今朝の、サブブログ「ひと休み」記事につづく話。
命の話であるから、あえて本編で少し脱線して話します。
残酷な話も混じりますのでご注意ください。
小学校6年生のとき。
私は初めて沖縄旅行を経験しました。
亀甲墓を、初めて見ました。
腰をかがめれば入れるくらいの、ちょっとした小屋サイズの墓もあり、
歴史や文化が違うんだな、と、感じました。
サトウキビ畑は、背が高く、思っていたより密集して植えられていたこともあり、
入ったら迷って出てこられなさそうな、うっすらとした怖さを感じました。
そして忘れられない、ひめゆり平和記念館。
ひめゆり学徒隊は当時、看護を担当していた、
15~19歳の女子たちの集団でした。
教師18名、女子学生222名。
戦闘が激化し南部へ移動したあと、
彼女たちは隠れて避難していた洞窟で米軍の爆弾によって死亡したり、
教師とともに集団自決を選んだり、逃げる間に怪我などで亡くなりました。
死亡は136名に及びました。
自決を選んだのは「捕虜になるのは恥、死より恐ろしい」
という意識を植え付けられ、日本軍から手榴弾を渡されていたからです。
記念館では、戦時の写真集も見て、衝撃を受けました。
亀甲墓で、米兵が入り口に向かって、火炎放射器の炎を放っていました。
中にいる人の抵抗を、恐れてです。
人が、人を、実際に焼いているのかもしれない写真。
子どもの心に、きつかったです。
実際に中にいたら、窒息したか、焼け死んだか、でしょう。
今にして思えば、墓の入り口を焼いている若い米軍兵士は、
テンションがおかしくなって楽しんでいたでしょうか。
心のなかでは、泣いていたでしょうか。
殺されたくない、と、ひたすらに、おびえていたでしょうか。
サトウキビ畑も、隠れている日本兵をあぶり出すために、
また日本人の食料を絶つために、焼き払われました。
建物は、砲弾でボロボロに壊されていました。
「日本兵の主力は島の南部へ移動、
残っていたのは住民だけの地域もあった」
そんな説明も書かれていました。
小学生くらいの女の子が、「子どもだから助かれ」とでも
言われたのでしょうか、一人だけで、
白い布を棒きれに掲げて歩いている写真もありました。
捕虜になってからの悲惨さも、大学生になってから知りました。
各地に潜伏している少数の日本兵が
捕まっていた住民たちを、夜間に襲い、
「なぜ自決を選ばなかった。おまえたちはスパイだ」と言って、
捕虜を老若男女問わず、無差別に惨殺した、という事実です。
手榴弾で。刀剣で。日本人が日本人を。
捕虜になること、生き延びることは「日本を売る裏切り」でした。
潜伏中、殺されるかも、という恐怖心から、無差別殺戮をした兵士もいました。
疑い、おびえる心は、こんなふうに行動として表れるのです。
そして……記録には残っていませんが、
女性でも若い少年でも、レイプは、起こっていたでしょう。
これが、沖縄で、実際にあった話です。
1944年。
20万人の兵士と住民が亡くなった、米軍に上陸されたときの記憶です。
いったん本格的に武装してしまえば、
決して「効果的な、素敵な威嚇」のみでは、すまないのです。
隣の国との問題、だけの話ではありません。
国際貢献として、若者が海外で本格的に戦うことも始まる。
それを本気で望んでおられる方々……。
自分の子どもが、孫が、知り合いの子どもたちや孫が将来、
戦闘地域でこうした目に遭っても仕方ない、
貢献としては当然である、と、
すでにそこまでの決死な覚悟であられるのでしょうか。
そして戦争、上陸、暴虐、死、というものを、
このように記憶している沖縄という土地が、
戦後には勝手に占領されて米国となった経験、その記憶をも持つ土地が、
米国の基地に対し、生活の糧を頼りながら複雑な気持ちを抱くのも、
「絶対に出て行ってほしい」と願う人がいるのも……。
私には、「人として普通にありえる感情」だと思えるのです。
沖縄だけでは、もちろんありません。
広島や長崎で、熱により皮膚がただれ、
それらが手足にぶら下がった状態となり、
痛い、痛いとさまよっていた人たちがいました。
空襲で、手足がもがれ、放置された人たちがいました。
熱さのあまり川に飛び込んで、人が積み重なったことにより
窒息死した人たちがいました。
迫り来る炎のなか、倒壊した建物に挟まれた家族を
残していかなければいけない人たちがいました。
水がほしいと訴えながら、避難所へたどり着けずに
亡くなる人たちがいました。
国のため、家族のためにと10代の若者が、
片道分の燃料しかない飛行機や潜水艦に乗り、
勝てる望みのない戦闘で体当たりをしていきました。
さらなる利益を求めた、欲張った、
他の国に奪われたら不利になるというおそれを抱いた、
一部の人たちの、おびえと憎しみから起こった出来事……。
「毅然とした態度」は威嚇からしか、つくれないのでしょうか。
相手からの威嚇、をとどめるのに、
どれくらいの武器が必要になるでしょうか。
お互いに武器を増やし始めたら、その量はどれほどになっていくでしょうか。
それらはすべて、人が、人の命を奪うための、
攻撃の道具、なのです。
苦しい、悲しい、辛い記憶を、私たちは、
学びとして、新しい方向へ活かすことはできないのでしょうか。
それは威嚇、という仕返しのようなものにのみ、とどまるのでしょうか。
アジアの人たちもまた、同じような記憶を
日本に対して持っていた、持っているかもしれないことを、
想像することはそんなにも難しく、
危険思想であり、してはいけないことなのでしょうか。
本格武装したあとの可能性として、
そこで起こりうるであろう「現実」を、
どうか、今の段階で、知ってください。
最悪、戦いも辞さないと願うなら、なおさら、
都合の悪い面から逃げずに、これらを知ってください。
人の命は一人ひとりの、個別の、大切なもの、です。
そして失ったひとつの命は……もう二度と戻らないのです。
どちらの国かに関わらず、とくに巻き込まれてしまう立場の私たちだからこそ、
それぞれが学びを得ていっても、いいのではないでしょうか。
命に関わる選択であるからこそ。
反対云々のレベルでなく、私は本気で『平和』を望む。
一人ひとりの命、そのそれぞれを本気で大切にしたい。
そう思えています。
最後に、沖縄戦に関するYoutubeの情報と、
ひめゆり記念館の公式サイトをリンクしておきます。
起こりうる「現実」の、可能性の一端を、ぜひお見知りおきください。
過去の、私たちの先代の方々が生身で感じていた、
つらかった事実の記憶を、
未来へ学びとして、活かしたいのです。
●ひめゆり記念館 制作
アニメ「ひめゆり」(英語の字幕もついているアニメです。約30分)
http://www.youtube.com/watch?v=eW9Ro2G_kUc&feature=youtu.be
●「怪我をした友達を見捨てた『罪』……」という言葉を語らざるを得ない、
ひめゆり学徒隊の生存者の方の悲しい記憶。
「命の尊さ」ひめゆり学徒隊・宮城喜久子さんの証言(音声のみ、約10分)
http://www.youtube.com/watch?v=fZclnyHu4qI
●ひめゆり記念館 公式サイト(証言集の閲覧には、無料ソフトのダウンロードを)