不安な気持ちを人に投げつける、ということ

不安感を基礎に置いて、人間関係を作ろうとするときに、

起こりうることのお話。

 

不安なの

自信がないの

こんな自分で

本当にいいのかな

どう? どう? 

本当にこれでいい?

 

不安の中身は自分の性格だったり、態度だったり、

好きでいてもらえるかどうかだったり、まあ、いろいろだよね。

こういう形で誰かとの人間関係を築き始めるとき。

 

最初は、相手だって、

あなたに好意的であれば、

 

そうか 不安か……

大丈夫だよ

それでいいよ

 

と言ってくれるかもしれない。

 

でもあなたは、そんなことだけでは当然、

本気で心の底から『ずっと』は安心できない。

 

だからまたいつか、やり始める。

 

そんなのじゃ 不安なの

なぜそうするの?

ねえ 私はこれでいい?

どう? どうなの?

 

さあ。

逆の立場で、これを感じてみようよ。

 

いつまで経っても、ことあるごとに不安を訴え

言葉がけや思いやりをもらおうとしてくる相手。

 

あなたがそんなようなことを、

延々と繰り返し、何かあるたびに言われたら?

途中で、

 

なぜそこまで不安なのさ。

その不安 本当はどこから来るの?

幼児ではないのだから

もうちょっと自分でも何とか 

原因なども探して

解決しようとしてみたら?

 

って、ならないかな?

 

そうはならなくて、

「不安なことを訴えてくれるのは私にだけだわ」

ってウットリしたい?

 

本当に、それを望むかな?

 

あなたは、相手には、

どちらかと言うとウットリしてほしいのよ。

自分が感じている『相手への信頼の度合い』を、

そこから相手にバッチリ感じてもらい、

そんなにも信頼してくれているなんて! と

ウットリ、になるくらい思い切り、

自分のことだけ、見つめてほしいのよ。

 

それ、うん、ゴメンね、ハッキリ言うけど

実の母親であっても、キツイわ。

 

逆の立場でも、自分にはできる!

とか思うかもしれないけれど。

 

何度アドバイスしても、覚えているのかどうかわからないほど

何かあるたび似たような不安さ加減で尋ねられ、

本人はいつも、落ち込むたびにその調子で訴えてくるだけ。

 

あなたは、相手が安心できる答えを渡すまで、

相手からいろいろ訴えられて、でも当の相手自身は

自分で答えを探そうとはしてないような感じで、

あなたから「納得して安心できる答え」が受け取れるまで

不安感の中身ばかり説明して、

シクシクしながら待ってるだけ。

 

日々、仕事や勉強などをこなしながら生活していて、

その中で、そんなふうにベッタリ頼りきりになられて。

 

ねえ、それで、どこまで相手のその態度に、

ウットリし続けていられるかな……。

 

俗な言い方をすれば、どれくらいの間、

お互いにその形での「蜜月期間」を保てるかというと、

まあ1ヵ月間、長くても半年じゃない?

 

そこに婚姻関係などがあって、

世間体、とかいうものがくっつけば、

それを理由にして続けていけることもあるけれど、

少なくともウットリするから

お互いが続けていけるわけではなく、

あくまでも他の理由による

『ガマン』『耐える』状況になるだけ。

 

だって、自分自身の不安感を人に丸投げする限り、

その不安は根っこから消えることなんてあり得ないし、

一瞬、表面的に消えたかのように感じることがあっても、

消えたら消えたで今度は、

変に自分が明るく変わったら、捨てられてしまうのでは、

とかいう訳の分からない、影の不安も生まれるし。

 

不安なの

そうか

 

なんてお互いがやっていられるの、

よほどの金持ちで、それ以外やることない人……

くらいじゃないかな。

 

普通に生きているなら、不安を投げかける側の人は

『こちらをまた不安にさせて!』

って悲しむことになるし、

 

不安を解消する側は

『いい加減、自分でも、もっと何とかしたら?』

あるいは『こっちの言うこともっと聞いて、ちゃんと応用効かせろよ!』

という怒りが募るようになる。

 

それ、うまくトラブル回避していくためには

お互いが、他の他人とは一切深く関わらない、

その人だけを見て、その人だけとつきあう、

くらいの世界の縛りが必要となる。

実際、他の人と関わること自体が、

「不安のきっかけ」となって、もめることになるし。

 

うん、お互いがお互いを、牢獄へ閉じ込めて、

相手の自主性さえ、自分のために発揮させないと

気が済まないようになるわけだ。

 

お互いがお互いにとって

常に看守であり、同時に罪人。

そして一生、相手と不安についてのやりとりばかりを繰り返し、

ほんのたまになら、もしかしてウットリできるかも……。

 

それを幸せ、と呼びたいのなら、

まあそれは、ご自由に。

友情だろうが愛情だろうが、

『相手を監視し続けないと不安』なんていう幸せ、

私には想像できないけれどね。

 

でも、その不安を、

他人になんとか解消してもらおうと投げつける前に、本当は

自分が(今はまずダメなままの)自分を「先に」信じる、許す、認める

というプロセスを練習できれぱ、

 

監視のいらない自由な、

お互いの自主的な信頼関係に基づく『安心感』

 

という人間関係が、

ほかでもない『あなたの』元にやってくるということだけ、

私は伝えておくわ……。

 

2016_02_28

Photo by vero_vig_050
Pixabay

 

ああされた、こうされた、ひどい……

あのさ。

相手を主体にして人生を生きていたら、

いつまで経っても

『相手に要求する』しかないよ。

 

もっとああしてよ!

違う、こうして欲しいのに!

なぜ、やってくれないの?

 

それ、どんな命令?

あなたは王様で、相手は奴隷ですか?

そんなことない!

私はこうやって『あげてる』!

 

へー。

じゃあそれ、取引なんだ。

愛や思いやりでなく、

あくまで「自分が受け取る」ために、

相手に差し出すだけなんだ。

超・下心つきの取引だね。

 

だってそうしないと、

私は幸せになれないじゃない!

 

うん。

相手を主体にする、

相手に任せて、相手に頼る限り、

相手が自分を幸せにしてくれないと、

結局はダメだよね。

 

で、あなた自身の存在は、

それの、どこにあるの?

 

あなた自身の存在は、

ただの取引材料なの?

あなたはただの売り物レベルな存在なの?

 

自分を中心にしないわりには、

幸せになりたいと言って、

王様みたいに他者へ

取引命令、しまくってるよね?

それ、自分が幸せになるために、

相手を利用しようとしてるんだよね?

 

そんな取引ばっかり望むのであれば、

これからも、取引してくれそうな人、

探せばいいよ。

 

そして一生、

なぜなのよ、

なぜ私を幸せにしてくれないのよ!

って

相手任せの取引をした挙げ句に

相手に自分の良い扱いを要求して相手を批評して文句ばっかり、

つけていけばいいよ。

 

あなたが、

自分で自分を大切にする、

自分で、自分を、幸せにする、

という覚悟も責任も能力も、

何も鍛えないまま、

相手に文句をつける人生を選びたいなら、

それもひとつの生き方だろうと思う。

 

でもね。

これだけは言っておく。

「なぜ私は幸せになれないか」という疑問は、

自分の力を放棄している限り、

答え、見つからないから。

 

あなたが、

自分を自分で大事に扱う、という練習を

本気で先に始めない限り、

誰もあなたのことを、

そこまであなたを主体にして、

大切には扱ってはくれないからね。

やったこと、やり返されるだけ。

 

当たり前だよね。

相手には、いや、相手にだって

自主的に、自分の気持ちや思いを持つ権利が、あるもの。

 

あなたは、自分を捨てているのだから、

やはり自分を捨てている人、

たとえば深い人間関係から逃げたい人や、

相手に要求ばかりする人などにしか、

そういう意味では、構ってはもらえないよ。

 

相手からの「取引ではない自発性」が欲しければ

自分もまた、自身の、取引ではない自発性を知って、

練習していくしかないからさ。

 

自発性の愛や思いやりが欲しいなら、

取引ではない愛や思いやりを、

まず、自分に対して練習して、

それから他者へも、発揮していくしかないのよ。

出したモノが、還ってくるのだから。

他者へ自発的に行って、

還ってくるのを、その相手から、に限定して望むのなら、

それ、自発的なものでなくなって、取引になるんだよ。

 

このことがわからない限り、

あなたはずっと相手に不満を感じ、

ずっと満たされないまま、

ずっと王様のような取引を

奴隷のようなふりをしつつも

(しかも常に、相手に振り回されるというオマケつきで)、

やりたがる人、のままだわ。

 

そこは自分でしか、変えられない。

いつまで、他人に文句をつける練習、続けるの?

いつまで、相手に自分の幸せ、任せるの?

 

2016_02_27

Photo by OpenRoadPR
Pixabay

 

見たいように世界を見ている

こんなタイトルをつけると、

今どき流行りのスピ系引き寄せの話かと思われるでしょうが、

もっと現実的(物理学的にも?)な話です(笑)

 

今、私はふと興味をもって、物理学の本を読んでいます。

内容を具体的に理解できるわけではない(物理好きな人が楽しめる)本だけれど、

タイトルに惹かれたのだ。

 

『物質のすべては光』

これ、宗教の本じゃないよ(^^;)

2004年にノーベル物理学賞を受賞した、

最先端の量子物理学者さんの著書なのだ。

 

この本は、とんでもなく頭の良い物理学者さんが、

物理学に興味を持っている方向けに、

少しでも今の量子物理学の面白さを感じてもらおうと

比喩表現にもいろいろ工夫されていて、そこだけでも楽しめる。

 

たとえば単位の話では

「もしあなたがアントロメダ銀河に住む友達と文通していて、

その手段がテキストメッセージだけだったとしたら。

私たちと同じ秤や物差しを持っていない相手に対し、

どんな単位を使えば、

自分の身長や年齢を伝えることができるだろうか?」

なんてことが書いてあるのだ(*^^*)

 

あ、上の文は原文引用ではなく、概要です。

原文は翻訳調で長いため、今回はこのパターンで私がまとめていきます。

 

で、まあ、量子物理学って、物質の最小単位やその性質、

質量など、「この世界を構築するモノ」のことがメインなのだけれど、

そういう最先端を研究されている方が言い切っています。

 

私たちの感覚は大ざっぱなので、

興味のあるものや、これまでの経験則などによって、

日々、入ってくる情報を取捨選択して、世界を構築している、と。

 

つまり私が、瞬間、瞬間、見たいものをピックアップして、

それで自分の世界をこういうものなのだ、と認識しているのである……。

 

このときの説明で面白かったのは

「虎がこっちに向かってくるぞ!」という叫び声をあげるとき、

あなたは虎の声や足音、匂いや巻き起こす風などを

一瞬で全部受け取って(姿がすぐには見えなくても)

それらから導き出されることを、言葉として瞬間的に叫ぶのだ、と。

 

もちろん、その際には、虎という存在がどんなものなのか、

このあたりに生息していそうかどうか、なども

知ってなくちゃいけないよね。でないと声を聞いても

それが虎とはわかりようがない……。

経験則と、あらゆる情報のピックアップによる、

自分なりの瞬時判断と行動、を選ぶのだ。

本当は虎じゃなく、犬かもしれないしね……。

 

この、情報の取捨選択についてはもう一つ、

忘れられない話がある。

 

聾唖の子ども向けフリースクールの、国語の教科書作りに

関わっていたときに、お母さんたちから聞いた話。

 

子どもたちは聴覚から入る情報が少ない分、

視覚情報が私たちより、とんでもなく多いのよ、と。

 

何でも、みんなで夏の暑い日にコンビニに入り、

おしゃべりをしながら飲み物を選んで買ったら、

容器は冷えているのに、中身はそれほど冷えていなかった

ペットボトルがあったそう。

で、あるお母さんが「あら、これ、あまり冷えてなかったのね」と

手話で話したら、子どもたちが「保冷庫が先ほどまで故障していたため、

まだよく冷えていません」という注意書きが、

ドリンクコーナーにあったよ、と。

 

お母さんたちは全員、そんな張り紙は見ていなかったので、

ええ、本当に?

ということで、コンビニに戻ってみたら……。

 

ドリンクコーナーの、わりとわかりやすいところに、

しっかりその張り紙があったそうな。

 

そのとき複数いたお母さんたちは、

誰もそれには「目を留めなかった」のだ。

 

子どもたちも、とくに注意して見ていたわけでなく、

みんなでワイワイ、一緒に話しながら選んでいたそうなので、

普段から目に入ってくる情報に対する把握力、注意力が

やっぱり全然違うんだね~、と、皆で納得し合ったらしい。

 

ね。この話でも、わかると思う。

あなたが見ている世界は、あなたが注意を向けていたり、

惰性的な経験則だけで、選んでいる可能性があるのだ。

 

ならば、

いつも私には、こんなことばっかり!!

などと不満を唱え続けるくらいなら、

注意を向ける方向、変える練習をしてみてもよくないかな?

 

いつも周囲に文句をつけたり、

いつも自分を罵倒している人は、

無意識にせよ、そうなりやすい情報にばかり、

自分から注目している可能性だってあるのだ。

 

たとえば、風の柔らかさ、光が差す瞬間のまぶしさ。

他者が他者に対して行っている、小さな親切。

道行く人に、笑顔を振りまいてくれる赤ちゃん。

目が合ったら、シッポを振ってくれる散歩中の犬。

 

そんなふうに、あなたがはっきりと意識的に、

「この世界における優しいもの」を選び始めたら、

その証拠って、実はどんどん、増え始めるのではないだろうか?

 

光だって、観測者が見たいように結果が現れる。

粒子にも、波にもなってくれるのだ。

 

……とまあ、量子物理学の本が「可能性は32次元レベル」など言い始め、

重力でさえもある種の形(さて、波なのか、粒子なのか……)として

捉えられ始めた今、

『自分が』自分の見たい世界、存在したい世界を選んでいる、という話も、

あながちウソとは言い切れなくなってるような気がするのです。

 

つまり

すべては 自分で決めて 

選んでいっていいんだよ

と、この『世界』そのものが、教えてくれているような。

 

そんな気が本気でし始めつつあるなかで、

この小難しい本(笑)の、続きを読んでいこうと思います。

 

最先端の物理学者の言う言葉だから、

少しは信用できそうでしょう?

内容を理解しようとしまいとも、

心配しなくても、

どうせあなたは(そして私も)、

どうやら『光が根源にある』存在みたいですよ(*^^*)

 

2015_02_23

『物質のすべては光  現代物理学が明かす、力と質量の起源 』
フランク ウィルチェック 著 ハヤカワ・ノンフィクション文庫
¥1,019
http://www.amazon.co.jp/dp/4150503842