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残念、なお姉さんの話

えーと、私は、自分が疲れているということすら、

あまり見せたくなかった派である。

ええ、本当に負けず嫌いだったね、ワタクシったら、オホホ(^^;)。

 

でもね、疲れていることを『イライラ方面で』自分がアピールし始めると、

それで余計に疲れてしまうのではないか、というお節介な心配も、

こっそり感じるわけです。かーっ、疲れた! とか言い放って、笑うほうが楽。

 

仕事って毎日、続くでしょう。会社を辞めない限り。

ならば、疲れを仕事上でもうまく逃がすようにしたほうが、

結局、自分のためになるんじゃないかな、と思える。

 

で、そういうことに関連する、とあるお姉さんについて。

疲れる例として、今の会社のことを、具体的に話してみるね。

 

私が今、やっている仕事は『他者の補助』的な部分を多く含むのだけれど、

その補助の「守備範囲」が一応、あるわけですよ。

で、それぞれのチームに、それぞれ補助突発事項の対応係がいる。

 

その中で、私の範囲と重なり合うことが多い隣の関連部署の仕事、

そこで、自分が認められたいがゆえに、ときどき『やり過ぎ』になる

お姉さんがおられまして。

 

このお姉さん、立場を越えてでも、無理して量をこなそうとする。

求められている範囲を越えていても、任されたから、と、やる。

 

その任された具合、量や範囲が、全体にとってどうなのか、とか、

誰かがサボりたいだけだよ、それ、とか、

仕事上の流れからは、あまり把握しないわけ。

 

まあ『相手からの指示待ち』が標準になっている今の20代は、仕事上での

流れの中の自分、という把握の仕方をするの、難しいのかもしれないけれど。

 

でね、そこは私も、捉え方の違いだから、

自分の範囲の流れを見ていればいいや、とか、思っていたのですよ。

 

が、しかし。

どう考えても、こちらの範囲の仕事ではないものが、自分の業務に含まれていてね。

こっちで対応しちゃうと、いろいろ、マズイことにならないか、それ?

という疑問を持った、と。

 

で、なぜこっちで対応することになったのか、とか、

それをしていくと、どういう問題が起こり得るか、などを、

周囲にヒアリングしつつ、調べてみたら、

ああ、やっぱりそれは、こっちでやらずに、そのお姉さん達のところで

対応したほうが明らかによい、と思えて。

 

なのでそのことを上司にも掛け合い、今の状況なら、

お姉さん達チームに任せたほうが、問題は少なくて済みますよ、って

提案をしたわけさ。

 

ところが……。

私の視点、把握した上での提案だよという部分は、

お姉さん達にうまく伝わらなかったの。

で、単純に私が自分の仕事をお姉さんに振った、という捉え方を、

そのお姉さんは、されたのです。

 

「今まではそちらがやってた仕事だったのに」と言われたので、

「うん、こっちのチームで対応してることのほうがマズイから、

そっちでお願いしたいということなんだけどね」とお返事したら。

 

『私の仕事を増やして、この人は楽をすることを選んだ』と言わんばかりに、

ムッとしてお姉さん、去っていっちゃいました。あらあら。

 

もともと、そちらで対応すべきものを、無理やり振られていたのは

こっちのチームのほうですぜ、って話なんだよー。

ま、なので、お姉さんチームの直属の上司にも、

わざわざ説明しておいたよ、一応。

 

そしてさらに。

2~3月は怒濤の時期でもあったため、お姉さんにポカミスが起き……。

こちらから渡した書類を、紛失されたのだ。

しかもお姉さんがそれに気づいたのは、

こちらが渡してから1週間近く経った、締切間際。

 

そのとき、このお姉さんは、自分のミスを見つめるのが怖いのか、

「私は受け取っていません」と、言いに来た。

 

いや、あの、それさ、私を含めて、書類を作る作業した人が

「作った」こと自体を覚えているし、わりと急ぎの書類だとは知ってたので、

渡していないはずはない。とくにこちらには今、必要ない書類だし。

実際、私はお姉さんに手渡したことまで覚えている。

 

つまり確実に「お姉さんが紛失した」事態なのに、

「え? 渡したでしょ」と聞いても、

「でも私は受け取ってません」ときたもんだ。

 

そのときはもう、発送のための時間も迫っていて、

本当に急ぎのときに押し問答になるのも何なので、

「そう、じゃあこっちももう一度探してみるね」と伝え。

念のためにスキャンしておいた書類を再度、プリントアウトして

「原本はなくて、念のため用にスキャンしておいたデータなら、

あったよ」と渡しに行ったら、お姉さん、

「あ、それでいいです」だって(^^;)

 

こちらはすでに、スキャンデータを取っている、

つまり書類は過去に存在しており、しかもこちらの手元にはない

(もともとそういうルールで、手放す際に

必要ならスキャンデータを取ることになっているわけよ)、

つまり原本は、やはりお姉さんが紛失したことの、さらなる証拠でもあるけれど、

その部分はお姉さん、華麗にスルー。

 

よほど本人に「受け取ってないわけじゃないよね、これで」と

念押しで言おうかと思ったけれど、この前の『押し付けられた』時点からすでに、

お姉さんは、私とあまり目を合わせなくなっていたから、

ま、無理かな、届かないか、と、やめておいた。

 

そうしたら……。

やはりどこか、きっと後ろめたいのだろうね、お姉さん。

その後はますます、私とは目を合わさなくなり、愛想も微笑もなくなった(笑)

 

こーれーはー(^^;)、ゴメン、私も面倒くさいわ。

自分さえよければ+ミスを認めないの組み合わせ。

うん、私とは270度くらい(笑)、仕事に対するスタンスが違う。

私はそれを「幼いレベルの卑怯」と感じるタイプ……。

 

で、表題にあるのが、私の結論。

だからといって、こっちはとくに態度は変えず、

ま、無駄口きくスキは、もう与えてくれないから(笑)、

世間話的な話しかけをするのはやめて、事務的に接することにした。

 

そうなればもう、私は気にしないでいいので、

単純にしておくことができるけれど。

今度、レイアウト変更で、なんとお姉さんは

私の真後ろの席、背中合わせのところに来るのよね~。

 

そのまま私は、事務的ながら、普通に接してみる予定。

お姉さん自身が『周囲に違和感をまき散らすほうが損』と気づいてくれるか、

ますますぎこちなくなって、そのうちプチ自爆されてしまうか、

どちらを選ばれてもいいようには、心構えしておこうと思う。

(そのいずれになっても、私はなるべく変わらずに接するけれどね)。

 

若手だから、経験値上、かわいそうに思える部分もあるけれど、

それは私の勝手な同情になるから、示すの、相手も喜ばないだろうし。

かといって今の状況で、こっちが気を回しても、

お姉さんにはいろいろ届かなさそう(受け取ってはもらえなさそう)だから、

自分が空回りして疲れるのイヤだしね(*^^*)

 

と、細かく説明してみたけれど、届かなくて残念、という程度で

私が終わらせてしまえば、こっちはそれ以上、気を遣わなくて済んで、楽です。

私はわざと冷たくもしないし、ゴマすりもしない。

仕事の仲間、普通の同僚、おしまい、でいいもの。

 

こんなふうにね、相手側が勝手に悪く受け止めたり、

気まずい、とか思って、勝手にぎこちなくしてくるときは、

何もこちらから、働きかけはしなくていいと思えるよ-。

そもそも対応、面倒くさいでしょ?(^0^;)

自分から疲れを増やすの、やめようよ。

そういう、一つの事例のご紹介でした。

残念、で終わらせて、自分のほうはとっとと違う視点で、

別のことのほうを、楽しもう。

 

もし逆の立場の人がいたら、力を抜いて、素直になれば

それでかなりの確率にて、ややこしい事態は終わらせてしまえるよー。

もうね、折を見つけてさっさと、ごめんなさい、と言ってしまおうよ。

たとえばこのお姉さんのように、自分が嘘をついてることをわかっていて、

いちいち、ぎこちなくなってしまう。この先もずっと、

そんな反応しするのも、わずらわしくてイヤでしょう?

違うかな?2015_04_02_2

Illustration by Coffee
イラストボックス

 

出来ていないと自分が捉え それを 数えすぎていて

○○したいのに

△△にならなくちゃいけないのに

□□でありたいのに

って 今の自分の 苦しいところばかりみてさ

なぜこんなに人生は辛いのだろう?

って そりゃ そうならないかな

出来てないことしか

持ってないものしか

数えることをしないなら

視点は 苦しさカウント オンリーになっていくよね

なぜ その視点に『自分が陥るのか』は

どうしても考えたくない?

劣っている自分 その設定自体が

すでに何か 違うという『事実』は

見つめ直そうとは思わない?

そこは触りたくないのよ 怖いから

わかりやすく 自分が持ってないものだけ 見つめたいの

それでね でも本当は 苦しいの イヤなの

という論理展開が

何か ズレているってことは

自分でも 感じられないかな?

真実は 私もそれやってたから 言えるんだけどさ

持ってないと感じられるものを 得ようとして

その向いてる方向は ズレたまま っていうことだけ なんだよ

そりゃまあ それで

どんなに『何かしよう』と もくろんでも

どんなに実際『何とかしよう』と 頑張っても

ずっと ズレたまま だよね

最初のボタンを掛け間違えたまま

そこは触りたくないの!

見たくないの!

って 

最後のボタン(実際に何かしようとする)ところだけ

つじつま 合わせてみようとしたところで

どうやっても いびつな シャツの着方になるよね

何がなんでも 一番上のボタンは 触らないままでいたいという

その怖さもまた わかるけど(鬱ならなおさら そう感じられるしさ)

でも実際に起こっているのは 自分の内側での

単なる ボタンの掛け間違い なんだよ?

まるで 一番上のボタンが

何かの 爆発物であるかのように

思えているかもしれないけれど

いいえ それ 他のところと同じ

『ボタン』ですから 本当に

確かに 飾り用にね まあ

ちょっとだけ 大きかったりは

するかもしれないけれど

そここそがワンポイント 個性を醸し出す

おしゃれな飾りボタンだったりするわけで

自分の一番上のボタンの

デザインや大きさを知ることができたら

もしかして号泣しちゃうくらい

うれしくてステキなものだって

わかること できると思えるんどけどな……

なぜか自分が

一番上のボタンの掛け間違いだけ 完璧に無視してさ

なぜなの?

なぜシャツやコートがいつまで経っても

私はスッキリと着られないの!?

って 言ってるのだとしたら?

ただ それだけだったとしたら?

その掛け間違い 直したくならないかな?

それに あなたの視点のズレ

そのどこが ズレているのか知るためには

間違えたボタンもまず 外してみないといけなくて

そのためには 結果的に

服のボタンを一度 全開することになるから

ドキドキするのも わかるけれど

全開しても 普通にちゃんと止め直せるし

今度は一番上から 順番にさ

『何か具体的にしよう』って位置の

一番下のボタンまで

スッキリつなげられて

スッキリ止め直せて

あなたの人生 という服を 

楽しめると思うよ……

一番の前提のズレ に

いつか あるいはそろそろ 

無理ない範囲から 気づいてみてね

あなたの服は

あなただけにバッチリ似合う

とってもステキなものだよ

あなたが自分を 見ていないだけで

そのシャツ 本当は

すごく似合っていて ステキなのに

一番上の 大前提の 掛け間違いである

自分を疑い 信じないこと と

自分は何も持っていない 

何もうまくいかない という思い込みこそが

あなたが自分らしく ダメなままでいるための

必要不可欠な 絶対条件みたいになってるよね

それこそあなたは それをいつから

信じ始めたのだろうね……

 

2015_03_31

Photo by epicantus
Pixabay

 

傷を「自分が」埋めていい

今日は、

こんな自分は生きていてはいけないのではないか、

という方向の思いを感じておられる方に向けて、書いてみます。

 

きっと、何かがひどく、うまくいかなかった、いっていない、のでしょう。

あるいは何かを、他者から投げつけられて(こういう比喩表現にしておきます)、

傷ついているのでしょう。

 

そして、そういう自分の内側で『二度と元に戻れない』という感覚の部分があって、

それがどうにも情けなくて、悲しいのでしょう。

 

では、そもそも、戻らなくては『いけない』のは、なぜでしょうか。

戻る、のではなく、

『新しくなる』のでは、いけないのでしょうか。

 

ここで一つ、極端な例を、出してみます。

ご記憶の方も多いでしょう。山口県光市の、母子殺人事件。

残されたご主人は、犯人の死刑を求め、当時の裁判所での被害者の扱いにも驚き、

『被害者の会』を設立し、世の中の流れまで変えられました。

 

確かにこの方は、最終的に、犯人の死刑という結果を受け取りました。

しかしその経過においては、

自分が家族を救えなかったこと(それは、無理なことであったのですが)、

また、自分が「人を殺すことを望む」という、その状態について、

とても苦悩されたようでした。

 

たまたまこの犯人は最後まで、本気の反省を見せなかったため

(犯人は「ドラえもん」さえ持ち出して、

精神状態の不安定さを作戦として訴えました)、

ご主人はアメリカに渡り、同じような理由で死刑を待っている囚人に面会して、

インタビューまでされました。そしてその囚人から、

「死刑判決を受けて、やっと、自分がやったことを

反省できるようになった」という言葉を聞いて、

そういうふうに「省みる方法」もあり得るのだ、

ならば犯人にも、そうなってほしい……。

と、その点で、自分の気持ちを、なんとか整理されたのです。

 

ただ、そのあとですら「いいか悪いか」の判断は、自分ではつけることができない、

という心情を、ご主人は語られました。

これらの話は、彼を取材し続けたノンフィクションの書籍に、載っています。

 

そして最高裁の判決が出たあと、

ご主人は「普通の幸せ」を、再婚で、再び得ることを決意され、

マスコミ報道の前から、また、被害者の会の活動からも、姿を消されました。

 

このご主人に対して。

「そんなにもひどい経験を経たのだから、

再び、まともになることなんて、できるはずないし、そもそも求めるべきではない。

人は、そこから立ち直るべきではないのだ」

「忘れることなんてできないのだから、

このご主人も殺された母子のことを一生、考え、抱え込み、

傷ついたまま、苦しいまま、この先の人生を生きるしかないのに。

何をキレイごと、求めてるんだか。そんなの絶対、無理に決まってるのに」

「どんな事情があるにせよ、他人の死を願い、相手を殺そうとしたなんて、

それはまともな人間じゃないのだから、生きているベきではない」

等、を断言できるほどに思われる方は、それほどいないはず……と、私には思えます。

 

むしろ、そこまでつらかったからこそ、幸せになってほしい、

傷が消えることはないだろうけれど、

悲しみが完全にはなくなることはないけれど、それでも……

と感じられる方のほうが、多いだろうと。

 

そう。

そういう意味では『傷』は消えないし、

亡くなった命は、何がどうあろうと、取り戻しはできません。

このご主人も、二度と元の自分には、戻れない。

でも、だからこそ、新たに幸せになってほしい。

そう願うのではないでしょうか。

 

他者のことならそんなふうに、きっと、わかると思います。

自分が受け取った傷によって、完全には元の姿に戻れなくても、

それでもなお、人は、やり直す許可を自分に出していいのだ、

どんなに傷ついても、そこから立ち直っていいのだ、ということが。

 

今、あなたは傷ついて、その弱い自分を責めておられるでしょう。

このご主人も、そうでした。同じ視点で苦しみを味わわれました。

原因が違う? あなたは自分で自分を傷つけている?

このご主人も、自分の内側で、自分を罵倒されていました。

どうしようもない状態、に、自分のことを追い込まれました。

 

無記名で悪口を届けてくる人もいたそうです。

死刑反対説を持っている人からは非難され、

この犯人の減刑嘆願署名さえ、求められたそうです

(思い込みの正義感ってこわいですね。

実際に傷ついた他者の気持ちなんて、自分が果たしたい大義名分の前では

どうでもいいのですから)。

 

どうでしょうか。

このご主人が立ち直っていいのなら、

あなたもまた、立ち直っていいのだということは、

感じられないでしょうか。

 

たとえばあなたという人の一部分が、自分を傷つけた。

そして本当に、傷によって、痛んでいる、

『傷つけられている自分』もまた、

あなたの中の、別の部分には存在している。

その「別の部分のあなた」は、このご主人と同じように、

受けた傷で「痛んでいる」のです、間違いなく。

 

人は、たとえどんな経験をしても、立ち直っていい。

このご主人は、それが端的に現れた例の方なのだと、私には思えるのです。

 

本当はそんな傷など負いたくなかった。

傷ついた人なら、必ずそう思うでしょう。

傷のない、苦しみを知らなかった、キレイな自分を思い返し、

後悔にも、さいなまれることでしょう。

 

でも、その傷は、埋めていいのです、自分で。

確かに埋めたところで、完璧に元のような美しさには、なりません。

それでも、自分が埋めていいのです。

そういう埋め方をしたら「いけない」わけでも、

元のキレイさに「戻れない」なら、

『埋めなくても一緒』というわけでも、ありません。

 

とくに鬱の方なら、こんな最低な自分が生きていて、

動物や植物など、他の命をいただくこと自体、不謹慎に思えたりもするでしょう。

私も過去、確かにそうでした。

 

でもそれは、何億年も続いてきた、生物としての営みを、

狭い視野で観念的に、感覚的に、否定しているに過ぎませんし、

そこまでのキレイさだけを求めることは、今だからこそ、起こる視点なのです。

 

そしてまた、嫌なことが忘れられないから、劣っているわけではありません。

光市のご主人が「劣っている人」でないのと同じです。

 

それほど自分が苦しいのだ、ということを、卑下する必要もありません。

今、自分が苦しいのだ、という『事実』、そのことを、

今のあなたが認めてあげていないだけです。

 

苦しい今だからこそ、キレイさにも、またこだわってしまうのです。

何も傷のなかった過去の自分を記憶から引っ張り出してまで、

そこへ戻りたい、と、こだわってしまうのです。

 

ピュアな過去への羨望にこだわっても、未来は変わりません。

傷ついたあなたは、その傷によって、醜くなったわけではありません。

光市のご主人が、醜い人になったでしょうか?

傷によって、二度と見たくないようなところにまで

「成り下がった、変わり果てた」人だと、思えるでしょうか?

 

このご主人も、また。

生まれて初めて知る、自分の弱さに苦しんだからこそ、

それを越えていかれたことが、とてつもない意味を持つのです。

話を知った他者に、自動的に、勇気さえ与える。

とくに、今のあなた、人の痛みをより、感じられるようになっているあなたに、

そのことが理解できないはずはないだろうと思えます。

 

そしてね、あなたもまた、同じ、なのですよ。

卑下し続けていくのをやめ、自分を新しくしていく、

傷によって変わっても、それでも、生きてみていいのだ、という許可を、

あなた自身が、自分に出していいのです。

あなたなりの変化は『出したあと』に、生まれていくからです。

 

『出したあと』でないと、気づいていけないことが、たくさんたくさん、あります。

だからこそ、出してみていいのです、あなたの許可を。

出すことにより、あなたはそこから、学び始めます、ゆっくりと。

 

今はまだ、まったく何の根拠もないと思われるだろうけれど、

あなたは、自分に、

新たに生きていい、ということを、ゆるしてみてもいいのです。

 

その理由は、いずれ、わかります。

自分がどういう『傷の埋め方』をしたのか、

それによって何が生まれていくのか、あとから徐々に、気づいていくのです。

同時に、なぜ自分が自分を傷つけていたかも、

理解を得るチャンスを、自分で捉えられるようになります。

 

自己からであれ、他者からであれ。

傷つけられた人が、これからも、自分は生きていっていいのだ、という許可を、

自分に与えられること。

その「行為」そのものが、何か、誰かのの役に立つ日が来るのです。

 

どうか、そのことを、この先の人生で、知ってみてください。

今はまだ、何の根拠も、いらないでいいのだ、ということを、信じてみてください。

あなたが、あなたとして生まれ、今、生きている。

ただそれだけの理由で、思いとどまって、埋めてみて、いいのです。

どうか、必要な方に、届きますように。

あなたは、自然にお迎えが来るその日まで、生きていっていい存在です。

だからこそきっと、今、この記事を読んでいるのです。

 

残酷でしょうか。

残酷だと感じられたら、ゆるしてください。

でも、今、苦しんでおられるからこそ、

『先の可能性への力』を持っていることがわかるあなたに、

私が勝手ながら伝えたいので、書いてみました。

心をこめて、届けます。

長くなってごめんなさいね。

 

2015_03_29

Photo by menita
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