イヤ
イヤ
イヤ
を繰り返して、それで
ダメ
ダメ
ダメ
につなげて、自分や他人を
そういうものだと決めつける。
一部分を拡大して、それが自分の全部だと信じる。
そりゃあ、人生、苦しいね。
誰かから、言われたから?
ふーん。
「お前はダメだ」と
言い放てる人ってね。
それを言い放っている段階で
「言ってる本人がまず、すでにダメ」
ということでもあるのよね。
たとえそれが、親であろうと、
家族であろうと。
「だからお前はダメなんだよ」
と表現する人がいるとき、その人は、
その『だから』に、
自分の過去の記憶を
いっぱいくっつけている。
しかもその記憶って、
過去のその瞬間に、その人が
『そう解釈したこと』でしかない。
他の人が受け止めたら
『そうは解釈しなかった』ことかもしれない。
お前はダメ、と言い放てる人のほうが、
自分のダメさを知らないだけかもしれない。
罪なき者が石持て打て。
この言葉の意味を少しでも知っている(肌で理解している)なら、
他者にそんな言葉を、簡単には投げつけられないよ、恥ずかしくてね。
そして、その人と自分は違う人間だから、
その人がダメだと感じたことが
たった1つの『正解』である訳でもない。
ただ、言われたあなたが、それを
『唯一の正解』だと
信じることにした
だけ。
信じたかったのは、
嫌われたくなかったから? かな。
なぜそんな人にさえ、
嫌われたくなかったかというとね。
自分が自分に『OK』を出すということが
いったい、どういうことなのか、
あなたがまだ、知らないから。
たとえば、一人ぼっちと自立は、
まったく別ものなのに、
混同していたりする。
ねえ、そこまで、他者の言う言葉だけを
『正解』として
自分が認めるようになったのは、
なぜだろう?
イヤな気持ちを必ず自己否定につなげていく、
そんな感覚のルートを自分で、
しかもすぐそうつながるように、
短く作り上げてしまったのは、
なぜだろう?
そこを疑問に感じない間は、
いつまででも、
短絡的なルートを表面上でぐるぐる、
移動し続ける人生。
そんなことだけに、自分を費やす人生だよ。
疑問を感じていいことすら、自分に
許可を出せないのはなぜか。
そのほうが、他者へダメを言い放つ相手と『つきあう』よりも、
よほど自分にとって、重要なテーマなんだ。
今までとは違う感覚の道を、
探ろうとしないから、苦しいのだと思う。
相手の言動って、いろいろな角度から、
自分の勘違いに気づいていくきっかけにもできるのに、わざわざ
『そう言われたから自分はダメ人間』
のほうへと、その出来事を使うのは、紛れもなく、
自身が選択してやっているんだよ。
そこでとどまるのでなく、他を見ていこうよ。
なぜなのだろう? のほうも、知っていこうよ。
それを知ったら、それこそいったい、何がダメになるのだろう?
人からの言い放ちを信じ、
それを自分自身に唱え続け、
だから私は
どうせ幸せになんかなれない
と決めつける人は、
ええ、そうやって決めつけていく間中はずっと、
幸せにはなれないでしょう、おそらくね。
要は、幸せを他から与えてもらおうとするだけだもの、それ。
それは謙虚でなく、強欲でもあるの、ある意味、ね。
そうやって他者を自分自身のために使おうとしているからこそ!
他者のひどい言動をもまた、等しく自分に与えて、使うのよ。
「いつになったら、
自分で自分に仕掛けた、
その罠に気づけるかな?」と
私は今日も、だから、見守る次第なのです。
あなたにそれが繰り返し起こるのは、
まさしく、あなたに気づいてほしいからこそ、
起こっているのよ。
気づいてほしいと想っているのは、誰かって?
自分の奥のほうにいる、自分自身、だよ。
Photo by Fanghong
マトリョーシカ_ウィキペディア