いろいろな形で、現れるのだな、と思う。
自己憐憫(れんびん)、他者への過剰関与、支配、
自己攻撃、他者攻撃、慰めの訴求、憂さ晴らし、恨み返し、……etc.
表面的に「私は あなたより 優れている」とか
「私は 他人より不幸だ」という思いが
「心のなかに現れる」ことがある、それはまあ、
人間関係のうえで、ときに起こりうることだと思う。
ただ、それを「実際に示し、他者に証明していこうとする段階」にまで至ると、
それは、他人との比較でしか自分を認められないんだ、
自分のことを本当は自分で嫌っているんだ、ってことを、
実は周囲に行動で表明していることになる。
競技などのある条件は除くとして、それ以外で
他者との比較というその感情を、具体的に表そうとするとき、
弱さ(不幸)を示そうが、強さ(能力)を示そうが、
それは「自分を認めていない」ことを態度に出しているという
同じ根っこへとつながっていくのだ。
そして、そこを何も解決しないままで放置し続けるのは、本当に苦しい。
なぜなら誰も、あなたの「代わり」に、
まるであなた自身であるかのように、
あなたを認めてあげることはできないから。
他者は、あなたに、真摯な思いから「素晴らしい」とは伝えられる。
本当に共感したうえで「たいへんなんですね」という言葉も使うことができる。
でも、誰かがあなた自身の代わりになろうとすれば、
それは「依存」にしかつながらない。
そして「依存」は、するほうも、されるほうもやがて苦しくなり、
結局いずれ、関係性が破綻するか、何かが壊れてしまう。
本人が気づかなくても、体調に現れたり、ね。
前にも書いたことがあるが、依存が起こっている関係において、
「常に私のことを認めろ」と言われ続け、それに従ってきた人の耳が、
数十年後、いきなり難聴になっていってしまった事例を、
私は2度、目の当たりにしたことがある。
どちらもまず、その強要する相手が「並んで歩くときにいる側」の
耳から難聴が始まり、いったんその症状が現れ始めたら
あっという間に加速して、やがて反対側の耳にも、影響が出始めた。
で、お二人ともそれぞれ医師から「ストレス」と診断され、
また、見事にお二人とも、強要し続けてきた相手側から
「私のせいだって医者が言うけど、なんだそれ?
そんなヘンな診断下すなんて」などと言われていた。
お二人ともそのとき、うつむいて黙っておられた。
こんな事例を2回も見たくなかったけれどね……。
たまたま、プライベートと仕事上の関係で2人、知ってしまい、
ああ、身体で拒否を始めてしまったんだな……と、思えた。
そんなふうにね、何か、ずれていってしまうのだ。
そして、自分の子どもに対しての場合は、
「頼る形」、「あるいは支配する形」のどちらであっても、
その関係を最初に「強要する」のは、
大人の側からになることが多いだろうと思える……。
そうしたことを知った私は、
だからこそもう、依存につながるかもしれない
「かわいそうごっこ」には応じられない。
たとえそれが身内であっても「できない」のだ。
求められたとしても、相手の代わりになって認めてあげられない。
相手との関係性がどんなに深くても、それゆえに
真摯にお詫びすることはあっても、
できない、と、はっきり伝えるだろう。
もし、それを自分が示していることに気づいたら、
そのときどうか、他者を「鏡」に使ってほしい。
なぜ自分がそれをそんなふうに示したいと感じるのか、
そのとき他者に、何を求めているのか、その「根っこ」をみる勇気を
いつか持ってほしいと、心から願う。
他者への「表明」は結局、自分をさらに深く傷つけることになる。
そして自分を自分で認められないという思いは、
これまででいちばん苦しいことだったと、
とてつもなく強いおびえにつながる苦しみであったと、
今の私には、思えているから。
他者や立場など外付けの条件による「納得」ではなく
「内側から起こる」思い、
誰もが内側で、すでに持っている
「自分はどんなときも、自分をそのまま、何の理由もなく認めていいのだ」
という思いに、いつか、気づかれますように……。