柔らかく 温かく 透き通ったもの

青森で『森のイスキア』を営んでおられる

佐藤初女さんの著書を読んだ

 

透明になるということについての語りの部分

その動じなさ 穏やかさ

物事を受け入れる「覚悟」が

とても静かで 凛としておられて

ステキだな と感じた

 

透明になるためには

素の自分 を知り

それもまた 非難しないことまで

自分が意識していないと無理だと思える

 

他者の言葉に『動揺するかどうか』も

自分が決めている部分 あるんだよね

だって「そういう意味で そういうふうに」

受け止めることにしたのは自分だから

 

他者が 自分への非難を 

鏡のようにあなたに映し出し

その苛立ちゆえに あなたを罵倒していたり

冷たくあしらったりすることもある

自分にできないからこそ 相手に 

八つ当たりしてくることもあるのよ

 

それを そのまま 自分のダメさにつなげてしまうときって

あなたもまた ふだんから 自分のこと

罵倒しているからだと思う

 

他者の八つ当たりの非難も

そのまま 言葉通りに受け止め

なぜだろう ってなったり

何なのよ! って自己弁護したくなったり

(自分責めしている人は そういう自己弁護にさえ

一抹の後ろめたさを感じながら話すよね

それが 自分をふだんから責めてる証拠なんだよ

はい 私も感じながらやってましたさ……)

そんなふうに 振り回されることを

選択しているのかもしれないよ

 

面倒くさいことへ

自分から 自分を巻き込む

それを続けていく間は 透明になれるはずもなく

状況に踊らされて 自分を濁らせまくりに

することを選ぶってことだ

 

そうなるとまたあとから

自分を非難したくなったり

相手に非を押し付けたくなったり……

 

相手からの 度を過ぎた働きかけは

それこそ相手の問題なのだから

(例え 親や家族であっても)ホントは 抱えこまなくてもよくて

抱えたいと感じるなら それは 自分が選んでいるってことなのだ

 

だからさ 透明になる覚悟って 本当にたいへんで

自分が自分に踊らされない と決心して

それを練習して 自分なりのコツをつかんでいかないと無理で

 

齢90歳を超え 身体のあちこちにも支障が出ている初女さんが

それをあえて「著述」されることのすごさに

うーん と うなってしまったよ

 

しかも 受け容れることの覚悟を決めると

その人はまわりから とても深くて静かで

柔らかく温かく 感じられるのだと

初女さんの著書を読んで気づいた

 

彼女の印象が まさにそうだったのは

透明になる覚悟を

真剣に決めておられたから……

 

そこまでの達観

そこまでの覚悟

まだまだ 私には到達できないエリアだけれど

これは本当に 練習してみたいと思えた

 

凛とした強さ しかも温かく柔らかく 透明な強さ

静かで 穏やかな 動じなさ

 

これを 憧れだけに終わらせず

ほんの少しでも身につけられるよう

練習したい

 

自分を どうしたいかは

自分で 選べる

自分が 自分の「在り方」を

選んでよいのだから

 

それは どんな人にもゆるされている

『自分というものについての選択』

(「他者を操る権利」など 最初から

持ち合わせてはいないからね 人間は

自分の受け止め方や

気持ちの持ちようで変えていっていいのは 

相手ではなく自分のほうなんだよね)

 

恥ずかしがらず 最初からあきらめたりせず

練習 していこうと思う

 

2015_10_24

限りなく透明に凜として生きる――「日本のマザー・テレサ」が明かす幸せの光
佐藤初女 著  ダイヤモンド社刊  ¥1,296
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