否定的感情はただの「サイン」扱いにしてもいい

否定的感情。

腹立たしい! 悲しい! 私だけがこんなに苦しい!

って部分ばっかり見て、そこのみに注目するのか、

へー、私って、こういうことでこう感じるのね、

じゃあ、私はこの問題をどうしたいの?

また、自分で何を大切にしていきたいと思うわけ? 

という問いかけを使い、

『自分のことに気づく』ためのサインに使うのか。

 

そこで人間の幅の練習って、違っていくよね。

 

怒りや悲しみや苦しみに出会ったとき、

『そう思っている自分がいること』を

しっかり受け止め、味わってみる

(泣く、怒る、モヤモヤを表に出してみる、あえて感じてみる、

相手の前で正当性を主張するだけが

正しくて立派な良い在り方ではないので、

ひとりのときにやってOK)。

 

そのあとで、もしこれがサインだとしたら、

という感じで、自分の内側を覗いてみる。

 

それでも、別にいいんだよ。

 

焦って誰かに何かをわかってもらって

その誰かに何とかしてもらおうと丸投げするから、

事態がややこしくなることも多くてさ。

 

自分でやったら負け、とかいう言い訳を

そこにくっつけているのだろうけれど、

何のことはない、他人の力を自分のために

使わせたい! と、もくろんでいるだけです。

 

別の面から見れば、ごめんなさいね、

とてもイヤラシイ、腹黒いやり方だよ、それ。

 

相手と真摯に向き合い、お互いを

対等なものとして交渉してないもの。

つまり、折り合う、近づき合おうとする姿勢じゃなく、

下手に出つつの、あるいは上から目線での

他者コントロール欲だもの。

 

ましてや、自分は悲劇のヒロインをどっぷり味わう(酔う)だけで

自分の力を一切使わずにぶつけるのみ、の場合。

 

こんな私

=ダメな人間

それを助けてもらおうとする、その『相手』

=ダメ人間に関わる、人を見る目のない人間

みたいなことを、

同時に相手にも示していることになる。

 

関わってくれる相手にも、

むっちゃくちゃ失礼なことを『示す』羽目になるのよ、それ。

自分が、わざわざ選んで! そんなところへ

自分と相手を連れていくの。

 

矛盾してるよね。破滅したくないといって

助けを求めながら、相手を巻き込んで

破壊を選んでいくようなものだよ。

 

どうしようもないのよ! のみを

その瞬間、選んでいるのはあなた。

変えようがない部分はそりゃ変えられない、でもね、

自力を使うこと を拒否し、

自分を知ること、も拒否し、

わざわざ

どうしようもないのよ、だけを見つめるやり方。

それを、そのときに選んでいるのはあなたなのです。

 

落ち着きなよ、とりあえず。 

自分が不快な感覚にわざわざ集中して

どっぷり浸かったあげくに

どうしようもない気分になってる、

つまり自分に振り回されているだけだから。

 

自分が自分を振り回してるのだから、

それを止めるのも自分でできるよ、もちろん。

そこで他人を使って「私への愛の証を見せなさい」

みたいな『ネタ利用』をすると、うまくいかないんだってば。

 

さみしい自分がいるんだなあ、って、

まずそこに、冷静に気づいてあげて、

私はさみしかったんだなあ、って、

自分に話しかけてあげてごらんよ。

 

そうなのよ、って感じで、

 内側でいろいろ、対話してごらん?

 

少なくとも、悲劇の王女! みたいな

黒いウットリ感よりは、

そういう心の内を知ることのほうが、

自分を平和にさせられると思うよ。

 

すぐには解けなくても、いいの。まずは知ってみる。

そのあと、

だったら、どうしよう? 

とりあえず何をしたい?

って、自分に質問してあげて、

疲れてたら休んでいいんだよ。

 

せっかくのサイン、ムダにする必要は

まったくないと思うのだけれど?

 

2016_06_05

Photo by mrtakeaway
Pixabay

 

渡すもの、受け取るものの本質──読んでみてください

本日2本めの、記事紹介となります。

 

私も、自分がやること、仕事に限らず、の面で何か、

こうした感覚を、感じていきたい……と思えました。

 

たとえば仕事で言えば、

私は介護という職業ではないけれど、

どんな働き方であっても、自分が、

成績や勝ち負けやお金や評価、ではない、

その本質の部分を味わえると思うのです。

 

そしてそれは、

とても豊かでありがたくて幸せなことだ、と。

 

Facebookでこの記事のことを教えていただきました。

ぜひ、読んでみて、ください。

たぶん、今まで自分が見ていなかったものが、

立ち現れてくると思います。

 

あなたが、公私のあらゆる面で、

それぞれに、味わいたいと思うものは、何ですか?

 

そのときに『今の自分ができそうなこと』は何ですか?

 

あなたは何を相手に渡し、自分は何を受け取りますか?

 

『最近の、仕事のはなし。』
http://amba.to/1Pb98t2

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Photo by karamel
Pixabay

 

相手からどんな評価をもらえるか、は「自己評価」の軸にならない

本日も、他者の方の記事を紹介します。

 

まず、下記の抜粋を見てください。

この方が何をやっているか、等の情報は一切抜きで出します。

 

私は親として、自分のスタンスが好きです

100点満点とは言いませんが、

自分なりの親としてのパフォーマンスと意識は好きなのです

 

いかがでしょうか。

私は、これをさらっと言い切れるのって、

自分のことは、

自分自身で見つめることが大切なんだ

ということを本気で覚悟して、

その練習をしっかり積まれてきた結果、だと思えます。

この方は、たまたま「親」という役目を使って練習されていたわけです。

 

親として、の部分を「○○として」というふうに、

自分の状況に合うものに

置き換えていただけるとわかるかと思います。

 

『私は○○として、自分のスタンスが好きです

100点満点とは言いませんが、

自分なりの○○としてのパフォーマンスと意識は好きなのです』

 

ここに、他者評価、入ってないですよね。

自分のあり方&立ち位置=スタンス

と、

自分がやること=パフォーマンス

についての言葉です。

 

「こう言えること」に、

相手の立場とか、相手の問題とか、

そんなものは関係がないこと、伝わるでしょうか。

 

人は、他者から、

『自分が何を思って、何をしてきたか』

を学ぶことは出来ます。

 

でも、それは、

自分の感覚より他者の感覚や判断のほうを当てにする、

ということではないのです。

ましてや他者の言葉を「自分の軸」にすることとも、まったく違う。

 

この方の場合、たまたま「親という役目」についての言及ですが、

こういうことを何か、ひとつでも言い切れるくらい

自分を自分が見つめていく

こと、つまりは自分への信頼を育てることを、

私ももっと、やってみたいと思えました。

 

ちなみにこの方は、沖縄生まれで、直観が強烈に優れている方、

いわゆる「ユタ」さんの家系の方だと思われます。

米国人の方と結婚され、米国で暮らしておられます。

 

ふつうには聞こえないものが聞こえる方のことを

どう捉えるかは個人の自由でしょうから、

それについて深くは言及しません。

 

でも、自分がその気になる、その覚悟さえすれば、

このように他者の言葉から

「気づかせてもらえる機会」はいくらでも生まれるのです。

 

いや、しかし、すごいな、これをさらりと言えるのって。

やはりこの方には私、お会いしてみたいわ……。

どうか、ご縁がありますように。そして気づきに感謝です。

 

◎Masami Light さん
『信頼し見守る』
http://light.ti-da.net/e8713769.html

 

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Photo by sergee bee
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