自分の人生は自分でつくっていく と 改めて言ってみる

親が賛成しないから 家族が 親戚が 友達が

○○がないから △△できていないから

うん いきなり100mの崖から飛び降りろなんて 誰も言ってないし

命綱も食料も寝袋も 少しずつ確保して また確保しながら

ソロソロとその場を離れていっていいと思えるよ

 

だって あなたの人生だよね? 

誰に責任取ってもらおうとしてるの?

 

少なくとも 自分が自分のために 人生を味わうという決意なしのまま

うまくいかないことを 延々 他者のせいにしているよりはマシじゃない?

それ80歳まで続けるつもり? 恨み返ししたい相手がいなくなっても

あいつのせいで っていう人生を続けるの?

 

ああ だから 人生やめたいって? 

つまり自分では決意したくないまま

一生 誰かの言いなりになって その相手に良い部分を示したい?

少なくとも ほら 失敗はしていないでしょ って?

 

私は 私の人生を 自分で作ってみたい

それが「自然」ではなく「社会的に悪」だと思うのなら

それもまた ひとつの判断だから まあ いいのだと思うよ

 

でもそれ 覚えておいてね 

誰かに言われたから っていう理由をくっつけて

危ないから 失敗したくないから という理由をくっつけて

いずれにしても どんな理由をくっつけようと

それを選んでいるのは 他でもない自分

だってこと 

 

他者に責任転嫁することや

他者から何か オイシイものもらえるまで耐えるわ と

我慢することなども含めてね 

「自分が」そのやり方を選んでいくのだよ そこは知っておいてね

 

あるいは逆に 清水の舞台から 飛び降りるほうが 格好良さそう?

まあ それでもいいんじゃない

成功するときは成功するし 失敗するときは失敗する

肝心なことは あなたがそれを本気でやりたいか だけだから

評価や評判や人気を得るため 外側にPRするために ではなく

自分がそれしか選べないのなら 選びたくないなら やればいい

 

やるにせよ やらないにせよ それを「選ぶ」のは自分

そっちのほうが 楽しければね それでいいのよ

楽しそうでないとわかっているのに 他の理由からどちらかを選んだら 

どういう結果が表れようと まず9割方は 後悔して終わるよ

後悔するために それを選びたい って?

本気で 本心から それを望むの?

何をごまかしてるの? 何を嘘ついてるの? 何をおびえているの?

あなたの気持ちは あなたにしかわからないのに

誰に何を ゆだねていくの? それ 誰の人生のつもり?

 

じわじわ 練習して 小さな失敗でデータ集めて 軌道修正して

それが地味でも堅実でも 

「自分が」楽しく味わえることを 「自分で」選んで良いのに

何を一足飛びに 王様的成功狙いしてるんだか

何を他者に 預けてるんだか

 

あの人のせい なら あの人の元 離れようよ

それが過去の記憶なら 

「自分が」引きずるの やめる練習すればいいだけだよ

楽しめること ちゃんとやってれば イヤな記憶ってだんだん 遠くにいくのよ

消えないなら あなたが 自分で楽しめるように していないってことだ

いつまでたっても 我慢と努力で 「立派」狙いして

自分が少しでも楽しめることを 徐々に選択することすら 

自分に許していないってことだ

 

ねえ それ 何をやってるの?

休むことのない馬車の馬になって 何をやってるの?

 

……過去のおびえた自分に向けても これ 言ってる気がするな

本当 抜けられて 抜ける許可を自分に出せて 良かった……

 

2016_05_21

Photo by StruffelProductions
Pixabay

 

母が「後者」で私が「前者」なのは、もう、どうしようもないことで

すみません、完全、自分用メモです。

 

ウチの母が、心屋さんで言うところの「後者」で、

しかもがんばって「前者であろうとし続けてきた後者」で、

私が「前者」であることは、もう、本当にどうしようもない。

 

やっと、やっと、自分が鬱だったときに

実家へ帰るという選択は、責められるから無理だと思ってできなかったこと、

その淋しさ(自分の人生でいちばん、どうにもならなくなったときに

頼れなかったという気持ち)を抱えていても「私はその私であっていい」こと、

そして母もまた「母らしい個性を備えた人間であっていい」こと、

その部分では通じ合えない、と「私が勝手に受け止めてもいい」こと、

通じ合えなくてもお互いに『愛』は持っていて、感じていて、

もう、それでいいんだ、ということが、実感として心に湧いた。

 

泣けた。

私は「母が示したい形」で愛されてきたし、

それが私の「希望する形」ではなかっただけだった。

 

気づかせてくれた記事をリンクしておきます。

心屋さんの『前者・後者』論に興味のない人には

本当にわけのわからない話でごめんなさい。

 

そして、明かしてくださった、にゃあさんと心屋さん、

心屋さんのリンク先の方々に、感謝します。

 

本当にやっと……なのだろうな、うん、抜けられた~。

いつかチロッと通じることもあるかもしれないし、ないかもしれない。

でも、今の距離を保っていられるのは、私にとって、

そしてたぶん母にとっても幸せ。そう思っていいのだ。

 

もっと『今』に生きていこう。量子的なことも意識しよう。

仕方ない、私は結局、母のことが好きだし(この歳になってもね)、

母はどうしたって、あのやり方で、私を心配してくれるのだ、愛ゆえに。

そこで起きるズレ、しかも過去の記憶の中にある「残念さ加減」を、

後生大事に抱えて、みずから、疑問と罪悪感と淋しさに縛られる必要なんて、

どこにもないのだ。

 

最後にリンク。

大きくうなずいて、納得してしまった。これが標準でもいいのだ。

母の思いや考えがあるはず、と勝手に読み取ろうとしていたのは、

ヘンに気を回して「良い子だと思ってもらおう」としていたのは、私だった。

◎にゃあ さん
『後者vs前者』
http://amba.to/1OCKD7N

 

たまたま母という立場にある、前者ぶった後者さんに、

罪悪感を「持つ練習」をさせられていたことにも気づく。

あ、決して悪い意味でなく、

母は「人への思いやり」について母の表現で伝えただけ。

そこをあえてこじらせて「呪い」にしてきたのは、これまた、私だった。

◎心屋仁之助 さん
『■そんなこと言っていいと思ってんの? していいと思ってるの?』
(この記事内の「前者、後者」は、一つ前の文章を指す単なる表現で、
論で言う「前者・後者」ではない。ややこしい)
http://amba.to/1D9cbiu

 

ご本家版「前者後者」論も、最後のまとめのみ。さすがです。

◎心屋仁之助さん
『■【永久保存版】前者・後者、完結編』
http://amba.to/1SHQjmR

 

2016_05_20

想い方が違い、表現の仕方も違う。ただそれだけ。
それぞれ持っている愛はある。その「違い」に優劣なんてつけられない。
なのに、望んでる形じゃない! とやっていただけだった。ふぅ(^^;)

Photo by GDJ, ArtsyBee
Pixabay

 

内側を無視しているから「輝き」がない

まず、単純な原理として。

自分を信じている人は、周囲の人にとって

「自身を確立させている人」のように感じられます。

これって何かというと

「自信がありそうな人」に思われる、ということです。

 

何かが優れている、とか

何かができる、ことが

あなたを輝かせるのではありません。

 

そこ「だけ」に、しがみつくと、

「会社では人柄も実績もすごく評判がいいのに、

家族にはものすごく暴君なお父さん」みたいな

人間像が表れます。

 

つまり「「ある程度安定した『心地良くてラクな自分』を保てない人」になります。

 

それってどういう状態なのか、というと

「これがないと『素晴らしい自分』ではいられない」という依存なのです。

その人自身の『本来の輝き』を、自分の内側以外の、

何か他のものに預けてしまっているから、そうなります。

 

何を言ってる! 外側の何かで自分を良く見せることこそ、

素晴らしいんだ! と言い張る人ほど、偏っています。

どこかの本で読んだ話ですが、

たとえば「地位や稼ぎ」に依存してしまう人の場合、

「好きな女の子を誘うのに、自分の年収を証明できる書類を見せる」

などという変な行動に出ます。中身で勝負できないのです。

 

中身と外側、という点で言えば、

やたらと自分の身体の線を強調して、

自慢げに見せびらかしたりするのも、そのひとつかもしれません。

そんな「外側の、いつかは衰えてしまう、変化するもの」だけに頼って、

何を得ようとしているのでしょうか。

 

「自慢する心」と「自分を信じることで勝手に輝きを放てること」は、

まったく別ものだということが、

たぶん、理解できていないのだろうと、私には感じられます。

 

そして、こっちの『外側の何か』では、うまくいかなかった、

だったら今度は、この外側にチャレンジしてみよう、

そうすればこれが得られるはず!

たとば「いい人」に巡り会えるはず!

 

という感じで、いつまで経っても、

「外側のもので、さらなる良さげな、外側のものを釣ろうとする、

そうやって外側のものを増やそうとする」サイクルにはまります。

 

もし身体を得られたら、次は良いパートナー、

次はお金、地位、環境、所有物、かな?

外側への欲望は「上には上がいる」ことばかりを意識させ、

「もう十分、本当に満足」という気持ちに

させてくれることはないでしょう。

 

ずっとどこか不安で、ずっと何かが不満で、ずっと足りない。

 

そりゃそうです。

だって外側のものはいつだって「消える」可能性があるからです。

 

結局、自分を信じられないことが依存を生み、

そのせいで他者からの誤解を生み、

その人自身も「他者を偏って理解する」

ことへとつながります。

 

常に損か得か、しか考えないので、その視点で他者にも接する。

そして自分の内側を「自分で安心させる」ことよりも

「もっと外側に見せびらかせそうなもの」を得ようとするのは当然です。

 

ま、そういう人は、もしかして

ビル・ゲイツくらいのレベルになれれば、

ちょっとは満足するかも知れませんね。

どうしてもそうしたいなら、それはまあ、がんばってみてください。

 

でも、もし。

この「外側の欲を満たすだけ」のゲームにはまり、

自分のことをウザイとかダメとか嫌いとか言っている限り、

本当の安定も満足も平穏も落ち着きも

『自分には』

訪れることがないんだ、ということに、

少しでも、気づき始めているのなら。

このやり方、なにかおかしい、と感じ始めているのなら。

 

なぜ私がここまで

自分のことを嫌ったままでいるか

あるいは嫌いな面を持ったままでいるのか

 

という部分の解きほぐしを、オススメします。

 

一部であれ、自分を嫌った「状態」でいることが

どれほどの不自然さを生んでいるのか、というところに

注目し始めてみてください。

 

内側が変われば、

ビル・ゲイツには、すぐになれなくとも、

少なくともあなたの「世界」が変わります。

 

そして、「今のようなビル・ゲイツ」になる代わりに、

「新しいタイプのマザー・テレサ」や

「新しいタイプのジョン・レノン」や

もしかしたら「まったく新しいタイプの、

既存の有名人の誰にも似ていない素晴らしい人」に

なれるかもしれません。

 

それもすべて、あなたの内側「だけ」から、

生まれる可能性があること。

あなたの外側でなく「内側からしか、生まれ得ないこと」です。

 

外側に頼って生きるか、自分の内側を知る旅に出るかは

その人次第でしょうが、

少なくとも、外側に頼ることをやめれば、

外側の何かを失っても、

自分を「消してしまいたくはならない」で済みますよ。

 

外側だけでなんとかしようとすると、

その目指した外側を何か失ったとき(地位、立場、人間関係、財産など)、

すぐに意気消沈して、

今まで以上に自己卑下して、

またはきっかけになった相手を罵倒して、

最後には自己を消したくなる、という

不毛な下向きのサイクルにはまることになります。

 

もし、そのサイクルから抜け出したければ

 

なぜ私は、こんなにも

自分を嫌っているのか

 

外側の何かを得るゲームをいったん、中断して、

こっちを本気で「冷静に」分析し始めてみることを、オススメします。

この探求も、なかなか味わい深いですよ。

 

2016_05_17

Photo by geralt
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