自分の内側の「辞書」

お父さん お母さんが 言う通りに

その辞書をもらって

それに従い 生きていくことだけが

自分にとって大切だった人も たくさんいるだろう

 

恋愛や友達や先輩や後輩 上司や部下や

子どもや孫や おじいさん おばあさんからも

自分の「指針」の辞書をもらってきただろう

 

その辞書を そのように編纂したのは 

間違いなく「あなた」の選択でさ

なのにいつまで その辞書の中身だけで ずっと不満を感じて

生きていくのだろうね という話

 

そんな! 親なんか ○○なんか 関係ないもの! と

どうしてもそう言いたいのなら

結局は誰かの 真似をしたがってる 

それを目指してきた という表現ではどう?

 

過去に きっとね

あなたを使って「自分の自慢」を増やしたかった そんな人がいて

あなたを 今のように 自己採点するよう 指導してきたの

 

でね もしかしたら今 あなたもまさに その人を見習い

「私も誰かを使って 自分を 自慢しようとしている」かもしれないわけさ

その過去の人と同じ範囲の

「価値観」や「指針」の言葉が満載の辞書を使って

自分が他人を「使って」 生きていこうとしているってこと

 

その辞書ね

結局はあなたが 我慢だったとしても「従ってきた」辞書なの

 

でも これから先 その辞書に

やってみたことのない捉え方を 加えて 豊かにしていくのも

または写真などを加えて つまり実体験も加えて 

辞典に変えていくのも

今からのあなたが選べる のよ

 

もちろん 勝手にあきらめるのも自由だけれどさ

 

いつまでも 同じ辞書 同じ指針 同じものの見方を使って

いつまでも 世界や自分に 文句を言い続けるの?

 

いつまでも 苦しい って 言うだけ?

 

幸せになるのに

「こういうやり方でこういうふうにならないと」

って決めつけてるのは自分だよね?

他者にもわかりやすい形で あわよくば

「わぁ すごいね!」って言葉を狙って生きてるのも自分だよね?

自慢できるものを手に入れるってことは

=それを失うかどうか不安にさいなまれる

ということと同義語なのに

そういう指針を選んで 自分の辞書に

そんな事例ばっかり 並べてるんじゃない?

 

なぜ それを あなたは選ぶの?

お風呂に入ってお湯につかるような幸せは

誰にでもできるから 価値がない

って その辞書に書いてあるんじゃない?

そういうことばっかり 信じて書いてあるんじゃない?

 

だったら今の その辞書に 名前をつけようか

「人生傲慢・自慢と悲観」辞典かもね

 

自分でいくらでも 「幸せな気持ち」を選ぶ方法はあるのに

そういうのはつまらない と わざわざ書いてあるなんて

ごめん はっきり言って くだらない価値観満載の辞書だね……

 

自分でしか その中身 書き換えられないのだから

文句を言い続けて 悲観して 苦しんでいるのなら

いい加減 「自分でできそうなこと」から始めて 

中身をそっくり 書き換えていくっていうのはどう?

 

2016_06_09

Photo by klimkin
Pixabay

 

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