どんな「気持ち」で与えるか

「自分が与えたものが還ってくる」という話って、

スピリチュアルでもよく言われているけれど、

これって普通に、現実問題として捉えても、

実は当たり前のこと。

 

相手の思いを疑う人は、相手からもやがて、疑われる。

憎しみの気持ちで人に接すれば、

言葉の端々に、態度に、視線に、その「気持ち」は表れる。

 

態度や行動って、思っている以上に、

気持ちに即していて、それを表すんだよ、本当に。

 

もっと具体的に言ってみると。

たとえばイライラしている人は、何も言わなくても

ピリピリした空気を放っているよね。

ここで言う「空気」とは、

とげとげしい顔つき、強ばった姿勢、握りこぶしなど、

体全体に妙な力が入っていて、

見た目にもう、りきんでいるような、

そういった「感じ」を指す。

 

そんなふうにイライラしている人がそばにいるとき、

あなたはその人と、喜んで接したい、と思う?

接したら、うれしいことが起こる気する?

しないよね。

どちらかというと、近づきたくなくなるよね。

 

でも実際には、気持ちや意図、は、

ときに二の次にされている。

とくに他者に対しては、

「何を」与える……差し出すか、

「どうやって」差し出すか、

さらには与えた、差し出したあと、

それを「相手にどんなふうに受け取ってもらうか」

ばかりを気にしている人も多いと感じる。

 

本当は、その具体的な計画や行動の前に、

「どんな気持ち」「どんな意図」で

与える、差し出すかのほうが、大切なんだよね。

 

受け取った相手が、

その受け取ったモノをどう扱うか

(感謝する、無視するなど)のほうばかりを重要視する人って、

そもそも、何を差し出しているのかな?

相手を試している?

あるいは自分に何か利益・メリット

(喜びなども含め)になるものを

還してほしいから、差し出しているの?

 

つまり、相手の反応を見張って、

相手側の結果を採点するために、差し出してはいない? 

愛やら、思いやりやら、協力やらは、

相手のことを採点するための課題なのかな?

純粋に、ただ自分がそうしたいから

差し出すことは、やりたくない?

そんなことしたら、バカをみて損するだけ?

 

いつもそんな計算をしながら差し出したり、

いつも相手を採点するのは、なぜなんだろうね。

 

なぜ、相手側のほうの「思いや気持ち」は、

そこに含めないんだろう。

それどころか、純粋な自分の気持ちも、

結局は計算して使っているんだよ、それ。

 

自分にとって「よい」反応、都合のいい反応って、

つまりはごほうびだよね?

ごほうびを還してもらえないと安心できないのは、

相手の気持ちを、本当には信じられていないから、じゃない?

 

相手が、独立した1人の、

貴重でかけがえのない存在であること、

相手もまた、自分で、ものごとを感じ、捉え、

どうするかを決める、その力を持っていること。

 

その力を、許せないの?

「私にとって都合のよいように」力を

使ってくれなきゃ、信用できないわよ! ってこと?

 

そして、そういうふうに還してもらうことを『狙って』、

還してもらうこと前提とし、その『ため』にこちらも差し出す、

みたいな計算をしながら他者に接すると、

相手からも、相手が狙って計算したものしか、還ってこなくなるよ。

 

そりゃそうだ、自主性を拒否する、ということを、

逆に、自分がやられてごらんよ。

自分の心に湧いた温かい思いやりを、相手に、

そんな取引にしか使ってもらえなかったら?

そしてそれをいつも、採点されていたら?

やがてはこちらも、だったら、と、採点したくなるよね?

 

純粋に差し出したものも、

相手からは勝手に採点されちゃうんだもの。

私のこと、どれくらい大切にしてるか、

これで判断するわよ! ってことを

延々、繰り返されたら、それ、うれしい?

採点されていたら、いつも喜べる?

見張られているような気にならない?

 

さらに踏み込んで言ってみると、

なぜ、そんな取引をするか? というと

自分に、自信(自分を信じる心)がないから、という話につながる。

自分を信用していないから、

還してもらえるかどうかを、

信頼のバロメーターにも、したくなる。

 

自分を信じていると、

「自分自身を信用できている人」が

ちゃんと、寄ってきてくれる。

 

そしてお互いに自分自身を信じていれば、

相手のことも、より、信じられるようになる。

なぜなら相手の自主性と、自分の自主性のことを、

どちらも信じていられるからね。

 

そうなのよ。「相手が自分を信用してくれている」、

ということを「何かをしてもらうわけでなくても」

自分が感じられ、信じられるのって、

それ以前に自分を信じられているからこそ、なのだ。

 

だから、もう一度言う。

与えるものを受け取る、という言葉の意味は、

物理的な何か、具体的な行動、だけの話ではなく、

自分自身の「気持ち」と、

それに基づいた「自分の意図」の話でもあるんだよ。

 

計算する人には、計算する他者しか、

近づいてきてくれなくなる。

すると、思いやり、愛、ありがたさ、を

「取引」「駆け引き」でしか、やり取りできないことになる。

お互い「私に都合のよいように合わせろよ」と

言い合い、見張り合う関係性、になる……。

それは厳密な意味では「愛」ではないよね。

 

だからこそ。

他者とよい関係を作りたいなら、その前に、

「なぜ私は、自分のことを、そこまで

信頼できないのか、嫌いなのか」を

きちんと捉えて、改善することが先なのだ。

 

自分を信頼できるようになると、

自分から、他者を無理のない範囲で

信頼、信用できるようになるし、

他者からも、その他者にとって無理のない範囲で、信用してもらえる。

そして他者がそんなふうに「信用してくれていること」もまた、

自分で信じられるようになる。

 

まずは「自分に対する気持ち」の部分を、

きちんと解きほぐすことが、大切なんだよ。

スタートは、常に「自分自身の気持ち」にあるのだ。

 

2016_01_17

Photo by Turbot
Pixabay

 

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