他者比較の視点から生まれる「後悔」

この3週間はいろいろ バタバタしていて

その中でふと 空いた時間に 気づいたこと

 

大切な人も いずれ あるいは間もなく

この世の修行を終えて去っていくのだという

当たり前のことながら 切ない事実

 

自分の命を 捨てようとしていた私が

身近な人の命が消えゆくことを思い

いつか訪れるであろう その日のことを考え

涙を浮かべる

 

過去の恋人 家族 友人 仕事上の仲間

すでに病を得ている人もいて

それぞれが やがて順番に この世での学びを終え

肉体を離れ 故郷へ還っていく

 

そう感じる自分のことを振り返ってみれば 

私はあの31歳のとき

この道でなく 別の あの道を選んでいたら

鬱になることもなく 必死に生きて 働いていただろうか

あの道を選んだとした場合 今の状況を考えると

切羽詰まって働いていることだけは 確かだろうな……

 

いやいや でも昔の私なら 今よりもっともっと

おバカで硬くて視野が狭いままだから

それで あの道を選んでいたら

もっとずっと 追い詰められていて 傲慢で

さらにたいへんになって もっと早くに 鬱に陥ったかもしれない

 

そうしたら 泣く泣く実家に泣きついていったのかな

あり得ない選択肢と知りつつ どうしようもなくて

そうしたら 今 こうして

ブログを書いている私など 絶対に存在しなかった

 

きっと 知人たちが亡くなるよりもっと前に

大事な友達が事故死するより前に

まんまと壊れていたか 自分を追い詰めていたか……

 

うん マジでありえる話だな

カチカチの 力みまくり人間だったから

そういう はっきりとわかりやすい選択肢だけでも

遡って考えていけば 31歳 28歳 22歳 15歳のときに

それぞれあって

それらは本当に その後の人生がはっきり変わる

明確な分かれ道だった

 

そのときは 最善を選んだつもりでいて

でも まさか こうつながっていくとは……という

想像を超えてばかりの 道だった

 

それぞれのときに 人間として ときには女性として

選んできた道があって 今 ここに私がこんなふうにいる……

しかもまだ 生きられていて(笑)

それどころか 生かされている と思えている

 

それはなんて 不思議なことだろう

 

振り返ってみても あのとき それぞれを選んだこと

そこに「大後悔」は存在しない

鬱という病の罹患も あの性格の私なら

遅かれ早かれ だけだったような気もする

きっとどこかでボッキリ折れて 今のように

視野も視点も ガラッと変わらざるを得なくなっていただろう

 

要はそういう学び方を 私が自分に設定していただけだ

そうなるように 自分で自分を明らかに仕向けていった

 

でも 後悔しても「始まらない」ことだけは

なぜか以前から 知っていた気がするし

今なら もっとはっきりわかる

 

後悔という行為自体が そもそも

他者や自分に対する「ある種の点数稼ぎの意識」ゆえに

「できなかったと捉えた」部分の 残滓だということを

 

ものごとを美しく「仕上げ」たり 見事に「格好つけ」られなくて

上手に「見栄を張れない」自分を

許さないままでいるからこそ

そうやって延々 残滓にして引きずるのだ

 

なぜ 許しちゃいけないんだろうね?

そんな点数稼ぎ 本当に全然 いらなかったし

この先もまったく いらないのに

 

だって どんなふうに自分を規定して

どんなふうに生きたっていいのだから

7点の私も 3点の私も 80点のときも50点のときも

自分で自分のことを全部 肯定していいのだから

 

それを「許せない」と思う その(ごめんね)傲慢さを

あなたが大事にして手放さないから こそ

自分に過大な期待をかけたあげくに

過小評価する「のみ」にとどまる

 

うん ある意味 傲慢で卑屈なのだよ それ

 

どれだけ自分を 「いずれ」素晴らしく

「する」「なれる」と思っているのか つまりは

どれだけ 他人より優れ 他人に勝とうとしているのか

他者より立派

他者より上の立場になり

もしかしたら他者を見下しもしたいという

その点に おいてね

 

実は自分の人生って「他人と比較する」ものではないし

「誰かより優れた人」に「なれる」のでもなくて

本当は ただ単純に もともと 自分は素晴らしいんだけど

 

そっちの話は 完全無視 するんだよね

その視野 すごく偏ってるよね

両方とも 知ること できるのにね

 

だから まあ その苦い残滓のほうを大事にしまくって

後悔しつづけることを選ぶのも お好きにどうぞ なのだけれど

間違いなく それを選んでいるのは あなた自身だということは

知っていてもらえたらと思う

 

自分はそんなつもりはない

誰かに何かされたからなんだ というときであっても

誰かに何か「された」から ゆえではなく

「何かされたと捉える」ほうを

あなた自身が選んでいるのだ

(そう 以前の それを知らなかった私と同じようにね)

 

大きな選択 小さな選択 それぞれの結果で

あなたはなぜか「他者より立派」なほうを

願うかもしれないけれど

 

本当は 今日のあなたが 明日のあなたをつくる

毎日が その小さな一歩一歩の 積み重ね

なのに点数稼ぎの視点だけだと そこで見える「幸せ」の形は

とても限定的で偏っているから

それを一気に または いずれドカンと

はっきり捕まえられる なんてことは

本当に「すごいラッキー」であって

宝くじで3億当たれば……と同じくらいに

夢想 に 近いのかもしれない

 

「得る」んじゃない 「ああなったら得られる」んじゃない

すでに「そう」だったものを わかりやすく膨らませるだけなのだ

 

だからこそ日々の自分を 他者とも 過去の自分とも

頭の中だけにある 理想の自分とも「比較せずにまず肯定する」ことが

よい方向へ進む近道の 必須条件になりうるのだ

 

でもまあ そこをガン無視したければ 遠回りになりそうだけれど

がんばってみて と私は言う

それもまた あなたの選択であり あなたの学び方だからね

 

「こうなりさえすれば」の願いを見つめ

今のよさや ありがたさを無視するほうの視野を

あなたが 選び続けていくということだ

 

私も以前 思い切りそれをやっていた

そして私は 鬱になってでも こう変われてよかったと思っている

昔も昔で別にね 実は あれで自分にとってはよかったわけだし

(カチカチのおバカさんだった自分に笑える)

今もどこかに 硬さはきっと 残ってるだろう

 

でもこれからの人生は

できるだけ 楽しむこと「のみ」に注目していきたい

苦さ 苦しささえも「自分で笑えちゃう楽しみ」に変える

 

そうやって味わいながら もっともっと

自分を好きになることを 学んでいきたい

 

もちろんときには 泣くだろうし怒るだろう

でも そのときどきの自分を「愛しむ」方向 そっちを見つめていく

それで いいのだと 今は本気で思える

だから「比較」とか「後悔」という文字は

もう 私の辞書にはいらないのだ

 

みんな それぞれ 違ってて 私もみんなも すごい からさ

ま 他者比較のほうは すでに死にたくなるほど してみたことだしね(^^;)ゞ

 

そうやって 生きていきたい これからも……

 

2014_10_26

 

 

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