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追伸:「どうせ無理」が自分を、のちに他人を、痛めつける

先に書いた記事の内容につながる話。

友だちに教えてもらって、ある動画をシェアします。

 

無理だと思うから自分を痛めつけ、

他人を傷つけ、奪うしかなくなる。

 

そしてその無理、という言葉を言われたとき、

それを鵜呑みにして信じるほうを選ぶのも自分なのだ……。

 

人は自分に足りない部分があるからこそ、

助け合えるという気持ちも素晴らしい。

幸せは、あきらめないで、いい。

 

そう。誰かから、もらわなくてもだいじょうぶ。

幸せは自分で、自分から、見つけたり作り出せたり、するんだよ。

視点を変えていけば……そして、少しずつでも、やっていけば。

 

だからといって、体調等が悪いのに無茶するのは禁物だけれど、

否定でない方向の「だったらこうしてみれば?」を、

少しずつでも自分自身に対して、唱えていけますように。

 

いつか必ず、自分が、自分を救えるし、変えられる。

それをはっきり実感できる日が、

いろいろな方に、訪れますように。

 

植松電気 植松努さん TEDの動画(YouTube)
『思いは招く』

リンク先
http://youtu.be/gBumdOWWMhY

 

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自分自身を広げる、という柔軟さ

このやり方しか正しくなくてイヤ

それしか知らないし あるいは ほかはやりたくないの

 

うん わかる そういうこだわりってあるよね

 

でね そのとき一度考えてみてほしいのは

自分が楽しめるのって 本当に

「このやり方」しかないのかな ってこと

 

そしてそもそも「このやり方」自体を あなたは楽しんでるかな?

そうでなきゃいけない という ガチガチの価値観にただ縛られているだけで

ほかは見えなくなってる 見ないようにしている ってことはないかな

 

ひとり すごい人の例を 挙げてみるね

1952年生まれのおじさんで 原 丈人さんという人がいてさ

はら じょうじ さんって読むのだけど

 

この人は お父さんが大きな企業の役員にもなった方で

幼少期の育ち方は確かに「エリートなボンボン」っぽいけど

(慶応大法学部卒だし)

なぜか卒業後 考古学に目覚められ

20代半ばでエクアドルにてマヤ文明発掘の日々

そのときは年収60万円で でもバナナなどがそこら中に実っていたので

食べ物には困らず

別にそれもよかった 楽しかったのだそうだ

 

やがて彼は 自分で「発掘事業」自体をしたいと思い始め

そのために資金を集めなくちゃ と 思い立った

 

この人 ここからの発想がすごい

米国流のビジネスを学ぶため

いきなりスタンフォード大学経営学大学院

そのあと国連フェローを経て 同大学工学部大学院を修了

 

まあ 学費はさすがに実家の援助(か借金?)を受けただろうけれどね

どうやら 発掘してるときからもう

実家にはさほど頼っていなかったようにも見える

 

なぜに法学部のあとでこの方が 考古学をやったかはわからないけれど

経営学を学ぶなか 当時のスタンフォードには

アップル社を設立して成功し始めた頃の かの 

スティーブ・ジョブズがよく出入りしてて

そこで「ベンチャーキャピタル」(ベンチャー企業へ投資する手法)が

流行っているのを知り

資金を作るならこれだ と思われたらしい……

 

そのほかにも いろいろ気づいたことがあって

その実現のため 学生のうちに 国連の組織にも入ったりして

もう そこからは原さん 延々 ずっとこれ 

 

やりたいこと やるとよさそうなことに 気づく

→どうすれば達成できるか「だけ」を考える

→そのために 自分が動く

 

ひたすら これなの これ以外 やってない

しかもその動機は「面白そう」「手っ取り早そう」っていう方面ばっかりで

マイナス視点が 見当たらない

面倒だから こうやっちゃえ というのはあっても

それは実現のための「通り道」「手順」でしかなくて

そのほうが 早く うまく いいことが実現して

何より自分が楽しめるから という発想しか なさそうなのだ

 

こういう発想の人がビジネスの世界で ものすごく動き回れば

世界的に成功するような 実業家ができあがるのだろうけれど

そんなところまでいかなくても この発想 めちゃくちゃ応用できるよね

 

あきらめないこと

自分で動くこと

楽しめる範囲のなかから「新しいこと」でも やってみるということ

 

この3つは

すべてのことで 応用できそうに思うんだ

 

そのときに もっとも必要なポイントはただひとつ

「達成」は どうやったら可能になるか

その視点のみ 使うということ

 

その視点から 俯瞰したり 違う角度で

新しいやり方を 探し出して 本気で動くのだ

 

単純に言えば「あきらめない」

そしてなるべく視野を広げていき 自分をできるだけ柔軟にして

しかも 自分で やる ということだ

 

今までの価値観に囚われていたり

従来のやり方とか 恥 とか 無理 とか

そういうのにこだわって できないという発想のほうばかりを

自分で選択し続けているだけ そちらにしか目が向いていないときには

絶対に 見つけられない やり方や世界が あるということなのだ

 

常にあなたが 自分の視野を自分で選択しているのだから それならばもう

正しい 格好いい云々ではなく 楽しむ のほうを選ぶということ

新しさをも 楽しむ 

自分の前に 道がなく

自分のあとに 道ができる

それを本気で 楽しむ気持ちになる そういうことだと思う

 

怖い? 怖いよね 普通はまあ 怖いと 感じるかもしれない

そんな「新しいやり方」なんて 自分はまだ やったことないんだもの

 

だからこそ「楽しめる範囲で」ということが大切になる

何を楽しむのか ということが大切になる

 

でも本当に 視野を変えること

「旧式」に 「従来」に 囚われないことは

こんなにも人の発想や活動力を アップさせるのか

そのものすごく大きな 見本 となる方だと思うよ

 

大それた夢の実現だけでなく 日々のくらしのなかで

あなただって別に そうなっていいのだから

花にたとえるなら 毎日 毎瞬

どんな花になっても それがどんどん変わってもいいのだ

 

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朝顔でも

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ガーベラでも

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チューリップでもいいし

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椿になったり

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コスモスになって揺れてみるのもいい

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ときには紫陽花や

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藤のように 群れてみたり

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梅のように香ってみたり

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金木犀のような香りを漂わせるのもステキ

もちろん 目指したければ

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大輪のバラになって 香りも華やかさも両方 醸し出していいし

ほかの仲間とともに

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みんなで個性を称え合うのもアリだよね

 

自分を規定しないで

自分の枠を 決めないで

自分の可能性も 見捨てないで

広く 高く 柔軟に

見つめ直してもらえたら……

 

最後に ちょっと 昔のものだけれど

原丈人さんの記事 ご紹介しておくね

「ほぼ日刊イトイ新聞」の対談連載を 古い順から3本

連休の 時間のあるときに よかったら読んでみてください

自分を縛っているのが

誰よりもまず 自分であることが

伝わる人も いるかと思える

 

あなたがゆるやかに 新しく楽しめる生活を 

受け容れられる日がいつか 訪れますように

願いをこめて……

 

http://www.1101.com/hara/index.html

http://www.1101.com/hara/first/index.html

http://www.1101.com/hara/second/index.html

 

ちなみに写真の花たちは こちらからお借りしました

ぱくたそ

足成

 

他者比較の視点から生まれる「後悔」

この3週間はいろいろ バタバタしていて

その中でふと 空いた時間に 気づいたこと

 

大切な人も いずれ あるいは間もなく

この世の修行を終えて去っていくのだという

当たり前のことながら 切ない事実

 

自分の命を 捨てようとしていた私が

身近な人の命が消えゆくことを思い

いつか訪れるであろう その日のことを考え

涙を浮かべる

 

過去の恋人 家族 友人 仕事上の仲間

すでに病を得ている人もいて

それぞれが やがて順番に この世での学びを終え

肉体を離れ 故郷へ還っていく

 

そう感じる自分のことを振り返ってみれば 

私はあの31歳のとき

この道でなく 別の あの道を選んでいたら

鬱になることもなく 必死に生きて 働いていただろうか

あの道を選んだとした場合 今の状況を考えると

切羽詰まって働いていることだけは 確かだろうな……

 

いやいや でも昔の私なら 今よりもっともっと

おバカで硬くて視野が狭いままだから

それで あの道を選んでいたら

もっとずっと 追い詰められていて 傲慢で

さらにたいへんになって もっと早くに 鬱に陥ったかもしれない

 

そうしたら 泣く泣く実家に泣きついていったのかな

あり得ない選択肢と知りつつ どうしようもなくて

そうしたら 今 こうして

ブログを書いている私など 絶対に存在しなかった

 

きっと 知人たちが亡くなるよりもっと前に

大事な友達が事故死するより前に

まんまと壊れていたか 自分を追い詰めていたか……

 

うん マジでありえる話だな

カチカチの 力みまくり人間だったから

そういう はっきりとわかりやすい選択肢だけでも

遡って考えていけば 31歳 28歳 22歳 15歳のときに

それぞれあって

それらは本当に その後の人生がはっきり変わる

明確な分かれ道だった

 

そのときは 最善を選んだつもりでいて

でも まさか こうつながっていくとは……という

想像を超えてばかりの 道だった

 

それぞれのときに 人間として ときには女性として

選んできた道があって 今 ここに私がこんなふうにいる……

しかもまだ 生きられていて(笑)

それどころか 生かされている と思えている

 

それはなんて 不思議なことだろう

 

振り返ってみても あのとき それぞれを選んだこと

そこに「大後悔」は存在しない

鬱という病の罹患も あの性格の私なら

遅かれ早かれ だけだったような気もする

きっとどこかでボッキリ折れて 今のように

視野も視点も ガラッと変わらざるを得なくなっていただろう

 

要はそういう学び方を 私が自分に設定していただけだ

そうなるように 自分で自分を明らかに仕向けていった

 

でも 後悔しても「始まらない」ことだけは

なぜか以前から 知っていた気がするし

今なら もっとはっきりわかる

 

後悔という行為自体が そもそも

他者や自分に対する「ある種の点数稼ぎの意識」ゆえに

「できなかったと捉えた」部分の 残滓だということを

 

ものごとを美しく「仕上げ」たり 見事に「格好つけ」られなくて

上手に「見栄を張れない」自分を

許さないままでいるからこそ

そうやって延々 残滓にして引きずるのだ

 

なぜ 許しちゃいけないんだろうね?

そんな点数稼ぎ 本当に全然 いらなかったし

この先もまったく いらないのに

 

だって どんなふうに自分を規定して

どんなふうに生きたっていいのだから

7点の私も 3点の私も 80点のときも50点のときも

自分で自分のことを全部 肯定していいのだから

 

それを「許せない」と思う その(ごめんね)傲慢さを

あなたが大事にして手放さないから こそ

自分に過大な期待をかけたあげくに

過小評価する「のみ」にとどまる

 

うん ある意味 傲慢で卑屈なのだよ それ

 

どれだけ自分を 「いずれ」素晴らしく

「する」「なれる」と思っているのか つまりは

どれだけ 他人より優れ 他人に勝とうとしているのか

他者より立派

他者より上の立場になり

もしかしたら他者を見下しもしたいという

その点に おいてね

 

実は自分の人生って「他人と比較する」ものではないし

「誰かより優れた人」に「なれる」のでもなくて

本当は ただ単純に もともと 自分は素晴らしいんだけど

 

そっちの話は 完全無視 するんだよね

その視野 すごく偏ってるよね

両方とも 知ること できるのにね

 

だから まあ その苦い残滓のほうを大事にしまくって

後悔しつづけることを選ぶのも お好きにどうぞ なのだけれど

間違いなく それを選んでいるのは あなた自身だということは

知っていてもらえたらと思う

 

自分はそんなつもりはない

誰かに何かされたからなんだ というときであっても

誰かに何か「された」から ゆえではなく

「何かされたと捉える」ほうを

あなた自身が選んでいるのだ

(そう 以前の それを知らなかった私と同じようにね)

 

大きな選択 小さな選択 それぞれの結果で

あなたはなぜか「他者より立派」なほうを

願うかもしれないけれど

 

本当は 今日のあなたが 明日のあなたをつくる

毎日が その小さな一歩一歩の 積み重ね

なのに点数稼ぎの視点だけだと そこで見える「幸せ」の形は

とても限定的で偏っているから

それを一気に または いずれドカンと

はっきり捕まえられる なんてことは

本当に「すごいラッキー」であって

宝くじで3億当たれば……と同じくらいに

夢想 に 近いのかもしれない

 

「得る」んじゃない 「ああなったら得られる」んじゃない

すでに「そう」だったものを わかりやすく膨らませるだけなのだ

 

だからこそ日々の自分を 他者とも 過去の自分とも

頭の中だけにある 理想の自分とも「比較せずにまず肯定する」ことが

よい方向へ進む近道の 必須条件になりうるのだ

 

でもまあ そこをガン無視したければ 遠回りになりそうだけれど

がんばってみて と私は言う

それもまた あなたの選択であり あなたの学び方だからね

 

「こうなりさえすれば」の願いを見つめ

今のよさや ありがたさを無視するほうの視野を

あなたが 選び続けていくということだ

 

私も以前 思い切りそれをやっていた

そして私は 鬱になってでも こう変われてよかったと思っている

昔も昔で別にね 実は あれで自分にとってはよかったわけだし

(カチカチのおバカさんだった自分に笑える)

今もどこかに 硬さはきっと 残ってるだろう

 

でもこれからの人生は

できるだけ 楽しむこと「のみ」に注目していきたい

苦さ 苦しささえも「自分で笑えちゃう楽しみ」に変える

 

そうやって味わいながら もっともっと

自分を好きになることを 学んでいきたい

 

もちろんときには 泣くだろうし怒るだろう

でも そのときどきの自分を「愛しむ」方向 そっちを見つめていく

それで いいのだと 今は本気で思える

だから「比較」とか「後悔」という文字は

もう 私の辞書にはいらないのだ

 

みんな それぞれ 違ってて 私もみんなも すごい からさ

ま 他者比較のほうは すでに死にたくなるほど してみたことだしね(^^;)ゞ

 

そうやって 生きていきたい これからも……

 

2014_10_26