たぶん心屋センセに読者登録したことがご縁となって
私のブログを読みに来てくださったのであろう方で、
相互読者になり、ただいま絶賛☆育児味わい中のために
お仕事をお休みされているカウンセラーさんがいます。
この方が書かれていることは、なんだかいつも、
私の胸や腹にスルッと入り込んで爽やかな気持ちに
させてくださったうえに「腑に落ちる」ので、
私にはもはや、「悟り」を開き始めておられるようにも思えるほど。
すごいなあ、すばらしいなあ、と、しみじみします。
えーと、お仕事がお休み中なのでたぶん、
お名前出してリンク張らないほうがよいかと思い、
あえて今のところは書きませんが、
私が先日、肩書き「ステキすぎて」コメントさせていただいた、
育休中ですがイベントにはチョロリと参加されたりもする
Sさん、そのうちに読みにきてくださるかと思うので、
もしそれをやってもよければ、ぜひコメント入れてくださいねー(^O^)/
お忙しいと思うので、あるいはメッセで「許可」というひと言でも(笑)
さて、前置きが長くなりましたが、その方のブログを読んで、
うん、まさに、と思えて触発されたので、
「自分がまいたタネ」的な話をしてみたいと思います。
Sさんが書いてくださっていたのは、
自分が他者から「話を聞いて」と頼られたときのこと。
私も昔、経験があるのですが、自分が愚痴のはけ口になったあげく
そのトラブル等がなかなか解決しない場合、
その相手が延々、その話しか言わないように感じ、
何回か付き合っているうちにだんだん
「聞き飽きて疲れる」という状況になったりします。
20代の働き始めのころなんて、仕事も恋愛も友人関係も、
その他、家族のことなども、もろもろ、変化が起こるので
ネタは豊富なはずですが、
その分「若いゆえに重く感じる」話が混ざってきて。
それを聞いていて、最初のうちはまあともかく、
「いつ電話がかかってきても、彼氏の愚痴だわー」なんて
自分が受け止め始めると、もう、次の電話が、いやになってくる。
しかもそういう渦中の人って、相手の話を受け止める余裕も
あまり、ないですし(とくに若いとね……)、
一方的に『聞かされている』感が、どうしても自分のなかに湧いて、
電話が終わるとグッタリ疲れ……ああ、もう、と。
はい、すみません。生意気ながら私、
先輩、同僚、友人、それぞれに対し、
昔、感じてたことがありました。
で、Sさんもおっしゃっているのですが、
実は「それを断らなかったのは自分」なんですよね。
いい顔をしたくて、話を聞いて「あげた」。
親切心を発揮してして「あげた」。
その結果、問題はとくに解決せず、
相手もとりあえずそのとき、ちょっと気が晴れるだけ。
自分はだんだん、グッタリ度を高めていく一方。
……はい、これ、あまり、よろしい状況ではありません。
憂さ晴らし「させてあげてる」つもりで
自分にはどんどん「憂さ」が溜まっていく。
そのうち、いい顔も続けられなくなって、
そうなると逆に、相手からは文句が出たり。
でもね、自分のそうした「気持ち」を無視して、
そのとき、相手にいい顔をしたのは、
まさに私、だったのです……イタタヽ(;´Д`)ノ
そこに気づけないと、相手に対しそのうち、怒ってしまい、
相手側も「何なの?」になって、もしかしたらケンカにまで
なるかもしれません。双方ともに、心地よくはなりません。
自分で「やってあげようか」なんて思い込み
話を聞くほうを選んで、
自分で怒って、
自分から関係くずして。
結局は、イヤな気持ちになる。
何やってんでしょうね、私。
今なら、昔の自分に向かって「コラコラ」って、
ペシッと頭をはたいてあげたいです(笑)
そんなふうに格好つけて「いい顔」ばっかしてると、
あとで自分を苦しめるうえに
結局、相手にも迷惑かけるだけでしょ、って。
ええ、相手のせいにしちゃいたいところですが、
「先にそれをやってるの」は自分なのです。
そこの視点を、過去の私は忘れてました。
同様に。
これは『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて
慶應大学に現役合格した話』(角川書店刊)でも
心理学的な「自己効力感」「学習性無力感」などの用語で
解説されていたので、今までよりさらに! 自信を持って(笑)
言えるようになったことなのですが(今までは体験的な感覚だった)。
あ、上記の本については、また近々、
もっと詳しくご紹介したいです。たぶんサブブログかな?
単なる努力物語ではなく、これまた読んでよかった(^O^)
はい、怖い話ですよ。
「できないと思うと、本当に身体的な『能力』まで自分で
下げてしまうため、ますますできない可能性を高めてしまう」のです。
できない、と自分が思ってしまうからこそ、できなくなる。
それもまた「自分がそういうタネを選んで、まいて、
その刈り取りをしている」のです。
だから鬱の脳みそを回復させたいなら「できる範囲で楽しむ」、
それが「今の自分でもやれる、うん、可能なんだな」って、
まずはきちんと味わう、ってことが
やはりかなり、大切なのかも。
しかも! もっと怖い話ですが、
「無理」「できない」「苦手」という思考ばっかり繰り返すと、
やがて、「ふだんから無力感に包まれた状態」を、
自分で当たり前、と感じてしまうそうです。
うひゃ~。
そんなのをみずから、練習しまくったあげくに、
できない自分、能力のない自分、という感覚を
「通常の自分、普通、デフォルト状態」にはしたくないですよね、やっぱり。
なのでとくに、まだ視点を切り替えたり自分を見つめなおすのが難しい
「病」状態の人は、そのいやな思考自体を繰り返さない、
禁止でもなく(禁止するとかえって意識しちゃうので同じことになってしまう)、
そこから単純に「離れる」ことを、心がけてくださいね。
「やってる」(→そしてときには、ややこしい結果を招く)のも、
「やってない」(→そして結果、いつまで経ってもできない)のも、
つまりは自分が選んでそのタネをまき、自分が収穫するハメに
なっているのだということ。
愚痴を繰り返し聞く代わりに「それって自分で自分をいじめてるよ」
などと、相手が視点を切り替えられそうな言葉を伝えるとか。
「無理」と思うからいつまで経ってもできない、のか、
「本当は面倒だからやりたくない、
そこを自分で認めたくないだけ」なのかを、
自分でちゃんとごまかさずに見つめてみて
「結局はどっちを選ぶほうが、より自分が幸せなのか」を
きちんと感じてみるとか。
ちょっと落ち着いて。タネをまく前に、まず先に。
刈り取るとき(ずっと続いたとき、あるいはやった、やらない結果)
を、成果や出来事からではなく、
自分がどう「感じる」か、のほうで、想像してみる。
するとあらかじめ注意したい点などにも、気づけるかも。
自分がヘンに、疲れたりしないようにね。
わかってて、やって(やらなくて)、なのに
自分に(相手に)文句言う、なんてのは、疲れるもんね。
そんなふうに、今までとは違った部分も、
試していただければと思う次第です。