自分のなかの「まな板」と「包丁」

……完全に思いつきのタイトルで、

どこへ話が進むかもわからないのだけれど

(すみません)、書き始めてみます。

「自分のバランス」についての話に

なりそうなことはわかっているので。

私たちは、自分を磨いて立派にやり遂げる、ということを

ひたすら重視し、ありがたがってる方向にある、と思える。

それを「どんどんできるように」仕向けられる。

学校で、家庭で、その他の場所で。

自分が好んで、やりたくてやる場合はともかく、

そうでないものについても、それを「求められる」というか。

基礎努力的に、そうあるべきだ、と。

うん、そのこと「自体」は間違いではない。

具体的な目的はすぐに見つからなくても、

今より「まし」な自分になりたいなあ……という

なんとなくの、ボンヤリした動機であっても、

とりあえず練習してみることって、のちに

いろいろなものへ「つながって」いくから、

いいことなんだと思う。

でもね。

それは、調理でいうなら、まずどんどん、鋭利に、

モノを上手に切れる、刻めるようになりなさい、と

つまりは「いろいろな面で器用になりなさい」と

勧められているようなものだな、とも思えるのだ。

包丁の扱い方、包丁の種類、よい切れ味、美しい切り方、等々。

材料が何であれ、たとえ芯を取るだけであれ、

うまくやりなさい、と。

でね、このとき、私たちは意外と、まな板、の存在を

ないがしろにしがちなのかもしれないな……と。

薄いまな板って、やっぱり、モノを切るときに

いまいち安定しないのですよ。

小さいのもそう。

ただ何も考えず、「普通に」刻んだりするだけなら

それでも十分、役に立つんだけど、

本当はまな板も、重めで安定感があって、

かつ、刃物をきちんと適度にやわらかく受け止めて

傷つけない(刃こぼれとかしない)ものであったほうが、

やっぱり「より上手」に、切れるようになると思う。

で、この「まな板」の部分に当たるのが何かというと、

私は「自分自身」のことだと思えるのだ。

自分が「感じること」「気持ち」、あるいは「身体」。

そっちは「あって当たり前」すぎて、見逃されがち、なのかな、と。

ま、なかには「まな板が肥大」してる人もいるかもしれないけれど、

その話は後述。今は「包丁にばっかり気を取られている」場合ね。

ちゃんとね、いろいろな包丁使いを、器用にできるよう

練習していきたいなら、そのとき同時に、

まな板も手入れして、できるだけグレードアップさせようよ。

上手なストレスの発散、自分が「何を大切に思うか」の意識、

「何を大切にして“いいのか”」を見極める勇気。

自分を変に傷つけない、軽く扱わない覚悟。

上昇志向の人ほど、包丁のことばっかりに気をとられているかも

(過去の私なんかは、まさにそれ)、と。

小手先でたまたま器用になったところで、

まな板がヘロヘロのペラペラのままだと、

長くは続かないだろうと思える。

その器用さが、さらに伸びないどころか、やがて

まな板が傷つけば傷つくほど、上手にできなくなっていく。

つまり、自分の注目の仕方が、偏ってたってこと。

両方とも、大事なんだよ。

両方を丁寧に扱ってあげないと、うまくいかない。

傷ついて削られてへこんじゃったまな板だと、やっぱり

すべての材料が、キレイに切れない。

で、当然、他人も、同じように、

まな板と包丁の両方を持っているわけで。

たとえば相手が、自分の技量ミス(包丁)ばかり責めてくる、と

腹立たしく思えた場合もさ。

相手のまな板のほうも、ちゃんと、チェックしてみようよ。

もしかしたら、ものすごく厚くてよいまな板(心の温かさ、思いやり)

を持ったうえで、それがあるからこそ、

きちんと「自分が悪者に思われても」、

いけない部分を指摘してくれてるのかもしれない。

たとえば仕事で言うなら、あるプロジェクトの全体を見通していて、

そのために必要な業務の種類も量も、全体で見抜いていて、

各部下に割り振ってて。

そのうえで各部下が「どの業務の部分で自分を伸ばしうるか」も考え、

それにチャレンジさせたくて、指摘してるかもしれないよ。

そういう「奥の」思いやりや配慮や計画や見通し

(まな板)については、考えてみたこと、あるかな?

相手の表面の包丁(技量)と自分の包丁ばかり比べて

「おまえだってたいしたことないくせに!」とか、

「おれの包丁レベルを認めないのか!」とか、やってないかな。

まな板部分を表現する、その部分の言葉がヘタな人だって、いるよ。

そしてじゃあ、あなたの「まな板」のほうのレベルは、どんなかな。

自分を両方で、見渡すこと。

もし偏っていたのなら、どちらかだけを見る、

技量を磨く練習自体に囚われてしまうとか、

自分が、自分が! の主張にとらわれる……のはやめて、

もう一方もきちんと確認し、手入れする。

そう、手入れもね、両方とも、必要なの。

さびたり、ぎざぎざになったり、へこんだり傷ついたままだど、

調理が楽しくなくなっちゃう。

それに包丁を砥石で研ぎながらやっていく場合もね、

ときどき「砥石そのものの手入れ」だって必要なんだよ。

砥石も、真ん中がへこむからね。

「手入れするための道具」そのものも「メンテナンス」がいる。

そうでないと、長い期間、上手に練習を続けられない。

うまくできない、って思い続けてる人は、もしかしたら

片方だけにとらわれてるか、メンテナンスを忘れてるか、かもよ。

本来、自分が楽しくうれしく生きていくために、

自分と相手への思いやりや思いはからいや、

身体と心の両方を大切にしようという気持ちや、

それを「周囲に対して表す」覚悟や、

相手もどんなまな板を持ってるかなとか、

そういういろいろを含めて練習する、

それ続けていく勇気、も、きっと必要なんだよ、と。

相手が「まな板のみ肥大」ヤローだったら、その部分で

相手の問題を「自分自身のために」引っかぶらない、とかもね。

自分にとって、いちばんよいバランスを探りながら練習して、

両方で、上手になっていけますように。

あなたにとっての、でも決してあなた「のみ」でもない、

一番加減よいうれしさ、楽しさ、つまり幸せを、育てていけますように。

人の役に立てるのは、やはりうれしいことなんだし、

両方の道具のよいレベルアップ、よい手入れ、よい見渡し、

そうした、自分にとっての塩梅のいいバランス加減をみつけられるよう

心から祈ります。

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