自分を大切にできるという その力

今日はまず 淡々と書き並べてみようかな

 

◎自分を嫌うから 信じたくなくなる人のパターン

自分を嫌っている

→できなかったときに『ほらやっぱり』と注目して ダメな証拠集めをする

→証拠が集まれば集まるほど『ほらやっぱり』と 自分で納得する

→ますます自分を嫌いになるか 嫌ったままで い続ける

→できたときは偶然 または当たり前としか思えず 

証拠として大事にしないでスルー

 

自分を嫌っている

→他人が好いてくれたとき 勘違いしてるんじゃないかと不安に思う

→勘違いがバレたら 嫌われるんじゃないかと心配する

→勘違いしてるから この人 いつか私を嫌うかもと疑う

→せっかく自分を信頼してくれようとしてくれる相手のことを

つまりは不安に感じ 心配し 疑う

→ちょっとトラブルがあるとすぐに『ほらやっぱり』と捉え 余計に不安になる

→私のことを本当に好きなのかと 結局 毎回尋ねて確認する事態になり

やがて相手も疑われることに疲れて 距離を置き始める

→『ほらやっぱり』とますます疑い 不安になるから ますます尋ねる

→相手もやがて 信じてもらえないことにガッカリするから 関係が壊れる

 

◎自分を好きだから 信じられるパターン

自分を信じられている

→完璧にはやれないかもしれないけれどやってみようという気持ちにもなる

→少しでもできた部分には 気付けるので『うん ここはできるね私』と思える

→ならばもう少し とか これもまた などと試したくなる

→それぞれ できる部分に気付けるので 自信もさらに持て

自分が 自分を少しでも認められる

→他人から何か言われても 自信は積み重ねられると自覚できているから

反省するときは反省し 他者の問題の部分は そうだね でおしまい

 

自分を信じられている

→うまくいっていると思えたときは 自分が何よりまず 喜べる

→他人は他人で 自分と同じように喜ぶことあるよな と腑に落ちるから

好きな人とは一緒に喜べる 嫌いな人は放置もできる

相手の自由も自分の自由も だんだん認められる

 

自分を信じられている

→自分を好きになってくれた相手が ほめてくれた部分を

『そうかな? そう思っていいかな? えへへ』と 

それなりに素直に受け止められる

→それゆえに相手に明るく感謝できるため 気持ちよく思い遣りも示せる

→ますます相手からも好かれ 自分もまた相手のよい面も見て 伝えたくなる

→よい面を持っているなと思える相手なら その人の言うことを信じられるので 

その人が褒めてくれた自分に対する自信も生まれる

→よい面からの自分に対する他者視点など

いろいろな角度から見られて証拠集めができるため

もっと自分に自信を持てる

→その結果 自分を好きであってよい根拠が増えるので 

そのまま またはさらに 自分を好きでいられる

 

毎回 ではなくても 大まかな流れとして

こういうこと 起こりやすくなっていくと思えるの

 

前向きに勝手になれる

逆に勝手に 後ろ向きになる

 

その根っこの部分には いかに 自分を大切に扱える練習を

自分に「積んであげられるか」の意識が関わっていて

昨日も書いたように 他人からそれをもらおうとすることばかり 求めていたら

いつまで経っても その他人の都合には 必ず振り回される

 

相手は機嫌悪いときだってあるよ

当たり前だよ 仕事やその他でキツイときもあるよ

 

なのにそれを自分のせいじゃないかとか

訳のわからん心配までしてしまったら

相手の機嫌 余計悪くすることに わざわざ協力しちゃうんだよ?

 

他人にばっかりもらいにいくのは

そういう迷惑もかけるんだよ

 

だからさ 自分への信頼は 自分で持つことも

いい加減 練習してみていいんじゃない?

相手に負担かけたりもして ややこしくしなくていいんじゃない?

 

認めて認めてって 常に迫られたら

自分だって辛くなるとき ないかな?

顔色ばっかりいつも伺われたら キツイときないかな?

 

自分が自分を好きになることは

何を経験したあとであっても 自分で 必ずできるんだよ?

 

2015_06_07

Photo by skeeze
ID:  201503311200
http://free-photos.gatag.net/

 

私には それが確かに 生きる力に つながると思える

その実例のものすごいものをひとつ 最後に挙げておくね

 

キシリトールさん

リンク紹介させていただきます

 

このタイトルの会を 開こうと決意されたあなたの気持ちに

心から 深く深く 敬意を 表します

ありがとうございます

 

◎キシリトールさん
ティーパーティー、リハーサルなう。
http://amba.to/1FHkcrW

 

彼の切なる想いが 気持ちが

他人に「認めてほしい」ばかりを見つめている方々に 

どうかいつか 伝わりますように

 

「ドラえもん」型 解決手法

この前、心屋さんがブログに書いておられた、

対処療法的な『こうしたらいいよ』についての話。

◎心屋仁之助さん
結局どうすればいいのかわからない/心屋に消臭スプレーは置いてないのです
http://amba.to/1MnXSJf

 

これってね、確かに、解決方法ではなく、

ただの「その場しのぎ」になり得るよな、と思う。

 

以前からときどき感じていたのだが、ドラえもんの問題解決策は、

のび太くんもジャイアンも、変化はしていなくて、

結局は、困ったときのドラえもん頼みになってるよな、と。それと同じでね。

 

あれはマンガだから、依存まではしていないけれど、

現実で考えたら、どこまで頼るのか、本当だったら

自分でバランスを考えなきゃいけないことが、いくつもある。

 

たとえば暗記パンなんて、覚えたいことが出たときには

その都度、食べなきゃ記憶できない。

小学生から食べ始めたら、高学年だとしても

8年から12年? 食べまくりになるよね。

 

もっと言ってしまえば、現実世界だったら、ジャイアンが脅しをかけて

ドラえもんをしょっちゅう奪ってしまう、なんてこともあり得るし。

 

あと、私が読ませてもらっている、ヒーリングスペース癒羽さんも、

シンデレラだってそもそも、すごい勇気を持ってたんだよ、って話を

ときどき記事に書いておられる。

◎愛と魔法を現実に☆スピリチュアルティーチャー癒羽(ゆう)さん

「本当の魔法使いはあなた!」
http://amba.to/1GekRWi

(ゆうさん、あえて古い記事をリンクします。おゆるしください)

 

シンデレラは着せ替えてもらっても、自分で勇気を持って行動しなければ

(慣れない服装でいきなりお城へ入っていって、王子様と人前で踊れるか?)、

プロポーズ、受けられないよ。継母の前で踊り、靴を履くその度胸。

プロポーズを受けてお城へ嫁入りできる度胸。

それがあって初めて、あの魔法も活きたわけで。

 

覚悟のようなものって、どうすればいいか、という「やり方」ではなく、

自分への信頼とか、そういう「在り方」のほうの話だと思う。

 

ゆうさんの使う魔法って言葉は比喩で、対処療法でない「在り方」を見ていくものは、

自分が自分にかけて、しかもそれが解けないようにしていける。

それくらい、根本から、自分って変えられるんだよ、しかも『自力』で。

 

きっとね、自分が整理することで気づいていく、そのヒントのほうは、

他者が渡せるという「サポート役」を自覚されているから、

癒羽さんは、肩書きに「魔法」の言葉を使っておられるのだろう。

自力で気づいて腑に落ちたとき、自分で「それでいいのかー!」と思って

スッキリして、本当に感覚まで変わるから、まるで魔法みたいに思えるのだ。

心屋さんもきっとそうだし、きっと他にも、在り方変化のサポート役をされる、

そういうカウンセラーはたくさんおられるはず。

 

はるか昔、キリスト教の教えにもすでに、そういうたとえ話はあるよね。

魚をその都度、与えてもらうんじゃなくて、

魚の獲り方を教えてもらって、自分がそれを『習得』したほうが、

その先、食べ物に困る確率、減るよね。

 

どうすればいいのですか、と言うときに

その問題のみを解決できる示唆をもらったら、

次の問題が現れたときにはまた、示唆をもらいにいかないと不安になる。

 

自分が思いついたやり方を、常に誰かに確認してもらって、

それでいいよ、ダメだよ、と先に評価してもらって、

お墨付きを受け取ってからでないと、真剣にトライできなくなる。

 

それは、変じゃない?

誰かの言うとおりに従っていくだけで、

自分で感じてトライできなくなるの、変じゃない?

 

そのためには『どうする』の前に『どう在る』の部分を、

自分で心地よくなるように捉え直して、整えるのが先じゃないかな、と感じるのだ。

 

そのことを、マトモな(あえてこの表現しておくね)、また、優秀なサポート役としての

カウンセラーさんたちは、皆さん、心に留めておられ、

あなたが自分でできるから、こちらは手伝っていくのみでいいんだよ、と

おっしゃっているように思える。

 

そうやったあとで、なら、

ドラえもん型の道具は、自分で、心の中で作り出して持てるようになる。

で、そこから、だよ。それを持って「実際」に、

「やって」みなくちゃいけないのは

やはりあなた自身、って話なのだ。

 

やり方ばっかり変えようとする前に、心の在り方のほうを整えたほうが、

きっとあとあと、よほど有用だし、

誰に聞かなくてもできるっていうのは、つまり

自分自身の感覚で選んでいけるわけだから、

自分を信用していくことのほうを、整えることと同じであると思うよ。

 

問題の、表面上の解決のみを目指して、あれこれ試しまくる前に(そしてそのたびに、

何かそこに別の問題点をまた見つけては、自分を繰り返し罵倒する前に)、

要らない思い込みを捨てて、必要な「自己信用」を身につけてみればいいじゃない。

そっちを変えていく練習、真剣にやってみてもよくないかな?

 

自分を信じられるようになるなんて、そんな、たいへんそうなことに

一から取り組んでる場合じゃないのです。

今、目の前の、この問題、あるいはこの人との関係、がなんとかならないと、

私は幸せじゃないので。だからその答えが欲しい。

 

うん、それが、つまりは魚をクレクレじゃない?

いつまで、他者に魚をもらいに行くの?

 

……まあね、中には魚を与える、

つまり「ドラえもん頼み」されて、金儲けと自尊心の両方を満たしたいという

教祖願望型の人もいるから、そこに頼れば需要と供給、一致するし、

たまに、自分の思いと違ってることを示唆されてケンカ別れすることがあっても、

また別の教祖、探せばいいだけで。

それもまた、ひとつの生き方だから、完全否定するわけではない。

私は選ばない、私にはもっと苦しくなりそうに思える方法ってだけ。

別に教祖は、家族でも彼氏彼女でも友人でもいいわけだしね。

 

ということで、いろいろなドラえもん、これからも探しますか? 

それとも自分の心の中に、いろいろな道具も作り出していける

在り方のほうを選びますか? っていう問いかけです。

 

在り方のほうって、確かに自分で練習はいろいろしていくけれど、

自分のこと、ひも解いてはいくけれど、

そこまで大層でたいへんなことでもないよ、ということは、お伝えしたい。

「~じゃないと不安」な場合、

不安が現実にならないよう「何かする」よりは、

その一歩手前の、在り方を整えていくことのほうが、いずれ

その不安を根っこから、手放せることにもきっと、つながるよ。

在り方を変えていく気づき、そのきっかけの一つに使えるのが、

たまたま、親や家族という、身近な人間関係である、っていうことなのだと思う。

別にカウンセラーのところへ行かなくてもいいけれど、

いろいろな方の記事などから、在り方のほうをひも解き、変える勇気を、

いつか持っていただけますように。

どうせなら、おいしいパンを自分の内に……。

 

2015_06_06

Photo by Stacy Spensley
ID:201307032300
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

やることで得る喜び

仕事でもプライベートでも、

やる喜び、が、そのとき自分にあるなら。

さらにそのあとから、何かが還ってこようがこまいが、

それは本来なら、どちらでもよいことのはず。

 

やること自体が楽しいなら、その時点ですでに、

自分がきちんと喜びを受け取れているからね。

だからそのときは結果がどうなるか、よりも、

やっていることそのものを、味わったほうがいい。

 

たとえば誰かから、何かをやってほしいと頼まれた。

そのとき、そこに『自分にとってのやる喜び』があるなら、引き受ければいい。

賃金契約による労働などの『社会的約束事』の部分では、

全部そうできるとは限らないけれど、やってうれしい部分を探せば

自分の気持ちが確実に切り替わるよね、そこで。

 

で、日常生活においては、あなたにも当然、断る権利はある。

なぜなら相手はそのとき『やってもらうこと』という部分を受け取りたいのだ。

だからこちらは『やること』を選ぶかどうかの判断、をすることができる。

相手が受け取りたいものを渡すかどうかは、自分が決めていい。

 

それを、やってあげておいたら、あとから何か返してくれるに違いない、

などと勝手に自分で予測して、

なのに、その予測については何も言わないで、

黙って、やりたくもないことを「はい」と引き受けてやったら、

相手は『この人はやりたくて、こちらが受け取りたいことをやったんだな』

と、受け止めるかもしれないよ?

 

そうしたらその時点で相手は、受け取っておしまい、になるかもしれない。

あなたはやりたかった、こちらは受け取りたかった、

なのでちょうど、お互いの気持ちの都合が合ったね。以上。

 

で、こういう場合に、あとから文句つけること多くなるのよ、やった側が。

「返してくれるに違いないと思って、別にやりたくはなかったこと、

あなたが言ってきたからやったのに!」って。

 

自分が感じていることを黙っておいて、

そのときに伝えなかったのは自分なのに、

後出しジャンケンみたいに、言い始めたりする。

 

じゃあ、そもそもやりたくないのなら、やらなくていいよ、って、

相手は思うかもしれないよ?

 

少なくともその人は『受け取りたい』ということを伝えた。

その人の意志を、その人の自由で、伝えた。

 

ならそこであなたも、自分の自由で、自分の意志を伝えればいいじゃない。

気が進まないけれど、あなたが受け取りたいみたいだから、今回は私がやるね、

その代わりに次はあなたが返してね、って、提案すればいい。

 

相手の受け取りたい気持ちを否定するのでもなく、

自分のやりたくないという気持ちを無視するのでもなく、

折り合い、つければいいじゃない。

やる喜びがあるものを、引き受ければいいじゃない。

 

見返り欲しさに、点数欲しさに、黙って耐えておいて、なぜあとから怒るの? 

隠していたのは、自分の意志でそうしたのに、

なぜ隠した気持ちの通りに相手が返さない! って、怒るの? 

それ、変じゃない?

 

自分が何を求めているのか、自分でもわからなくなってる?

自分の気持ち、無視し続けて、感覚がマヒしてるかな?

 

どうせやるなら、やる喜びが持てるときに、

自分で喜びを感じるために、やろうよ。

人の役に立つ、その行動の『経過』や『内容』自体は、

本来、楽しいことだし、うれしいことだと思えるよ。

 

やることで喜びを感じられて、さらにあとから何か、

相手からたまたま還ってくれば、

喜び、さらに増えてうれしいよね。

還ってこなくても、自分のために「やってあげられた」という記憶は残せるよね

(還してほしい人は相手の反応だけ見ているから、

この自分のため、の部分をよく無視するけど、きちんと自分のためにやろうよ)。

 

それにさ、やれる対象がいることも、幸せなんだよ。

わかりやすい例で言おうか、人間じゃないけれど。

散歩している間、喜びまくっている犬を見るの、自分もうれしくない?

自宅に帰ってきてから、犬に対して、

「さあ! やってあげた見返り渡せ!」とか言う?

相手が喜ぶ姿って、相手が求めて自分もやりたいときにやれば、

その『やってる時間』自体が、すごく幸せだよね? 楽しいし、うれしいよね?

その相手が「いてくれる」だけで、うれしいよね?

ペットに対するたとえなら、この感覚の意味、伝わると思える。

自分以外の存在に対して、ありがたさを持てる関わり方を、

自分が選んでいいんだよ。

持ちたい人に対して、素直に。

 

それをなぜか、ありがたさでなく、見返りについての文句やら

未来の、関係が消える予想の恐怖で覆ってしまったら、

ペットさえ毎日毎瞬、腹立ちや恐怖の対象に変わるよ。

今の時間の大切さは見ず、損得勘定やお別れ予想の未来だけ見つめればね。

 

なぜ今のありがたさでなく、損得や未来の恐怖ばかり見なくちゃいけないのだろう? 

自分からわざわざ、そんなこと。

 

こうした基本的なこと、もっと大切にしてもいいと思えるよ。

そうすれば、あなたも誰かにとって、

いてくれるだけでうれしい存在になれるよ、当然。

自分の感じることを大切にしていけば、

おのずと、相手が感じることを相手もまた、

自分がそうするのと同様に、大事にしてよいのだということが、

頭でなく『腑に落ちる』感覚で、理解できるから。

それをお互い大切にしていけば、いるだけでうれしい、そういう関係になっていく。

そのためには、自分がまず、その姿を見せていくこと、必要だと思えるよ。

 

還してもらえるかなんて、わからない。

そもそもが、どうなるかはわからない未来なんて、

誰が考えても、いろいろネガティブにも、捉え得る。

怖さだけをあえて見つめ続け、今のほうを、そして自分を無視していったら、

そりゃもう、誰にとっても未来なんて、つらいだけだよ。

今を、自分の感覚を、大切にしようよ。

そうすれば、やる、やってもらう、のありがたさにも、

そういう存在がいてくれるありがたさにも、『今』のありがたさにも、

もっと自分から気づけて、

そちらのほうをより見つめていけると思えるんだ……。

 

2015_06_04

Illustration by ククブログ

 

追伸:

ほんの数回、気づきを得た、そのときの決心で、

長年に渡り自分に叩きつけてきた

『~ねばならないのに』の思い込みを、

見事に自分が消せると思うほうが……おこがましいわ。

どれだけ能力高いと思ってるの? それ。

 

……と、強く言ってみたら、自分がどれだけ自分に理想を課しまくって

できなければ即罵倒、で結局、毎回、自分を痛めつけてばかりであることに

気づいてもらえるかな?(^0^;)

キツくてゴメンね。どんな書き方が届くかわからないから、

今日はこう書いてみる。

 

即効性やら完璧やら結果ばっかり、ホント、求めすぎ。

自分に対しても他者に対しても、

出すからクレクレ ばかりの、

ほめて欲しいその子ども感覚、

だんだん卒業していこうよ。

100点、取っても取らなくても、いいんだよ、別に。

 

なぜそちらをやってしまうのか、を捉えて、

その苦しみ方、手放していこうよ。

あなたが自分のために、ゆるめてあげられるよ、その縛りを。

あなた自身にしか、できないことだよ。