自分に起こったイヤな出来事(他者から何か言われた、された、トラブル発生など)は、
私だからこそ、そう受け取った、という面も多分に含まれている。
たとえば、ある2人の人がいて、同じようなキツイ言葉を
他者から投げ掛けられたと仮定してみる。
2人とも、同じようにその言葉の表現に対して
「ひどいなぁ」という感情を抱いたとしても。
その「ひどさ」が自分の気持ちに突き刺さる度合いは、
人によって当然、違うのである。
ある人には、思い出すだけでもう、のたうち回るような苦しさとなり、
そこまで苦しいからこそ、相手を恨み、憎み、
さらにそうした、あとから湧く暗い感情によって、
自分を傷つけることとなる。
そもそも感情が動くことって、それだけでエネルギー、労力を使うのだ。
そして明るい感情より、暗い感情のほうが、
自分の疲弊度合いは強めになると思える。
なぜなら、そんな感情を思い浮かべる自分のこともまた、
イヤになったりするから。
相手+自分、どちらのことも「イヤ」と思うのだ。
一見、ヒドいことを考えてほくそ笑んでいるように見える人でも、
自分に対する「イヤさ」を見ないようにしているだけで、
それをイヤでないものとして、心から楽しめている人は
本当にまれだと思う。
憎んで、こんなふうに仕返しできたなら、と、想像だけでも
ほくそ笑めば笑むほど、あとで自分のほうに返ってくるもの
(実際の他者からのお返し、あるいは自分自身で
『私は何やってんだろう』と思う情けなさの感情)が
強くなっているように感じる。あ、これは私が知っている限りでは、ね。
暗い感情、黒い気持ちって疲れるもの、単純に。
だからこそ、自分や他者のせいにしたくなるわけだけど、
残念ながら、責めれば責めるほど、苦しさがネバネバと自分にまとわりつく。
そしてそこから抜け出すのも難しくなっていく……。
それさ。
相手をゆるすとか、そんな立派なお題目としてでなく
(もちろんその境地へたどり着けたら、より楽になれるし素晴らしいけど)、
単純に「自分のため」に、重たいままで延々、身にまとわりつかせることを
やめてもいいのじゃないか、と、思える。
ただ素直に、私がツライから、やめるのだ。
理由はその1点だけでいいのかもしれない。
そんなことしたら、相手が幸せになってしまうではないか!
相手に、やった、ラッキー、くらいに思われ、簡単にこのヒドさツラさを
流させるなんてとんでもない! アイツはもっと苦しむべきだ!
そのために、私はこの恨みを忘れないのだ!
そう感じる場合があることも、もちろんわかってはいる。
恨みが骨の髄まで沁み渡るような、そんなヒドさを、
他者に平気で与える人も、確かにいるから。
でも、その少し前、その場所で、その相手から、それを受け止めることを
選んだのは、自分だったりもするのだ(これ、本当は親に対しても
言える話なのだが、説明を始めると宗教的な考え方にも踏み込むから今はやめる)。
普通に考えて、その相手に近づくことを選んだ、という意味で捉えても、
そもそもその環境を選んだのが自分、ということはわかってもらえると思う。
そこで起こった出来事や人間関係は、自分がその環境に身を置いたからこそ、
経験したこと、ではあるのだ。
じゃあそれを、恨みや苦しみやヒドさ、だけに変えるのではなく、
何かを自分が「得る」ための学びに、少しくらいは変えてもよくないかな?
他の人はどう感じるのだろう、と見渡してみたり、
あるいは勇気を出して、第三者に尋ねてみたり。
それに関する本などを探して読んでみたり。
そういう、違う角度から見渡してみる方法というのは、
決して悪い経験にはならないと思う。
少なくとも自分の苦しさで、のたうち回り続けるよりは、
気持ちが切り替えられたりするんじゃないだろうか。
そして、やっと表題の話にたどり着くんけだけど(笑)、
自分のために、のたうち回るのはやめよう、と思うときに、
その苦しさから距離を置く方法としてよく話されるのが、
手放す、流す、というやり方と、きちんと反論を表現する、というやり方だと思う。
うん、自分自身のためだけに、手放していいの。
こだわり続けるのがアホらしいから、バカバカしいから、
暗い気持ちに浸る、そんな時間をわざわざ「割いてあげる」のをやめる。
相手のことを思うとき、自分のエネルギーを、
相手に与えていることにもなるから、もう、
自分は相手にそんなものをあげない、と決める。
基本はそれでいいのだと、今の私には思えるわけです。
愛の反対は無関心だと、前にも書いたと思うけれど、
憎しみの反対も、もしかしたら無関心なのかもしれない。
あなたの大切な時間、大切なエネルギーを、
そんな感情に浸るために使ってあげる必要は、本当はないのだ。
で、どうしても、簡単には手放せないときは、その暗い黒い感情を、
何らかの形で吐き出そう。自分に対する黒さの感情ならとくに。
流すのも、吐き出すのも、ある種の練習が必要かもしれない。
今まで、そんなふうに自分の感情と向き合ったことがないなら、なおさら。
吐き出す相手は、その苦しさのもとになった張本人でなくていい。
周囲でそれを見ていた第三者、静かに話を聞いてくれる友達に話す、
あるいはそういう人を想像して、手紙を書く。
自分に対する手紙みたいな日記、でもいい。
大きい模造紙に、片っ端から、気持ちを書き並べてみてもいい。
思いつくまま、最初は罵詈雑言を書き出してみていいのだ。
心で思っていることを「見える、聞こえる形」にすることって
実はすごく大切な練習で、自分が今まで感じて来たこと、が、
他の記憶ともつながって、どんどん表層化していく
(だから意見を述べず静かに聞いてくれる友達は、すごく助けになるのだ)。
それがたとえば「そういえばいつも私は」というふうにつながり始めたら、
とても大きな、切り替えのチャンスが生まれる。
紙などに書いたり人に話して「いつも私は」と気づいていくやり方は、
心の中で「いつも私は」と繰り返し思うこととは違い、
まったく別の、新しい方向へ向かえる機会になりうるのだ。
書いているときにこの「いつも」が現れたら、あきらめずに、
その「いつも」の中身についても、書いたり話したりしてみよう。
するとそこに、自分の捉え方のパターンが見つかったりする。
私が最初に書いた「人によって受け止める度合いが違う」ことにも気づけたりする。
視覚化、音声化することで、なぜ違うのか、という別の見方を
引き出すきっかけにできるのだ。
私もつい最近、身内とポチポチ、メールでそれをやらせてもらい、
流せないからこそ、書いてみたことが
自分を落ち着かせるきっかけになった。
さらに、この記事の前に、実は2本くらい下書きを書いていて(笑)
身内とのメールを含め3日間くらいで、自分なりに気持ちがまとまったのだ。
あ、ちなみに私の感じたことは、恨み骨髄というほどではない、
ひどいなぁ、レベルの出来事と、それについての自分の気持ちね。
人によっては流せるんだなー、でも私は流せなかったな-、
流せなかった理由も、こんなところに見つかったなー、なるほど。
そんなところにたどり着いた。
問題解決、ではないけど、流していくための練習にはなった。
そして、伝えても相手に届かないとき、そういう時期のときには、
本当にこちらの思いって、見事にまったく届かんのだなー、というのが、今回の結論。
ま、これはお互いさまかもしれないしね(^^;)
そしていずれまた、問題は勃発するかもしれないが、
今回はもう、この辺でいいか、という感覚になれたよ。
この先、勃発するかどうかまで、今、予想して
さらに不安になっても仕方ないし。
先のことは誰にもわからないから、
自分のためにまず、やれることをやるしかないのだ。
そんな方向のエネルギー源に、今回は変えられて、
それはそれで『早くやれ』というハッパにも思えて、
軽く苦笑したのであった。
ま、そこに至る状況を作ったのは、確かに私ではあるわーσ(^◇^;) と。
長くなったけれど、すぐ流せないなら、
そんなふうに自分の感覚、感情を表明し、
つまりいったん自分で意思表示することで、
何か別のものに、自分のために、
変えていってもらえたらと願いますm(_ _)m
Photo by フォトマテリアル
一気に解消できないなら、
あえて向き合い、ゆるゆる流し去る。
それもまた、よろし、なのです(^^)