自分からは、やらないけれど……

自分は先に渡さない、でも受け取りたい。

受け取れたら、出すと思う。

そこまで自分も、ひどい人間じゃないから。

 

先に自分からは出せないけど、

相手には先に出してほしい、愛情を、優しさを、思いはからいを。

 

出せない自分に、徹底してガッカリしているけれど、

出したら迷惑かも、って怖いからやらない。

 

うん、ガンコだよね、そこ。

絶対、譲らないよね。

 

ならば、もうさ、どうしたら……って、

迷わなくてもいいんじゃない?

 

自分から先に出さないこと、決めてるじゃない、

すでにハッキリと。

 

渡さない人は、もらわない。

ただ、それだけだよ。

 

渡さないつもりなのではない?

でも相手から『先に』の部分、譲れないよね? だって怖いもんね!

相手だって、最初は怖いってこと、まったく無視してるよね?

 

自分ほど怖がっているはずがないって?

へー、そんなにも、あなたは特別で、

だから他者からも特別扱いしてもらわないと

気が済まないんだね。

自分の気が『済んでから』しか、渡したくないんだ。へー。

自分が安心させてもらってからしか、渡したくないんだね。

 

ならば、もう、求めなきゃいいんじゃない?

他者の勇気より、他者の優しさや思いやりという有り難いものより、

自分が『恵まれるかどうか』のことのほうを、優先するんだもの。

 

恵まれることが前提でしか、出せない。

それ、恵んでもらうために、という取引目的(下心)があるときにしか、

出せないってことだよ。

で、取引ができなきゃ、とたんに被害者モード突入かな。

 

ならばずっと『恵まれない子ども』みたいに、

すね続けて、恨み続けて、生きていけばいい。

悪いのは、ちゃんと取引してくれない、

あるいは『先に』くれない他者だもんね。

 

はい、そんな裸の王様に向かって、言ってみます。

「王様は裸だ!」

って、子どもなら、叫んでいいものね。

だから私も今日、たまには子ども気分で叫びます。

自分では見えてないのだろうけれど、

あなたが他者にやっていることが、

結局いつも、自分に還ってきてるんだよ。

それに自分にやってることを、

他者も、自分に対してやってくるしさ。

 

同病相憐れむ、の別バージョン、

同胞相非難する、ってところかな。

 

つまり自分のことだけしか見ない人は、

自分だけ! の人としか、関われない。

自分を否定している人は、同じくあなたのことを否定し、

ご本人のことも実は否定している人、とご縁ができる。

 

あ、これ、直接的、あるいは具体的に、

誰か特定の人に怒っている、などという話ではないですよ。

たまには、こういう表現で、

叫んでみていいかな、と、ふと思った次第。

 

もし通りすがりに刺さったなら、

なぜ刺さったか、を取っ掛かりにして、

自分が「見つめているもの」を

振り返るチャンスにしてもらえれば、幸いです。

 

自分の損得のことしか感じられないなら、

それはあなたが『ドケチ』さんだってことだから、

結局、周りには、同じ『ドケチ』さんしか、

集まってこないからね。

単なるケチを通り越した『ドケチ』さんの集い。

 

変な思い込みを外す気を、起こさないがゆえに、

『ドケチ』さんと認定されちゃう。

それが、とてももったいない、と思えた次第です。

 

ねえ、出そうよ、勇気。

他者に『先に渡す』ための勇気。

見返りを受け取るために、じゃなくてさ、

自分を心地よくするため『だけ』にやろうよ、

他者へ『先に出す』勇気が必要な、ものごとを。

 

それがめぐりめぐって、

いつかどこかから、自分に戻ってくるからさ。

それを一度、ちゃんと感じてみなよ。

 

自分の感覚を信じる勇気、は、

実はもうすでに、そうやって持てているんだもの。

今とは真逆の方向性にするだけだよ。

 

『還ってこなくても先に自分が』の勇気、

まずは単純に自分を心地よくするために、

出してみようよ。

 

2016_03_07_1

Photo by Mike Kenneally
Unsplash

 

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