苦しさに出会ったとき。
何の評価も加えず、採点もせず、
自分が、今、感じていることを
ほう……そう感じているのか 私
と、淡々と知り、感じていく作業。これ、大切です。
そのときは、ホントに、自分を採点するな、批判するな、です。
『私はそういう状態であるな』という事実に気づいて、見つめるだけ。
今までは、そんな感覚も丸ごと無視していたり、
気づいた瞬間、自分を罵倒したり馬鹿にしたり、さらには
せっかくの気づきをさらに、自分や他者への不安や怒りの文句等、
どんどん苦しくなる感情へと、自分で発展させたりしてきたと思うけれど。
そんなねー、隣の芝生と比べない、比べない。
痛いときは痛い。以上。
今までは、痛いことにすら、
気づいてあげずに相手に合わせたり、してきてたよね?
だから、もう、ごまかさないで。嘘、自分につかないで。
その痛さから逃げるとか、隠すとか、
そんなの無理やりやっても、できることじゃないのよ。
わかってるよね、それはもう、たっぷりと。
切り替えていけるようになるまでは、感じ切るしかない、
くらいに開き直る。ごまかさず全身で、ちゃんと、それを捉えてあげて、
その、捉えている自分の姿を、別の自分が、
頭の斜め上のほうから全身&心ごと、
眺めているような感じ。渦中に埋もれるのでなく、眺める自分を置く。
いつも自分をコントロールできていたり(とは言え、そのつもりで実は
自分の本心をごまかしているだけの人も、意外にたくさんいるけどね)、
自分の『本心の感覚』とうまく折り合いをつけて、つきあえるのなら、
その人、実はかなり、仙人か神様に近いと思うよ。
感情、感覚との付き合い方って、練習、必要だと思う。
とくに付き合うのが苦手な種類の感情や感覚は、誰でも持っているから。
たとえば私は、過去のキツイ記憶をどっぷり、
思い出させてくれる方との再会予定を間近に控え、
うーん、たぶん、ビビっている(^◇^;)
うっすらと、だけれど、不安よりも、何がどうなるか読めなさすぎて。
でも、それは私、仕方ないよ、うん。
どう考えてみたところで、あの一連の経験は、
私には、めちゃくちゃ、重たかったから。
あのとき、恐怖の大魔王降臨を、
私がピンポイントで受け止めちゃってたんじゃないかと
(つまり私がその結果、いろいろ、世界とか(笑)救ったんじゃね?
じゃないとそれは……みたいな)、
ええ、コピーライティング能力の高い悪友(笑)から、
そんなセリフが飛び出すほど重かった。
私をよく知ってくれている友だちほど、一緒に言葉を失ってくれて、
もう、本当、そんなキャッチフレーズみたいなことくらいしか
お互いに言いようのない感じで。
その経験の高くて重たい壁を、やっと少し自分でも、
越えられたなあ、と思えたのは、もう10年近く前だけれど。
この先、儀式的に、いつか再会の時間が一度、来ることはわかっていて、
諸般の理由からその1回のタイミングだけは、逃げずに向かおうと、決めていた。
そ、れ、が、来るのです、ついに。
葬式や病院じゃなかっただけ、幸いだったのかも。
このところの怒濤な気づきは、このための準備だったのか、とも思えたり、
いやいや、これらの気づきが、もし、そのための準備だったのなら、
当日、じゃあ、いったい何が起こるんだろう、と思えたり。
願わくば淡々と語り合い、爽やかに離れたいところではある。
だが、本当に、それができるかどうかは、わからん。
あまりにわからなさすぎるので、不安というより
おいおい(^◇^;)的な気分で、ビビり、困っている私がいるわけだ。
ま、なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも。
なるようにしか、ならんわなぁ……とも、思うけれど。
でね、この、ビビっている自分を、
クスクス、笑える自分もまた、いるわけです。
あー、小っちぇーな、まだまだだな、小心者めっ、と。
プププ、クスクス、です。
まったく、責める気にもならない。
小さい私がいることを、笑って受け入れられるようになっただけ、
私は強くなれたんだろうな、と思える。
あれはもう、二度と起こらない経験だし、
そもそも私はもう二度と選ばないでいいことだし、
だから本当は、ビビることでもないんだけれどね。
ええ。この今の、小さい私としっかり手をつないで、
その時間を過ごしてこようと思います。
あの過去の、たぶん最後の機会となる、自分の心のお掃除の時間を。
練習、って、そんな感じだと思えるよ。
非難も評価も(高評価さえも)いらない、というか無駄なだけ。
あの経験をこう思えたら、自分を認めてあげられるのにとか、
そういう条件達成を自己に強いるかのような思考癖は、
ホントにもう、練習の段階からすでに、必要ないのです。
そういう自分、知って、見つめているだけ。
そして、それでいいのだと。
それができてから、次が突然、現れたりするから、ね。
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