伝えること、受け止めること

受けた傷の痛みは、

それを受けた本人にしかわからない。

 

この言葉を書いたのは、

14歳の、当時、同級生だった男の子で、

私がそれを読んだのは、

かれこれ30年前以上昔、ということになる。

 

悲しいこと書くなぁ、と思ったけれど、

当時、彼の家庭環境はかなり複雑そうで、

いろいろ辛かったようなので、

そうか、だからかな……と、私は感じた。

 

それは一遍の詩の、始まりの言葉。

当時の私には、出てこない表現。

当然、幼いこともあって、私には

彼の苦しみの深さは、わからなかった。

 

でも、

そうか、痛いことがあるんだね、と

紙に書いて伝えて、

うん、と彼が返事をしてきたので、

それは、つらいね。

と、真面目な気持ちで書いてみたら、

その短かさゆえか、私の気持ちは彼に届いたらしく、

ありがとう、という言葉を、

返してもらえた。

 

何か役に立ったかどうかは、わからない。

ただあのとき私は、

寄り添っていたのだろうと思う。

一人の友だちとして、彼に対し。

 

当時、彼の詳しい状況なんて、何もわからなかったけれど、

それでも何かを感じたから、ちゃんと真面目に書いたのだろう。

 

そうしたら、そのことが、

当時、苦しさの中身を

具体的には他者に表現できなかった彼に伝わったから、

ありがとう、の言葉を返してもらえたのだと思う。

 

ちなみに後日、

私が失恋して落ち込んでいたとき、

また彼から「元気ない?」と

文字で尋ねられ、

「うん、失恋した。悲しい」

と返事をしたら、

「悲しいときは、星を見ればいいよ」

という返事をしてくれた。

「曇り空で星が見えなかったら?」と

質問したら、

「曇りの日は、心で見ればいい」と。

 

そのさらなる後日談として、

夜の7時に、わざわざ私の家の前まで

自転車で、小さな天体望遠鏡を運んで来てくれて、

生まれて初めて大きな月の表面と

『二連星』の姿を見せてくれたのも、この彼だった。

 

そのあと、時期をずらしてお互いに片想いし合い、

タイミングが合わなくて両想いにはならなかった……、

そんな、のちの恋が始まるもっと前の、

性別や環境や立場などは何も関係ない、

単純な友だち同士としての、心のやり取りの話。

 

相手の痛みの、その中身、度合いを、知ることはできなくても、

寄り添うことは、できるのだと思える。

共感、という気持ちを持つことによって。

 

そして逆の立場になったとき、

相手が共感してくれたという、その気持ちを、

自分が、受け入れられるなら、

ありがとう、って思えるのだと。

 

彼が言うとおり、

誰かの痛みを、まったく同じ痛さとして

他者が感じることはできないけれど。

その痛さを知らない人からであっても、

寄り添ってもらうという形で楽になれることは、

確かにあるのだと思う。

 

そして、相手や自分の痛さの『度合い』がひどすぎる場合、

受け取れないときもあるだろうし、

それもまた、そうであっていいのだと。

 

ここからは、個人的な意見。

そうしたことを知ってはいるけれど、

知ったうえでなお、

私は、ときにはあえて、断定的な表現も使うと思う、これからも。

 

なぜなら、その内容に注意を向け、

自分で反発なり、

引っかかりなり、

何でもいいからつかんで、

そこを「きっかけ」にしてくれる人が、いるかもしれないから。

 

その人自身が備えている『自分の力』。

腹が立つからこそ、

「なぜ自分がそう感じているか」を知り、

新しい考え方に気づいていく……。

その可能性が、あると思えるから。

 

ただ、そこには、伝える勇気も必要。

断定表現にまで至る勇気の度合い、

私はまだまだ、低いけれどね(ええ、怖くてまだ逃げてるね(笑)すみません)。

 

なので、たとえば心屋さんや武田双雲さんに対しては、

意見の中身云々でなく、単純にその点で、尊敬の念が湧く。

こちらからの一方的な語りかけをするときに、

自分が持つ覚悟って、そういうことなんだろうと、

今の私には思えている。

 

そもそもその文章が、勘違いの自画自賛を含む

「井の中の蛙的な説得」かどうかは、

読んだ相手にきちんと伝わると思う。

 

さらに言えば、変な話、需要と供給という面もある。

私に全部任せていいよ、

大丈夫よ、私にはわかってるよ、

と、他者を自分に依存させたいかのような人のところには、

ちゃんと、という言い方も何だけれど、

他者に依存したい人が寄っていくことも、想像はできる。

 

たとえそのあとで、新たに苦しむことになったとしても、

それぞれがお互い、抱えている問題ゆえに起こることだから、

その苦しさの経験こそが、それぞれ

「何かに気づいていけるきっかけ」

になるかもしれないよね。

 

自転車に乗る練習をするかのように、

どんな道のりでも、自分で学びにはしていけるから。

自分でいつか捉えられれば、それでもいいのだと。

それこそ他人が、先走る予測みたいな心配から

口を挟む話では、本当は、ね……、ないのだと思う。

 

最後に……。

14歳の彼の詩も、

その後のやり取りも、

全部、授業中の手紙回しだったことを伝えておきたい。

 

ゆるいおバカな中学校の、

ゆるゆるな授業時間だからこそ起こった、

他者との触れ合いの機会。

 

詩という形で、開示してもらえたことにも、

こちらにありがとうが還ってきたことにも、

のちに逆の立場で、開示させてもらえたことにも、

それを思い出せたことにも、

思い出すきっかけを与えてもらえたことにも、

感謝。

 

2015_03_22

Photo by RachelBostwick
Pixabay

 

勇気は出さず「外向けのプライド」にはまると苦しい

半分、過去の私に向けてのささやき。

ささやいたからって、過去の私(という、今、自分の中にある記憶)が

すぐに変わるわけではないけれど、

今の自分と、これからの自分のためにも、書いてみる。

たぶんオチがなく、一部、意味不明かもしれないけれど、許してね。

 

たとえば、勉強についての、自分の過去の記憶を例にしてみる。

私は優等生方面で、お勉強が(少なくとも途中までは)出来る子、だったから、

その位置を保つために、自分でも努力はした。

 

そして本当の本当に頭の良い人、という存在は、高校のときに知って、

結構、本気で衝撃を受けた(笑)

 

なるほど、ここまで行けば、

質が違うって言えるんだわ-! と学んだ感じ。

正直、高校最初の1年は、自分との違いを知るために、

一部異質な世界の見学に通っていた、のかもしれない。

 

もう、いろいろな面で驚いたり関心したりしちゃって、

いい意味でも悪い意味でも「ほほー!(^^;)」と言い続ける感じ。

私はホントもろもろ、努力で補ってただけなんだわー、とか。

 

それでもね、その人たちも、当たり前の話、ずっと勉強はしてたのよ。

あ、動機は全然、違ってたよ(笑)

あの先生の鼻を明かしたい、とか言って、

数学の問題の、新しい、より洗練された解き方にチャレンジするとか、

意味わからん状態の同級生もいたしさ。

しかも、社交性ない人も複数、いたの(笑) 

すごくマイペースというか、自分だけ、というか……あらゆる面で、勝手。

でも、それは自分の当然の権利……みたいな。

ほかにも、遅刻も意識してするさ、もちろん! 

学校に合わせるのもつらいしね! みたいな。

ノートは絶対、何がなんでも見せないぜ! みたいな。

ええと、天才と何とかは紙一重って、これ……? と、

同級生で日々、知っていけていた環境。

あるいは逆に、ピアノも絵画も大好きで上手、運動能力も高い、

見た目にも美しい系で性格も穏やかで、それでいて

勉強は学年トップクラスの範囲に入れちゃう女子とか。

 

彼ら、彼女らは、授業でスルッと理解ができちゃうから、

別に無理しなくても、勉強的にはずっと、とても頭がいい状態、と言えるのよ。

学校の授業、復習にしか使わない人までいたしさ(笑)

 

そんな人たちがわらわらいて、でも、それぞれが、やっぱり毎日、勉強はしてた。

自分のために何かする、ということは、当たり前の環境だった。

 

ここだけは、私も感謝してるかな。つられて勉強して、

狙った範囲の大学にはストレートで行けたから。

一番、行きたかったところではなかったけど(笑)、

ここなら、まあ、と、自分で思える範囲ではあった。

文字を扱う仕事にも、きちんとつながっていったし。

 

そう。確かにね、何かを狙うのなら、自分でやってみるしかない。

しかも、自分のために、それをやる。

そこだけは、自分でやらないと、どうしようもない。

宝くじを自分で買わずに3億円当たりたい、と、

誰かから当選確実なくじ(?)をもらえる偶然、待っていても仕方ない。

 

そして、やり方がおかしかったら、変える。

改善、対策、の方向の話だよね。

今までの方法で何とか収穫を得るまで、と粘るやり方もあるけれど、

自分に向いたやり方に変えたほうが、

よっぽど充実した収穫を得られたりすることに気づけた場合、

それを無視して「今までの努力を惜しむ」、そんな視点だけにこだわったら、

収穫としては、5分の1くらいしか得られないかもしれない。

 

ところが、ですよ。

ここで勇気というものが、必要になる。

やる、という行為にも、やり方を変える、という行為にも、

さらには、今までのやり方は私にとって悪かった、と認めることにも、ね。

 

私は、この点で、勇気がとても少なかったのかも。

ときには過去の努力のほうを大事にし過ぎてて、木を見て森を見ず、だった。

 

過去の自分を大事にするのは、いい意味で作用すれば、

とてもステキな資質だけれど、

私の場合は、これだけやってきたんだから! と、

それを一種のプライド的な、実績の固まりみたいな形で扱って、

そうした思い込み自体が一部(全部ではない)、

そもそも間違ってもいたことに、気づけないままで……。

どんどん、上塗りして、そのプライドの固まりを増やそうとしてた。

 

苦しいのに、何も変えないまま、

このままやっても、別に間違ってるはずない! って。

間違ってるなんて怖いこと、認められない面もあったよね。

 

めちゃくちゃ、無駄なプライドとして使ってたね、私。

変化させるの、怖くて。変えたらさらに堕ちるかも、とある意味、信じきって。

ならば、今のやり方を徹底的にやりまくればいいんだと思って。

単に、新しいやり方、まともに捉えてもみずに怖がってただけ。

 

過去の自分の経験(こうやったらたまたま、うまくいったことがある、

たまたま、うまくいかなかった、等)に、必死でしがみついてたんだね。

だからこそ、苦しかったのにね。

 

少し、話を切り替えるね。

以前、心屋さんのFacebookで、心屋さんご本人が、

何かの被害に遭った、という過去に、しがみつかなくてもいいんだよ、

他人はそこまで怖くないよ、思い込んで決めつけなくていいよ、的なことを、

まあ、いつもの、愛ある多少ブラックな口調で書いたのね。

 

そのとき、実際の被害に遭った人が何言ってるんだか! って書き込んできて、

しかもそれは、自分の子どもの話で。

そのお母さんは、うちの子はこんなに苦しんでいるのに、かわいそうなのに、

という感じのことを、書いてきたの。

そもそも社会でも、あんな悲劇やこんな戦争も起こってる、

そんなこと気軽に言えるわけがない、と。

 

このとき、心屋さんの学びを経たカウンセラーさんで、

心屋ジェニーさんという方が、スパッと、こういう感じのことを、書かれたの。

 

「では、何かの被害に遭った人は、

ずっとかわいそうなままで、いなくちゃいけないのか。

楽しんでいい、という視点を、自分のために持っちゃいけない、

自分の人生、自分からは、笑ったり幸せになってはいけないのか」って。

このジェニーさんという方も、

苦しんだ過去をお持ちのようで(この発言で初めてはっきり、そう思えた)、

まだまだ、自分で自分を楽しませてあげる練習を、積んでおられる感じで。

「って書いてたら、また自分をかわいがってあげたくなったから、

ちょっと行ってくる」と書き込んで、会話から抜けられたのだった。

 

私の場合、自分の『努力してきた過去』にしがみついていたし、

かつ、私は、自分の『ストーカー行為に遭った過去』は

たまたま、使わずに済んだけれど、

このジェニーさんがおっしゃること、心に響いてきたのね。

それまで名前しか存じてなくて、でもこの2つの書き込みで、

おお、なんかこの人、自分をゆるめる練習、本当に実践されてる! 

と、思えた。

 

どこに『自分が目を向けていくか』という点。

どんなにひどい目に遭ったとしても、

どんなに実績として持っているものがあっても、

そこにこだわることを『自分が自分のために』、やめていいの。

経験としては別物に見えるけれど、過去に目を向けて、そっちのほうを自分自身が、

より『重く扱っていく』点では、同じやり方を選択してる。

そのこと自体を、もうやめても、別によいのだと。

 

そんなことしたら、たとえば私にストーカー行為をした人を、

ゆるす羽目になってるのではないか、と捉える人、いるかもしれないけど。

 

ゆるすゆるさないの世界、範囲。そんな視点の話では、ないのよね。

あいつはひどかった。そこは変わらないよ、私も。

勉強してきた、努力してきた自分がいた。

それは、よくやったよね、と、今でも思うよ。

そこは、変わらないのよ、別に。

 

でも、それを、自分の存在の根拠の方面には、使わないでいいの、もう。

 

ボキッと折れた、バカな私もいた。確かにバカだったけれど、それは過去。

今から先でも、過去を使い続けなくていい、自分のために。

私は、自分のことを、「今からは」自分で楽しませてあげて、

自分で慈しんであげて、自分で、大切に扱ってあげて、いいの。

どんなに固執してたバカでも、

ひどい目に遭ってても、今から、それやって、いいの。

自分のために、自分が、ね。

 

ただ、そこには、選択するのが自分である、という決意と、

実際にそれをやる勇気が必要になってくる。

 

過去の固まりとしてのプライドのようなもの、外向けに使ってた鎧のようなもの。

つまりそれは、私が外側の世界に見せるために抱えていて、

重視していたものだけれど、それも、半分以上は、

とくに最初、捨てる感覚に陥るかもしれない。

 

ひどい相手のことを忘れて自分が楽しむなんて、

世の中辛すぎるよ、そんなことあってはいけない、不公平だよとか、

最初は(最初は、なのよ)、思うかもしれない。

 

でも、さ。

結果として、自分のことに自分で責任を持つ、

しかも楽しませることのほうに責任の感覚を持って使うほうが、

自分で呼吸が、楽にできるようになるよ、必ず。

 

たぶんそれを、変な束縛から自由になる、と言うのだと思う。

そして、そっちを選んだって、本当にいいのだと、

今の私も、少しすつだけれど、実感している。

 

世間「様」からどう思われるか、のプライドでなく、

いい意味での自分「様」がどう楽しめるか、ゆったりできるか。

自分を静謐で、平穏でいられるように、してあげられるか。

そっちの方面で、私は、自分のプライドを作って、使っていけるようにしたい。

 

そのためにも、過去の、不必要な分のプライドは、捨てる。

捨てるというより、練習することで、

勝手に消えていく種類のものかもしれないね。

 

とても抽象的な内容になったから、訳わからん、という人もいるだろうけれど、

必要な部分が必要にな人のもとに、届きますように。

 

そして、新たにやっていける勇気が、

私にも、あなたにも、より、湧きますように。

 

心を、こめて。

 

2015_03_21

Photo by lmaresz
Pixabay

 

打ち解けられない。その2~必要でないときの話

昨日の追伸を書いたあと、続きではなく、

別の角度でも話したくなっていたので、今日はそちらを書いてみる。

 

私は、まあ、女子に分類されるわけなので(笑)

(ってジェンダー的な悩みは別に持ってないよ、女性のわりにはオッサン脳なだけ)、

中学くらいまではグループ、というものに属していた。

 

小6のときに、仲がよい、と自分では思っていたはずの2人から、

いきなり嫌味を言われて絶交され(もちろんその原因は私にもあった。

だが今から考えたら、相手の言い分を全部、鵜呑みにする必要までは

なかったのかも、という感じ。なのでここでは嫌味、と表現してみるよ)。

それゆえ中1のときは、ドキドキ、ビクビクしながら

友達と接していた感覚がある。

 

ところが中2で奇跡的に、クラス全員が話せる、

各自が柔らかく、全体でも仲良しでいられる、という環境になり、

そのおかげでビクビクが吹っ飛んだ。

 

で、その頃から、私は優等生方面の、明るい口達者女と

化していった(笑)から(このときすでに、そういえば

頑張りモードに突入してたな……)、だんだん、

嫌味や陰口等も怖がらなくなっていけた。

言いたいことあるならちゃんと言えば?

とハッキリ相手に言える人になっていって(わー!)。

 

中3のときにはもうね、生意気、とか他人に言ってイジメちゃうタイプの

女の子ちゃんたちも、私と私の周りには、

手が出せず不満タラタラだったらしいよ。

これは卒業してから知った話で、かなり友達と笑えた。

そうか、怖がられ、悔しがられてたのかー、

って、なんじゃそりゃ、と(^0^;)

 

で、高校はなぜか、お勉強できまくりの公立、

友達は基本、超個性派集団で「つるむ? はあ?(*゜д゜*)」って感じだったので、

違うクラスに仲良しが1人いるくらい、あとは当たり障りない程度。

 

こうしてすっかり、なじむ人とはなじむ、なじまない人とは無理に接しない、が

出来上がっていった私だったから(大学は高校の延長ね)、

友人の女子高時代の愛憎話を聞くのが、そりゃもう、新鮮だったわさ。

 

そんなモードで社会人になっていったがゆえに。

興味のある会話、と、興味のない会話、もだんだんハッキリしていって、

興味のない話をする集団の場合、それがとくに会社での関係だと

そこにあまり加わらないという選択を、普通にするようになった。

 

これは、私以外にもそう感じていた同期の友人が複数いて、

いろいろ語り合ったことがあるくらい、

その会社自体が、もともとかなり女子高ノリを持っていたわけだ。

 

当時、私の友人が例に出した話をすると、

彼女は最初、支社に配属された人で、

支社には、おっとりした人がたくさんいたそうだ。

 

で、ランチタイムに、社内で複数の同期でご飯を食べるとき、

「私、昨日、卵焼きが上手に焼けてー♪」

という方向の会話が延々続くのよ、と。

その彼女もオッサン脳方面だったから(笑)、

何を話せばいいか、だんだんわからなくなったそうだ。

 

「悪いとか、そういうのではないのだけれど、

へぇー、そうなんだ、という以外の感想を、

どうやって述べればいいか、わからなかった」らしい。

これ、私もそういう傾向があるので、よくわかる話だった。

とっとと本部にもぐり込んでおいて良かったと思った。

 

が、しかし、本部には本部なりに、やはり問題があった。

女子高ノリが『恐い』方面、女子高の部活の先輩モードとして現れる。

つまりパワハラセクハラ(しかも逆セクハラもアリ)、そしてお局様いっぱい。

私も2年めにして、2つ上の先輩2人に

「生意気」というレッテルを貼られたものの……。

 

いや、あの、本気でね、わからなかったわけですよ、

なんで職場で、女子高ノリの『服従』とおべんちゃらを、求められるのかが。

だってここ、会社だよね?(°°;)

 

ってことで、私、先輩の嫌味もネチネチも意地悪も

ほぼ「はあ」「はい」「そうですか」的にスルー。

そのうち、たまたま私、目立つ役員にも気に入られちゃったりしたもんだから、

お局様のお2人、余計に『ムキー ッ!!-_-# 』

だったらしい(これも、あとから聞いた話)。

 

その結果、1年経たないうちに、

1人は私に対し、上司の目の前で自爆。

私はポカーンとしておしまい、な出来事だったが……。彼女は別の部署へ異動した。

もう1人はそれがきっかけで、私をターゲットにするのをやめたが、

出向先の子会社で、全く同じような女王様になろうとして。

たまたまその子会社は全然、別の世界からやってきた集団だったから、

全員からスルーされて、居づらくなって会社やめるの巻……。

これまた、自業自得というか、天網恢恢粗にして……な出来事であった。

 

長々と、自分のことを話してみたのは、

つまりね、無理して合わせる、という発想、私にはないのですよ。

差し障りない程度に、面白い会話にはちょいと加わるとか、

そういう気遣いは一応、少しするけれど。

 

だいたい編集なんて、自分で仕事を仕切るようになったら

ランチタイムさえ時間がバラバラだったから、

その世界に長くいたおかげで、普通の会社にたまたま行っても、

独りランチとか平気でやってる。

ご飯食べてきまーす、で、おしまい。

 

仲良しの友人の家族の話であればね、

状況も知ってるから興味が湧くけれど、

ある程度気を遣ったほうがいい間柄で表面的な会話に加わるくらいなら、

ブログや本を読んでいたほうが、よっぽど気楽だし、自分の時間が充実するもの。

 

ゆえに私は、社交的であるのに独立系、という謎のポジションを、

多分、占めていたりすることと思われる(笑)

なんかね、わざわざ言われて「へえ」と思ったのだけれど、

コミュニケーション力は、私、高いらしいのよ。

でもさ、そりゃそうなのよ、それが鍛えられなければ

編集なんて辛くて、長くはやっていられない(^0^;)

初対面で取材しまくるのだから、

狙った話を相手から引き出せなければ仕事にならないのさ。

 

でもそれと、自分がどこまで人に合わせるかは、

本当は別物なんだよな、と思う。

 

私はいい意味で、自分の感じることを大切にしたいし、

だからといって、何かトラブルがあったときにプンプン怒って、

関係のない周囲にまで不機嫌をまき散らすようなことは、

お局様たちとの経験で『馬鹿らしい』と思える感覚も養えた。

あれは本当に、ステキな反面教師だったわー。

 

だからね、少々、変人だと、もしかして思われていたとしても(笑)、

今の私にはまったくと言い切れるほど、問題ないのです……。

 

自分の捉え方、という話題が、普通に出てこない人に対して、

それを懇々と説くのも怪しすぎるし(笑)、

仏教的な観点から見てこういうのもあるらしいよー、とか、

そんなこと、会社で話せるかっ!(笑)

 

なのでたまに、そういう友達とLINEで会話したり、

会えるときは短い時間でも会って話せれば、ある意味、十分なのです。

 

もし、今日はどっぷり、その世界にいたい! と思える日があれば、

私が自分で選べばいい。

そういう場所に行って、深い話を聞いて、人ってスゴいなー! と思ったり、

本を買いに行って、読んで楽しめばいい。

そもそも私、活字中毒だしね(笑)

 

ということで。

別に自分が打ち解けないでいいと思える場面のときは、

まったくもって! 無理しなくてもいいのではないか、というのが私なりの持論。

自分に合う話題が繰り広げられている場所へ、

自分から出かけていこうよ。

そうしたら、聞いてるだけでも、楽しめる。

「自分が話したい、深い話」をできる相手が見つかれば、

自然に変わっていけると思うよ。

 

現に私は、パニック障害の友人が、それを

徐々に克服していきつつある姿を、間近で見させてもらえている。

 

私との共通点がたくさんあると思える人で、

私よりもっと深いポテンシャルも備えていると感じるから、

その人が、その人なりのペースで練習しているのを、心から応援できる。

 

そういう関係しか、私はもう選ばないし、

それはすごく恵まれたありがたい話だと思える。

自分の足で探しに行って、自分で決めて、相手にドギバクで自己開示して。

その結果としての今、老若男女、

立場や境遇がまったく違う人とも同じテーマで話せたりするのは、

すごくありがたいわけです。

 

もちろん、途中で離れる関係になる人もいるよ。

でもその人はその人なりに、自分の課題と向きあっていて、

たまたま私とは、違いが大きいと思えるだけ。

単純に、残念、という思い、それで終了だもの。

あなたなりにやっていってみてね、しばらくはさよならだね、

またご縁があれば話そうね、くらいかな。

 

たぶん、こういうのも、

自分の選択に自分で責任を持つということなんだろうと。

そしてまた、自分を大切に扱うということなんだろうと、

今の私には、思えているよ。

 

昔の私なら、視野が限られていたから、

専業主婦の仲良しさんに出会える日がくるなんてことは、想像できなかった。

 

そういう自分の縛りがあって、鬱にもなったけど(^^;)、

そのあとに、縛りをゆるめるために出会った世界が本当に心置きなくて、

今はとても、よかったと思える次第。

 

求めようよ。さらば与えられん、なのだよ、本当に。

いつからだって、あなたは、求めていいんだよ。

 

緊張するのも、怖いのも、別に持ったままでいいのに。

それを否定しているだけだと、そもそも、動けなくなる。

嫌われたくないとおびえるのも、人としてはある意味、当然の話で、

それを持っていても、持っているからこそ、うまくいく面はたくさんある。

 

そういうことを実際に何も経験しないで、自分に文句ばかり言っていても、

そこから延々、動けないだけだよ。

そのほうがいいのなら、止めないけれど……。

 

悪いことなんだと捉えすぎている、その今の視野を、

ゆるめて広げてみるのは、なぜいけないのだろう?

 

そのためにも、自分を苦しめている人は、

自分自身を、今の視野だけで見て、その方向だけから『見捨て続けず』に、

違う見方で掘って掘って掘って掘りまくるとか、

広げて広げて広げまくるくらいに捉える練習をして、

とにかく、自分がゆるんでいける方向を模索してほしい……と、

個人的には願っている。

なぜそう捉えすぎるのか、を、自分のために、知っていってあげてほしいと。

 

きっとあなたのポテンシャルも、今、苦しんでいるからこそ、

昔よりとても高くなっていける機会になると、思えるから。

 

どうか、今のあなたの視野だけにとどまって、

その場所だけで、あきらめないでね。

 

2015_03_20

Photo by ゆんフリー素材写真集