苦しい、と感じるときは、誰にもある。
私ひとりが、こんなに苦しいのだ、
他の人はここまでならない、と
信じてしまうのもまた、決めつけだよね。
苦しみを全員が全員、
外に表すとは限らないのだから。
人の闇は、他者が計り知れるものではないのかもしれないと、
私には思える。
でも、だからこそ。
その苦しみは苦しみとして持ちながら、
それでも。
生きていていいこと、それもまた
事実なのだと、思えている。
残酷かな。苦しみを見つめまくって、
それしか見たくない人には、残酷だよね。
じゃあなぜ、それしか見ない、のだろう?
問題に対して、真っ向勝負で闘って消すことが、
勝つことだけが、克服の方法ではないのに。
他者の経験を聞いたり、
ふとしたきっかけで聞いた言葉が
自分の中である日、つながって、
ああ、これは、あのことにも通じる、
あのことって、状況はちがっても
これと「同じ」なんだ!
と『開ける』ことだって、あるんだよ。
閃く……ヒラメク、ではないの。開くの。
開くように、気づくの。
これ、闘ってないよね?
真正面から、そればっかり見つめて、
潰そうとはしていないよね?
つながって『開く』のだ。
そんな解決方法だって、あるんだよ?
なぜ、見つめまくらなくちゃいけない、
そうじゃないといけないんだ! と
あなたは、信じているのだろうね。
自分をゆるめること、
心地よい状況を少しでも作ること、
どん底になっても、
そこから階段を一段だけでも、
上がる許可を自分に出せること。
そのゆるめ方が上手になればなるほど、
『開く』機会も増えるのだと思うよ。
だからもう、自分を貶めることを、自分がやめていこう。
見つめないことは、罪でも逃げでもない。
抱えていくこと、つきあうこと、
でも必ずしも角を突き合わせなくてもよいこと。
そういう許可をまず、自分に許そう。
どうしても見つめてしまうときは、
本気で見つめまくって、
ある一定の時間が経ったら(15分以内で
私はよいと思えるよ、それ)、
今日はここまで、はい、おしまい
ってやめていいんだ。
その勇気も、持っていこうよ。
苦しみだけを見つめ、
それと角突き合わせて闘っていく時間、絶対に必要ではないのだから。
あなたが作る、あなたのための余白は、
あなたを『開く道』へと移行させて
いくための、練習にもなっていくよ。
何のためにやるか? 自分が、
状況を変えていくために、だよ。
やってごらんよ、四の五の言わず。
静かな音楽、真剣に聴くとかさ。
そうやって真剣に、練習し続けてみなよ、
練習が自分を『開く』こと、嘘じゃないからさ。
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