと願うようになり、
現在、このブログがあります。
……取り返しのつかないもの、も、どこかで、
何かの方向へは、変えられるのだと、
今の私には、感じられています。
もし、相手を(あるいは後悔で自分を)恨む、憎む、という感情自体が、
自分を苦しめているのであれば。
「ゆるす」云々の前にまず、自分がラクになるためにどうするか、を
意識してみるのは、果たして絶対、ダメなこと、でしょうか?
ただ素直に、自分がその苦しい気持ちを手放すための工夫を、
してみてもいいのではないでしょうか?
それをせず、相手を(自分を)恨み続け、
相手に、何かに「勝たなければ」いけない、
そのために苦しみ抜かなくてはいけないのは、なぜでしょうか?
罰、でしょうか?
その罰とは、他の誰かのため、でしょうか?
その「他の誰か」は、本当に、本当にその方法だけを、
あなたにそれのみをすることを、この先もずっと、願っているでしょうか?
その方法であってもよいけれど、もしかして
その方法でなくても、本当は、よいのではないでしょうか?
難しいことは、承知しています。
私もまだ、先ほどお伝えしたように「後悔」という部分は、
完全には手放せていません。
手放さずに、自分を変える「基本の指針」にしているのかもしれません。
あれがあったからこそ、自分で何かを変えていくのだ、という、
自分に対する注意点のようなもの。
そこの部分でいつか、私ももっと、こだわりが抜けたとき、
本当はさらに、ラクに、幸せになれるのかもしれませんが、
今は、それがあることを、自分にゆるしています。
そして、そうした想いがあることを、今はまだ
自分で「ありがたさ」を感じるきっかけとしても、使っています。
……長くなってしまいましたが、何か、ヒントになれば幸いです。
もし、変えたいのであれば。
幸せになっていきたい、と思えるならば。
いろいろ求めて、探して、見つけた視点を使ってみてください。
最後に、心屋センセのブログと、武田さんのブログを、
感謝の意も込め、リンク張っておきます。
・心屋仁之助さん
『心が風になる』
・武田双雲さん(「よりよく生きる知恵」「悩み相談」のテーマ記事は、
とくに良いです!)
『書の力』