私が「自分を疑っている」と、他者のせいにする

さあ、謎めいた記事タイトルが浮かんでしまいましたよ。

ちゃんと説明できるかな……(笑)

なるべくわかりやすく書いてみます。

 

まず、スタートはここね。自分自身の基本姿勢として

私がもともと、自分の「判断」を疑っている

これを持っていると、の話。

すでにここで言葉が刺さった人がいたら、ごめんなさいね(^ ^;)

はい、では、丁寧に進んでみましょう。

 


私がもともと、自分の「判断」を疑っていると、
失敗を感じるたびに、自分を嫌うことが多くなる。

→その状態で他者から何かを非難されると
「そうか、私はそういう人間なんだ」と、
ふつうより (←ココ重要!)信じやすくなる

→そういうショックを受けたものって、自分では忘れにくいから、
「私はそういう人間」だと、
とくに『悪い面』を日ごろから自己卑下する
(覚えているがゆえに、心の中で何度も、自分を非難する)

→ 他者から言われたことを、同様にどんどん
「自分のひどい真実」として溜め込む

→他者から言われたあらゆる「ひどい自分」こそが、
本当の自分である、
これが自分にとっての「真実」(基本)になる

 

はい。こうした状況の「日常のあなた」が今、いるわけです。

で、ですよ。ここからがもっと大きな問題。

さらに、つづきを丁寧に書いてみます。

 


ところが、ときに
「あれ? そんなつもりで言ってない」
とか
「そこまでひどい意味では言ってないのに」
等の疑問が浮かぶことがある(当たり前だが)

→そんなことないのに! あの人(相手)ってひどい

→でも「もしかしたら私、そうなのかも?」とおびえる部分も出る。
なぜなら『すでに』人の意見を信じる習慣が
基本としてガッチリ、身についているから

→あの人はひどい! と「もしかしたらそうかも?」の間で、自分がゆらぐ

→『次』がこわい(それが事実かどうか、確認したくはないから)

 

そう、ふだんから、自分を疑っている人は、

もう今の時点で、自分が嫌い。

ゆえに①が基本で、ときどき②が繰り返されるのだ。

 

悪いこと、は、常に自分にとって真実になっていく。

だから逆に、自分にとっての「いいこと」が起こると

「たまたまそう言ってくれる人もいた」とか、

「それは本当じゃないのに」「お世辞」「好意的解釈だわ」……になる。

 

さて。

めちゃくちゃ簡潔に、まとめ直してみましょうか。

自分の判断を疑っている
  ↓
他人の非難の言葉を「まるまる自分の真実」にする
  ↓
「あの人はひどい!」が起こると、
自分を疑っているがゆえに『次』が怖くなる

 

これ、2番目以降が全部、

「他人の意見」でできあがっています。

実は1番目が生まれたきっかけも、

「他者から何か言われたから」の場合が多い。

 

他人の意見次第で、あなたの「イヤな中身、その種類」も決まります。

たとえば、キツイ、弱い、自分勝手、怠けている、のろい、要領が悪い、

見た目がどうこう、体つきがどうこう。

ほかには、ウザイ、勘違いしてる、なんていう漠然としたものもあるよね。

 

それがゆえに。

あなたは、どんな人ですか?

これを答えようとしたら、良い点も悪い点も、あなたの答えは全部

「他人から過去に言われたこと」で、できあがってしまいます。

 

しかもあなたは

「あの人がひどいから、私が『次』に動けない」

という部分も持っていて……。

なんかもう、自分の過去現在未来、

起こる出来事、感じるものごと、

いろいろ全部を、そこの視点だけから見つめていっちゃうことになる。

 

ねえ、これさ、どれだけ、自分自身のことを、

他人任せにしてきたか、わかる?

その『今の』自己卑下が、

どれだけ「他者からの声を、自分で育て上げた」ものか、伝わるかな?

 

常に、他者に反応していて、他者を見て、気にして。そのとき、

あなた本人というものは、どこにいるの?

さらには(身近な)他者を恨んでいる人って、

あなた自身の感性は、どこにいっちゃったの?

 

あなたがいいと思うこと、あなたが悪いと思うこと、

うれしいこと、楽しいこと、悲しいこと、腹が立つこと、

好きだ、と感じる気持ち、嫌いだ、と感じる気持ち、

ああ、気持ちいいなあ、とか、これはイヤだな、と思う感覚は、

他人と違っていてはいけないの? 「違い」はダメ なの?

違いに怒りを感じてそれを引きずるのが恨みだからさ、つまり逆に、

他者もまた、あなたと違っていたら 「ダメ」 なの? なんで?

 

しかも他者がひどいから(ひどかったから)、私が『次』へ動けない。

それってこの先に味わえるかも知れない自分の経験まで、

他者によって「すでに範囲が決められてる」ってことだよ?

 

なぜ、それに『従わなくちゃ』いけないの?

自分を疑っているから、従わなくちゃ、に、なってしまっていない?

 

心理学の多くが『自分』を見つめ直すためにある。

心屋さんをはじめとする、最近のカウンセラーさん、セラピストさんも

(傷みまくってる人、だけに向けてではないけれど)

「自分の内側」について、伝えてくださっている。

ぶっちゃけ、『引き寄せ』だって、自分への対処方法だ。

 

みんな、「自分が、自分のことを、いちばん最初に、大事にしていいよ」って、

伝えてくれているのだよ。

 

それを実行しないで、いつまで「他人任せ」にする?

いつまで「自分の中心に軸」を置かないで

「周りの他者に、自分の軸を任せる」生き方を選ぶ?

 

そっちのやり方のほうを採用しているのは、

紛れもなく『自分自身』なんだよ?

 

他者は、そう感じる。

私は、こう感じる。

そこで違いは、あっていい。

そのすり合わせが、気づきを与えてくれ、人間関係をもつくる。

人との関係は、単純にその繰り返しだよね。

押しつけまくっても、無理矢理引き下がっても、うまくいかない。

 

折り合える「真ん中の地点」を探し合う、

たまたま、それを「お互いに」やりやすい人が、

つまりは「自分に合った人」、私が信じられる人、だよね。

 

他者寄りに軸を置いている、自分の中心に軸を置いていない、

なのに他者のせいで! と、言っている自分、それをやめていこうよ。

 

やめるために、まず「自分の感覚」を

自分の内側に取り戻す練習から始めようよ。

 

とくに初めは、何が好きで、何がうれしいか、

楽しみ、よろこび、のほうを、自分で探せばいい。

 

それを新しい「自分軸」にしてごらんよ。

私は、これが楽しい、これがうれしい、これが心地よい。

そうか、私、こういうことが好きな人間なんだなあ(*^^*)って。

 

今の環境、関係ないから。本当に、関係ないから。

自分が変わると、周囲も環境も、人生も変わるから。

 

親の意見や周囲の大切な人の意見と、自分の意見は、

「違った感覚を持った『対等な』人間」、それぞれの意見だ。

 

それを自分がすり合わせる努力をするか、無理なら離れるか、の練習。

こうした視点をどうか、つかんでいってくださいね。

 

最後に、そうした感覚について、

極端であるがゆえに、わかりやすい記事を紹介しておきます。

自分の「内側のよろこび」の、見つけ方の例になるかと思う。

 

何を見て、何を自分に対して採用するかは、「自分が」決めていい。

(この記事の方にはゆるされなかったけれど)疲れているなら「先」に、

その疲れをしっかりほぐして、減らしてから、

こうした練習に臨んでいってくださいね。

 

◎1分で学び
『戦後シベリア抑留を乗り越えた元日本兵が教える 「無限大の活力を生み出す秘訣」とは』
http://kando1.net/3313

 

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Photo by msandersmusic
Pixabay

 

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