努力と結果と押しつけと。

とある方のFacebookのコメントで

『人の努力を笑いのネタにする資格が自分にあるのか考えてみろ』という感じの

書き込みを見て、ザワザワして思わず意見を書き込んできた(謝りつつ書いたが、

その記事の本質とは関係ない話だったので申し訳なさは感じた……)。

その方のコメントフィードが荒れないことを祈りつつ、

こちらに土俵を移して、自分が感じたことを書き込んでおこうと思う。

 

努力した。その結果を表現した。

その内容を、他者がどう受け止めるかは、他者の自由だと私は思っている。

このブログでもたびたび書いていることだが、

私がこんな勝手な話しかけブログを書いているのは、

本当に私が「やりたくて」やっていることであって、

それを「こんなふうに使ってください」とか

「こんなふうに感じてこうしてください」なんて

『命令』する気は毛頭ない。本当にない。

そう感じてくださればいいな、という「祈り」は籠めるけれど、

真逆に感じられる方がいたって、私が怒る筋合いではないのだ。

 

なぜなら、私は「SNS」という、誰もが自由に意見を書き込める場で、

こんなふうに文章を書いているから。

そしてこれは、別に文章やブログだけの話でもなく、

日常で「人と関わる」ときに気をつけたいことだとも思っている。

 

私がやったことを他者がどう受け止めるかは、その人の選択の自由であり、

それを私が「心地悪い」と感じた場合、改善の努力をするかどうかもまた、

私自身の選択である。

 

「私がこれをこんなふうに努力してやったのだから、

あなたは私が意図した通りに、これこれ、こういうふうに

受け止めなさいよ!」というのは、基本、

その人のエゴの押しつけであると思えるのだ。

……ごめんなさいね、親子の間でも、親が子に、子が親に、やっていると思える。

私も一人の子どもとして、未だにその部分は持っていると思う。

 

相手に、または誰かに、認めてほしい。

その気持ちは当然わかる。というか、私も普通に持っている。

だが、どうするかは相手の選択の自由である、ということについては、

昔よりは理解できてきたように、自分では思えている。

 

だから、届かない人には届かない、ということも、割り切れるようになった。

そこを「なんとしてでも」とゴリ押ししたところで、無理なものは無理なのだ。

 

じゃあとくに、他人が関わってくる部分での努力は、

相手がどう受け止めるかわからないから無駄なのか、というと、そうではない。

まず何よりも「私がやりたくて」やって、そのときに私が「心地よければ」、

その努力は無駄ではないのだ。

結果を他者に押しつけようとするから、ややこしくなるだけで。

 

たとえば家事なら、掃除をしたかったのは私。

洗濯したかったのは、誰か特定の相手のために料理することを選んだのは私。

料理したら食べてもらえる相手がいる幸せを楽しみつつ、やったのであれば

そこでまず、無駄、失敗、とかという「概念」そのものは、必要なくなる。

私が心地よいのだから、そのときに。

 

それを誰か特定の人のためにやって、

その相手が負担に思ったり、不満に思ったりしたら?

 

そこで次に行うことは、全部を相手の言う通りにするのでもなく、

全部を自分の思うままにしようとするのでもなく、

「自分としてはどういう意図であったか」を説明しつつ

では「どの程度、どんなやり方なら、お互いがより心地よくなるか」を

臆することなく、探ることなのだと思う。

そこを怖がったり、勝手に判断したりするから、ややこしくなるのだと。

 

私は私の自由で、私の気持ちを尊重して、私のやりたいことをする。

相手はそれを、自由に受け止める。

そこが通じ合ったときに喜びがわくからこそ、

誰かのために何かをすることが「お互いにとってうれしいこと」に変わる。

 

最初から相手の評価を狙っていくと、意図したことと違う結果が生まれたときに

自分、または相手を責めなくてはならなくなる。失敗、などと捉える。

やることが怖くなる。自分の気持ちを、あるいは相手の気持ちを大切にしなくなる。

 

でも怖いからと『何もしない』ことを選択したら、

自分のなかに湧く「やるうれしさ」も

他者との間で起こる「通じたときのうれしさ」も感じられない。

これらは、やらないと、感じられないこと。

 

つまりそうやって、何かを自分がやって「表現」した瞬間、

それは「外に現れて一人歩き」を始める。

話した言葉でも、文章でも、行為であっても。

そして相手がどう感じるかまでは、本来、コントロールすべきではない、というか

コントロールできるものではないと、私には思えていて、

だからこそ!

通じ合ったときに、ありがたくてうれしくなるのだ。

対等で、うれしい。

自分も相手も、両方、大事にできるからこそ、より、うれしいのだ。

 

自分がやる喜び。

まずそれを大事にできないと、こうした状態は、生まれない。

「私が自由に、自分のために、やりたいことをやった」からこそ、

通じたらもっとうれしいのだから。

 

そして自分がやる喜び、を大切にするためには

自分が「本当は」何をしたいかを大切にしないと、

自分が何を感じてどうしたいのか、を大事にしないといけないだろう。

 

他者の顔色をうかがう人は、ここをすごく軽く扱う。

軽く扱うどころか、自分が感じることを相手に気に入られるために

無視さえしようとする。

「結果を出す」ために、自分の感じることを封印するのだ。

 

自分が何をすれば「自身での喜び」を感じられるか無視して、

他人の思惑、他人の反応だけから喜びを得ようとする。

それはある意味「他者の思うとおりの人形」になることに、実は等しい。

人形と言えば聞こえはいいけれど、

「精神的な奴隷」と表現したらそのひどさが伝わるだろうか。

 

自分が疲れて、疲れれば疲れるほどうまくいかなくなる理由が、わかるだろうか?

無駄に空回りしていく理由、それは自分という存在を自身では放置しながら

その一方で「認めて認めて!」って他者に自分を押し出す、

気持ちのうえで相手の奴隷になりながら、押しつけることをやめないからだ。

自分が自分を無視しておきながら、他人には認めろと押しつける矛盾。

 

そう、私もかつて、評価欲しさにやり過ぎて、ある日ぼっきり折れたのさ……。

 

あなたが、やりたいことをやる。

あなたが、自分で喜べるから(他者が喜ぶから、より先に!)やる。

 

その結果を他人に対して「押しつける」のでなく

自分がやったら、努力したら心地よいこと、が第一選択肢。

その選択範囲内でのみ「他者にとっても、喜んでもらえそうなこと」を選ぶ。

そうやって初めて、努力した気持ちも、活きていく。

 

誰かが喜びそうなことを第一優先にするから、おかしくなってもいくのだ……。

 

もちろん、今の私も、まだまだ練習していること。

たぶん、社会で生きて(活きて)いく限りは一生、練習することなのだろうと思う。

 

でもね、そうできるようになったことがうれしい。

そうできる環境でいられることが、うれしくてありがたい。

 

今日のこのブログも、私が書きたいと思えた話。

ここから、誰かに何か届けば、とてもとてもありがたくてうれしい。

その方が持つ「受け取ってくださる感性」、

その方自身のお力に、今日も私は心から感謝しつつ、祈ります。

 

必要な方に、必要な言葉が、届きますように。

 

2015_06_12

Photo by Body-n-Care
Pixabay

 

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