まだまだ自分を知り、学ぶ練習中なのだ

私は、私のことを、鬱のあと初めて(というか今までとは違う)新しい形で、

「好きになっていいのだ」と、許可を出していく練習を続けている。

 

鬱以前の私は、いつもいつも、自分を見張ってた。

悪いところがあったらダメ出しする減点タイプの見張り。

 

母の代わりを果たしているかのように自分を見張って、

何か「良くないこと」があったら、

自分を叱って否定していたから。

惰性でズルズル、ダメなことをやるときはあっても、

それをやりながら、でも心の中ではいつも、批判して自己を否定してた。

 

私は常に、私自身の批評家であり、批判者だったの。

「お母さんの真似」を、して生きてきた(あ、実際のところはどうあれ、

私が、母からそうされている、と勝手に受け止め、

勝手にそうするべきと思い込んで、見習ってきたってことね)。

 

それを強制終了させられ、じゃあ、どうするっていうの? と

真っ白(ある意味、お先真っ暗の視界ゼロ)になって、

その後、土台からしてもう「一からつくり直しかない」という感覚になったとき、

私は初めて自分を『直視する』練習を始めた。

 

この『直視』は、自分を批判なしにただ「見る」というところから始まり、

そこから、自分のことは自分が愛していいんだな、ということを

「言葉としては」知ることが出来た。

 

で、「実際に、私の場合はどうやったらいいのか」を模索し始め、

その練習を始めたわけだ。

 

そして、今のところの「実感」。

 

自分を励ますだけでなく、ときには叱っていい。

そのこと自体は『悪い』わけではない。

それは単なる「心が揺れたことによる気づきのサイン」だから。

 

たとえば今日は楽しい、今日はなんとなくイヤ。

それも当然、あっていいのだ。

イヤとか思っちゃ「いけない」わけではなく、

思ったところでやるべきことはやる必要があるから、

せめてこれ、と5分だけ必要なことをやるとか、

作業ペースを大幅に落とす、とか。

そういう「自分との折り合い」をつければいい。

 

良くないのは、そういう心の動きを「自己採点」に利用すること。

極端な表現をすれば、○○できればプラス30点、出来なきゃその逆、とか、

心の動きなら、前向きの場合、私は100点、

後ろ向きなら、落ち込んでしまうなら、はい、0点、みたいにやること。

 

これがね、単純に

ち・が・う

のよ。

どんな「とき」であっても、私は私の「もっとも強力な味方」であっていい。

自分の、いちばんの応援者は、自分なの。

 

味方で、応援者だからこそ、ときに厳しいことも言ってみたくなる。

でもその動機は、「批判」や「採点」でなく「愛情ゆえ」だ。

そのときの、自分を、愛を持って叱ってる。

そういう「受け止め方」をしていいの。

 

「お母さんのように、お父さんのように」する必要はないの。

「私は私」だから。他の誰でもないから。

 

そこを忘れるから、自分にとってややこしくなり、苦しくなる。

自分を批判する他者(まあ、いちばん多いパターンは

家族等の身近な人かな)の「真似」をする必要、ないのよ。

あなたはその人には「なりきれない」から。

あなたは、自分にとっての「他人」になんて絶対、

なり代わり、できないから。

 

なのに、なぜ私は、誰かのように、あるいは誰かの真似をして、

私自身を常に採点しているのだろう?

私はいつから、自分の批評家、批判者になったのだろう?

なぜ、なったのだろう?

 

そういうところを、ひも解いていく練習は、とても自分を柔らかくするよ。

私もまだまだ、そういうことの、練習中なのです。

っていうか、これ、案外、私のなかでは根深いわ……(^_^;)

 

2016_06_16

Photo by 1cmathis
Pixabay

 

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