やることで得る喜び

仕事でもプライベートでも、

やる喜び、が、そのとき自分にあるなら。

さらにそのあとから、何かが還ってこようがこまいが、

それは本来なら、どちらでもよいことのはず。

 

やること自体が楽しいなら、その時点ですでに、

自分がきちんと喜びを受け取れているからね。

だからそのときは結果がどうなるか、よりも、

やっていることそのものを、味わったほうがいい。

 

たとえば誰かから、何かをやってほしいと頼まれた。

そのとき、そこに『自分にとってのやる喜び』があるなら、引き受ければいい。

賃金契約による労働などの『社会的約束事』の部分では、

全部そうできるとは限らないけれど、やってうれしい部分を探せば

自分の気持ちが確実に切り替わるよね、そこで。

 

で、日常生活においては、あなたにも当然、断る権利はある。

なぜなら相手はそのとき『やってもらうこと』という部分を受け取りたいのだ。

だからこちらは『やること』を選ぶかどうかの判断、をすることができる。

相手が受け取りたいものを渡すかどうかは、自分が決めていい。

 

それを、やってあげておいたら、あとから何か返してくれるに違いない、

などと勝手に自分で予測して、

なのに、その予測については何も言わないで、

黙って、やりたくもないことを「はい」と引き受けてやったら、

相手は『この人はやりたくて、こちらが受け取りたいことをやったんだな』

と、受け止めるかもしれないよ?

 

そうしたらその時点で相手は、受け取っておしまい、になるかもしれない。

あなたはやりたかった、こちらは受け取りたかった、

なのでちょうど、お互いの気持ちの都合が合ったね。以上。

 

で、こういう場合に、あとから文句つけること多くなるのよ、やった側が。

「返してくれるに違いないと思って、別にやりたくはなかったこと、

あなたが言ってきたからやったのに!」って。

 

自分が感じていることを黙っておいて、

そのときに伝えなかったのは自分なのに、

後出しジャンケンみたいに、言い始めたりする。

 

じゃあ、そもそもやりたくないのなら、やらなくていいよ、って、

相手は思うかもしれないよ?

 

少なくともその人は『受け取りたい』ということを伝えた。

その人の意志を、その人の自由で、伝えた。

 

ならそこであなたも、自分の自由で、自分の意志を伝えればいいじゃない。

気が進まないけれど、あなたが受け取りたいみたいだから、今回は私がやるね、

その代わりに次はあなたが返してね、って、提案すればいい。

 

相手の受け取りたい気持ちを否定するのでもなく、

自分のやりたくないという気持ちを無視するのでもなく、

折り合い、つければいいじゃない。

やる喜びがあるものを、引き受ければいいじゃない。

 

見返り欲しさに、点数欲しさに、黙って耐えておいて、なぜあとから怒るの? 

隠していたのは、自分の意志でそうしたのに、

なぜ隠した気持ちの通りに相手が返さない! って、怒るの? 

それ、変じゃない?

 

自分が何を求めているのか、自分でもわからなくなってる?

自分の気持ち、無視し続けて、感覚がマヒしてるかな?

 

どうせやるなら、やる喜びが持てるときに、

自分で喜びを感じるために、やろうよ。

人の役に立つ、その行動の『経過』や『内容』自体は、

本来、楽しいことだし、うれしいことだと思えるよ。

 

やることで喜びを感じられて、さらにあとから何か、

相手からたまたま還ってくれば、

喜び、さらに増えてうれしいよね。

還ってこなくても、自分のために「やってあげられた」という記憶は残せるよね

(還してほしい人は相手の反応だけ見ているから、

この自分のため、の部分をよく無視するけど、きちんと自分のためにやろうよ)。

 

それにさ、やれる対象がいることも、幸せなんだよ。

わかりやすい例で言おうか、人間じゃないけれど。

散歩している間、喜びまくっている犬を見るの、自分もうれしくない?

自宅に帰ってきてから、犬に対して、

「さあ! やってあげた見返り渡せ!」とか言う?

相手が喜ぶ姿って、相手が求めて自分もやりたいときにやれば、

その『やってる時間』自体が、すごく幸せだよね? 楽しいし、うれしいよね?

その相手が「いてくれる」だけで、うれしいよね?

ペットに対するたとえなら、この感覚の意味、伝わると思える。

自分以外の存在に対して、ありがたさを持てる関わり方を、

自分が選んでいいんだよ。

持ちたい人に対して、素直に。

 

それをなぜか、ありがたさでなく、見返りについての文句やら

未来の、関係が消える予想の恐怖で覆ってしまったら、

ペットさえ毎日毎瞬、腹立ちや恐怖の対象に変わるよ。

今の時間の大切さは見ず、損得勘定やお別れ予想の未来だけ見つめればね。

 

なぜ今のありがたさでなく、損得や未来の恐怖ばかり見なくちゃいけないのだろう? 

自分からわざわざ、そんなこと。

 

こうした基本的なこと、もっと大切にしてもいいと思えるよ。

そうすれば、あなたも誰かにとって、

いてくれるだけでうれしい存在になれるよ、当然。

自分の感じることを大切にしていけば、

おのずと、相手が感じることを相手もまた、

自分がそうするのと同様に、大事にしてよいのだということが、

頭でなく『腑に落ちる』感覚で、理解できるから。

それをお互い大切にしていけば、いるだけでうれしい、そういう関係になっていく。

そのためには、自分がまず、その姿を見せていくこと、必要だと思えるよ。

 

還してもらえるかなんて、わからない。

そもそもが、どうなるかはわからない未来なんて、

誰が考えても、いろいろネガティブにも、捉え得る。

怖さだけをあえて見つめ続け、今のほうを、そして自分を無視していったら、

そりゃもう、誰にとっても未来なんて、つらいだけだよ。

今を、自分の感覚を、大切にしようよ。

そうすれば、やる、やってもらう、のありがたさにも、

そういう存在がいてくれるありがたさにも、『今』のありがたさにも、

もっと自分から気づけて、

そちらのほうをより見つめていけると思えるんだ……。

 

2015_06_04

Illustration by ククブログ

 

追伸:

ほんの数回、気づきを得た、そのときの決心で、

長年に渡り自分に叩きつけてきた

『~ねばならないのに』の思い込みを、

見事に自分が消せると思うほうが……おこがましいわ。

どれだけ能力高いと思ってるの? それ。

 

……と、強く言ってみたら、自分がどれだけ自分に理想を課しまくって

できなければ即罵倒、で結局、毎回、自分を痛めつけてばかりであることに

気づいてもらえるかな?(^0^;)

キツくてゴメンね。どんな書き方が届くかわからないから、

今日はこう書いてみる。

 

即効性やら完璧やら結果ばっかり、ホント、求めすぎ。

自分に対しても他者に対しても、

出すからクレクレ ばかりの、

ほめて欲しいその子ども感覚、

だんだん卒業していこうよ。

100点、取っても取らなくても、いいんだよ、別に。

 

なぜそちらをやってしまうのか、を捉えて、

その苦しみ方、手放していこうよ。

あなたが自分のために、ゆるめてあげられるよ、その縛りを。

あなた自身にしか、できないことだよ。

 

 

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