「本気」で、やってみていいことかも

今日は、改めて『何もできない』の思い込みについて、

まずは森田療法のやり方の一部の話から書いてみたい。

 

鬱のとき、自分がいかに役立たずの穀潰しであるかを、

イヤというほどかみしめた経験がある人は、多いと思う。

食事もお風呂も面倒で、私は朝日が昇るのもダメだったから、

そんな自分を思い出したように1日に何回も罵倒しつつ、

ひたすら何も『できず』に過ごし、

やがて疲れてなんとか眠る……という日々を過ごした。

イヤな暗いな気分のまま、膝を抱えて座り、ボーッとしていたら

30分程度はあっという間に過ぎるんだよね……。

 

で、ときにはPCに向かい、同じように辛い人の情報か、

回復または気分転換のための情報か、

何も考えずに2ちゃんねるや悩み相談・質問サイトをダラダラ読みにいくとか。

それでまた、2時間くらいはすぐ過ぎる。

 

あとは延々と、PCに付属しているカードパズルっぽいのやらオセロゲームに没頭。

昼夜逆転しようが何しようが、ダラダラ。

そんな日々を幾日も過ごしたりする人もいるだろう。

 

さて。

森田療法のことは、回復期に本で少し読んだだけで、

回復期だったので(死ねなくなった、あと)、

直接には体験しないまま、通り過ぎた。

でも、患者にまったく何も「させない」という部分は、

とても強く印象に残っている。

 

朝、起きる。ご飯を食べる。風呂に入る、合間にトイレに行く。

それ以外の行動、なし。

もちろんネット環境、スマホもパソコンもなし。

本も雑誌も新聞もなし。きっと、メモを書くことすらなし。

たぶん入っている部屋の、窓の外の景色は見ていいのだろうけれど、

外に散歩に出ることも、最初はとくに、あまりないのだろうと思う。

 

この生活を始めると、当然、退屈するだろうと思う。

ボーッとしていられるのも、眠ってばかりいられるのも、

最初のうちだけで、そのうちいつか、必ず飽きる。

 

でも、飽きたとしても、そこで何か、作業はできない。

どんなに訴えても、何もできない。

そう、何も『できない』と言いつつ、私の場合なら、

PCで文章を読むことなどは『できていた』んだよね。

ゲームすることは、できていた。

ものすごくどうでもいい暇つぶしなんだけれど、

そうやって『何か』は、できていたのだ。

 

本気で森田療法をやるなら、専門家の指導の元でやったほうがいいと思う。

そういったものには行けなくて、もし、自宅で自分を責めていたとしても、

それはまったく『何もできない』わけでないよ。

私も、PCに触れていなくても、起きて『座って』はいられた……。

 

『できない』のは生産性のありそうなことであって、

そうじゃなければ自死の効果的な方法探し、その情報あさりでさえ、

『できていた』のである。

 

何も『できない』って厳密には、

超高熱を発するなど、ものすごく身体全体がつらくて、

ベッドに3日間以上寝たきりとか、そういう状態のことを指す。

その状態と、自分との違いまでは、ほとんど見ていないよね。

生産性というものをどこまで持ってなくちゃいけないのか、

自分できちんと突き詰めてまで、考えているわけでもないのに、

自己卑下から動けないと決めつけ、漠然とした『何もできないダメ』感覚の枠内に、

自分自身を閉じ込めてしまうのだ。

 

でもさ。

そこまで自分がボロボロになっているときに、

生産性のことで罪悪感、どこまで感じなくちゃいけないんだろう。

病の人が、どこまで自分を責めなくちゃいけないんだろう。

周りの人の話じゃないよ。

周りに言われるから、とか、他者のせいにする気持ちもわかるけれど、

それを「自分を追い込むほうへ」受け止めて今、まさに使っているのは、

自分で選択している部分、ないとは言い切れないよね?

うるさいから、鬱陶しいから、であっても、従っていくことを

自分で選んできた部分、あるよね?

 

生きることをある意味、難しくしてきた部分は、自分にも、あるよね?

 

ならば少なくとも、そこの追い詰め度合いは、

自分で解除してあげてもいいんじゃないかな、と思う。

 

たとえばね。

青森に「森のイスキア」という施設があって、

そこにいる方は、疲れ果てた人に、おむすびを食べてもらうの。

食べるだけでなく、自分で作ってみたりもする。

握ったおにぎりを、分け合って、静かに食べる。

 

人って、それだけで、ホッとできたりも、するんだよ。

小さなつながり。小さな安心。

ただ、それだけでも、ね。

 

だからそういうこと、自分にも、ゆるしてあげていいんだよ。

あなたが、選んでいいの。

だってあなたは、今、すごく疲れているから。

それでもまだ、自分を責めようと、頑張っているから。

きちんと罪悪感、感じているから。

 

それはあなたが、いい人である証拠でもあるし、

あなたがまったく何もできていないわけでないことも、事実だよ。

 

そしてその罪悪感というのは、ある「一つのものの見方」から生まれていて、

人間は、その一つの見方だけに縛られなくちゃいけない存在ではないの。

絶対に、ないの。

 

だからね。

今までの見方とは違う、別の捉え方、してみてもいいと思えるよ。

それを自分にも、本当にゆるしてあげていいと、思えるよ。

 

最後に。

ヒントになりそうな、ある方のブログ記事と、

森のイスキアの紹介記事も、挙げておくね。

どちらもリンクアドレスは短縮して。

 

小さな小さな『本気』でいいから、

今の「一つだけのものの見方」から、少し離れてみる練習、してみてね。

 

◎森のイスキア 佐藤初女さん neverまとめ
http://ow.ly/3xWqiC

 

◎坂爪圭吾さん いばや通信
【KUL-クアラルンプール】多分、これが希望だ。希望は良いものだよ、多分いちばんのものだ。良いものは決してなくならないんだ。
http://ow.ly/3xWqjn

 

2015_06_08

Photo by Jonathan Kos-Read
ID:201408010000
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

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