ある海外の人に、質問された。
なぜ自殺者が多いのだ、と。
長い不況と、競争と自分らしさや成功を求める教育、
他人と比べて「優れていなければ、完璧でなければ、
せめて同レベルでなければ」という思い込み、
そうした価値観などのことを話してみた。
その人は話を聞いて、ため息をつかれた。
同席していた知人が通訳者として完璧だったので、
その方は「思い込み」という部分の私のニュアンスなども、
かなりきちんと把握された様子だった。
そして一言「自分が不幸だとか、ダメだとか、
そんな思い込みの気持ちにどっぷり長く浸りきる期間が
あるというのは幸せですね」とおっしゃった。
何も言葉を返せなかった。
まさにその通り、その時間がある「贅沢さ」を、
私たちは許されているから。
自分を信じるしかない人も、たくさんいる。
普通に、大勢、世の中にいる。
親の存在なんて、ハナから当てにできない人。
誰に何を言われようと罵倒されようと、いちいち長々と
気にしてなんかいられない、改善するところはさっさと直し、
比較とか優位とか、そんなことよりももっと、
生きることに、自分の喜びを「自分で」見つけることに集中するのが
自分にとって普通である、という状態。
温かい家族が1人でもいればそれはすごく「恵まれている」ということ、
そうしたことも小さいときから「勝手に」感じ取り、
自分の力になるように「自力で育んでいくしかない」人たちがいる。
私たちは、恵まれているのに、ひたすら、甘え続けているのだ。
国全体として、「甘えた子どもが多い」のかもしれない。
自分を信じる練習をすることも、自分を愛する練習をすることも、
自分が、自分のためにやらなければ、
いったい「誰がやってくれる」というのだ?
そして、苦しいことも学びになると決め、
実際には『避けようがないから』なのだが
意識としては自分から「引き受け」、
自分から、そこで何かを得ようと覚悟し、
実際に学んで乗り越えて、
さらによい自分の道を切り開くのが
「当たり前の大人」と言われたとき。
その言葉に後ろめたさや恥を感じず
「大きくうなずいて同意できる」大人が、
この国には何人いるのだろう、と。
私は「そこまでに至れないまま40代半ばになった」と告白し、
まだまだ意識が低い、sorry、と伝えたら、
「気づいたらできるようになる、OK、だいじょうぶ」と励まされた。
ほんの少しの時間しか話せなかった、
しかも知人の時間の都合で本当にたまたま、
会う機会ができただけの、
この先会えるかどうかもわからない、
通りすがりに近い人との会話。
ある意味、ものすごい経験ができた。
うん。もっと大人になろうよ、いい加減。
自分のことは、自分で、自分のために変えていけるように、と
改めて思い直した夜だった。