受けた傷の痛みは、
それを受けた本人にしかわからない。
この言葉を書いたのは、
14歳の、当時、同級生だった男の子で、
私がそれを読んだのは、
かれこれ30年前以上昔、ということになる。
悲しいこと書くなぁ、と思ったけれど、
当時、彼の家庭環境はかなり複雑そうで、
いろいろ辛かったようなので、
そうか、だからかな……と、私は感じた。
それは一遍の詩の、始まりの言葉。
当時の私には、出てこない表現。
当然、幼いこともあって、私には
彼の苦しみの深さは、わからなかった。
でも、
そうか、痛いことがあるんだね、と
紙に書いて伝えて、
うん、と彼が返事をしてきたので、
それは、つらいね。
と、真面目な気持ちで書いてみたら、
その短かさゆえか、私の気持ちは彼に届いたらしく、
ありがとう、という言葉を、
返してもらえた。
何か役に立ったかどうかは、わからない。
ただあのとき私は、
寄り添っていたのだろうと思う。
一人の友だちとして、彼に対し。
当時、彼の詳しい状況なんて、何もわからなかったけれど、
それでも何かを感じたから、ちゃんと真面目に書いたのだろう。
そうしたら、そのことが、
当時、苦しさの中身を
具体的には他者に表現できなかった彼に伝わったから、
ありがとう、の言葉を返してもらえたのだと思う。
ちなみに後日、
私が失恋して落ち込んでいたとき、
また彼から「元気ない?」と
文字で尋ねられ、
「うん、失恋した。悲しい」
と返事をしたら、
「悲しいときは、星を見ればいいよ」
という返事をしてくれた。
「曇り空で星が見えなかったら?」と
質問したら、
「曇りの日は、心で見ればいい」と。
そのさらなる後日談として、
夜の7時に、わざわざ私の家の前まで
自転車で、小さな天体望遠鏡を運んで来てくれて、
生まれて初めて大きな月の表面と
『二連星』の姿を見せてくれたのも、この彼だった。
そのあと、時期をずらしてお互いに片想いし合い、
タイミングが合わなくて両想いにはならなかった……、
そんな、のちの恋が始まるもっと前の、
性別や環境や立場などは何も関係ない、
単純な友だち同士としての、心のやり取りの話。
相手の痛みの、その中身、度合いを、知ることはできなくても、
寄り添うことは、できるのだと思える。
共感、という気持ちを持つことによって。
そして逆の立場になったとき、
相手が共感してくれたという、その気持ちを、
自分が、受け入れられるなら、
ありがとう、って思えるのだと。
彼が言うとおり、
誰かの痛みを、まったく同じ痛さとして
他者が感じることはできないけれど。
その痛さを知らない人からであっても、
寄り添ってもらうという形で楽になれることは、
確かにあるのだと思う。
そして、相手や自分の痛さの『度合い』がひどすぎる場合、
受け取れないときもあるだろうし、
それもまた、そうであっていいのだと。
ここからは、個人的な意見。
そうしたことを知ってはいるけれど、
知ったうえでなお、
私は、ときにはあえて、断定的な表現も使うと思う、これからも。
なぜなら、その内容に注意を向け、
自分で反発なり、
引っかかりなり、
何でもいいからつかんで、
そこを「きっかけ」にしてくれる人が、いるかもしれないから。
その人自身が備えている『自分の力』。
腹が立つからこそ、
「なぜ自分がそう感じているか」を知り、
新しい考え方に気づいていく……。
その可能性が、あると思えるから。
ただ、そこには、伝える勇気も必要。
断定表現にまで至る勇気の度合い、
私はまだまだ、低いけれどね(ええ、怖くてまだ逃げてるね(笑)すみません)。
なので、たとえば心屋さんや武田双雲さんに対しては、
意見の中身云々でなく、単純にその点で、尊敬の念が湧く。
こちらからの一方的な語りかけをするときに、
自分が持つ覚悟って、そういうことなんだろうと、
今の私には思えている。
そもそもその文章が、勘違いの自画自賛を含む
「井の中の蛙的な説得」かどうかは、
読んだ相手にきちんと伝わると思う。
さらに言えば、変な話、需要と供給という面もある。
私に全部任せていいよ、
大丈夫よ、私にはわかってるよ、
と、他者を自分に依存させたいかのような人のところには、
ちゃんと、という言い方も何だけれど、
他者に依存したい人が寄っていくことも、想像はできる。
たとえそのあとで、新たに苦しむことになったとしても、
それぞれがお互い、抱えている問題ゆえに起こることだから、
その苦しさの経験こそが、それぞれ
「何かに気づいていけるきっかけ」
になるかもしれないよね。
自転車に乗る練習をするかのように、
どんな道のりでも、自分で学びにはしていけるから。
自分でいつか捉えられれば、それでもいいのだと。
それこそ他人が、先走る予測みたいな心配から
口を挟む話では、本当は、ね……、ないのだと思う。
最後に……。
14歳の彼の詩も、
その後のやり取りも、
全部、授業中の手紙回しだったことを伝えておきたい。
ゆるいおバカな中学校の、
ゆるゆるな授業時間だからこそ起こった、
他者との触れ合いの機会。
詩という形で、開示してもらえたことにも、
こちらにありがとうが還ってきたことにも、
のちに逆の立場で、開示させてもらえたことにも、
それを思い出せたことにも、
思い出すきっかけを与えてもらえたことにも、
感謝。
Photo by RachelBostwick
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