木元見春 のすべての投稿

自分が、つらいからこそ

自分がつらいからこそ。

誰かを、憎むのをやめる。

誰かを、恨むのをやめる。

怒り続けることを、やめる。

相手を非難し続けることを、やめる。

 

自分のほうが正しいのに、と、相手を責めること自体を、やめる。

 

誰かを、黒い気持ちで、見続ければ見続けるほど、

あなたの心のなかに、「黒い滓(おり)」のようなものが、溜まって行く。

傷ついた経験を持つ、ゆえに人の痛みもわかる、心の優しい人はね、

その「黒い滓」を持つこと自体がもう、苦しいの。

自分が黒い気持ちを持つこと自体が、つらくなるの。

 

そしてやがて、そんな自分を、嫌うようになる。

このままの状態を続けても仕方ないのに、と、自分を責めるようになる。

必ず、そうやって、自分の「黒さ」を自分で責め、自分を傷つける。

 

だからこそ。

黒い心を、溜まった滓を、自分のために、手放そうよ。

 

正しいか、正しくないか。

その視点で他者を判断すること自体を、

その相手に対しては、やめればいい。

 

あなたとその人は「違い」があるだけだと。

そして、相手の問題を、自分が代わりに解決しなくては「いけない」わけではない、と。

私は私の感じることを大切にするけれど、

相手にも、実は、その権利があるのだと。

 

「正しいかどうか」に囚われて、相手を憎むと、

憎んでいる自分、というその状態もまた、正しいかどうか、

迷わなくちゃいけなくなるよ。

 

その相手と自分の感性は「違う」のだから、

できることなら、その「違い」が苦しいのだから、離れればいい。

 

でも、すぐには距離を置けないのなら、

自分のために、どうか「正悪」の判断を、やめてほしいと願う。

 

黒い滓からは憎しみしか生まれず、憎しみは、自分を痛めつけるから。

あなたの価値観が、毎回「絶対に正しい」わけでも、ないときがあるから。

ほかの人は、ほかの受け止め方も、もしかしたら、するかもしれないから……。

 

自分のために、あるいは大切にしたい誰かとのご縁のために、

自分の受け止め方を「正悪という囚われ」から離し、捉え方を変えていくことで、

その黒い滓をうまく手放せますように。

 

2014_09_09_susuki

 

 

勝ってもいないし負けてもいない、の「空から目線」 ~後編~

◎前編はこちら

 ↓
勝ってもいないし負けてもいない、の「空から目線」 ~前編~

 

「上下」で他者との関係を見始めると、

なにより自分が「下になったとき」が苦しい。

すっと忘れられるような「下になった経験」であればいいけれど、

そうでなければときに、自分のなかで蓄積を始め、

やがてはひがんだり、卑屈になったりもしてしまうだろう。

そして「自分に対する自信のなさ」を、結局、

自分自身で植えつけてしまうことになるかもしれないのだ。

 

たとえば親から否定されまくり、自信がなくなって、苦しんだら。

その後、「自分は自分でいいんだ」と思えるようになるまで、

すごく時間がかかる人だっているよね。

でも、親の「上下」的視点を刷り込まれているんだ」と

気づければ、やがて自分自身で苦しみを解放していくこともできる。

 

ということは自分がふだんから、他人に「上下」の視点を

使ったり、相手に刷り込んだりはしないほうが、よくないかな?

そんな判断基準で自分や他者を見る「練習」ばっかり積んでも、

勝ったときさえ「次に負けたらどうしよう」というおびえが絶対発生して、

そうならないためには「勝ち続けなきゃ」いけなくなって、苦しいかもよ。

 

で、さらに言えば、その「勝ち続け」、どこまで発展させるのかな。

 

もちろん、それを楽しめるときや、相手側がそれでゴリ押ししてきたとき、

駆け引き手段として、ときには「何じゃこら!」と(あ、野蛮ですね、すみません)

戦っていいと思うけど。それはあくまで「手法のひとつ」であると

わかっているかどうかって、自分を苦しめないためにはすごく大切ではと思う。

 

そんな駆け引きとして自分が強く出る場合、の視点について

有名ブロガーのワタナベ薫さんの記事があったので

参考までに載せておく。もちろんこれは、

あくまで自分を大切にして、立ち位置も意識しよう、って話で

ずっと「上下」で人を判断して勝ち続けろ、ってことじゃないよ。

 

◎ワタナベ薫さん
『バランスの法則【人間関係編】~バカにされやすい人へ~』
http://ameblo.jp/wjproducts1/entry-11920160781.html

 

あと、これも参考になるかも。もうひとつ、別のブロガーさんの記事。

◎小田真嘉さん
『放置して、関係が深まることはない 2737』
http://ameblo.jp/odamasayoshi/entry-11920644959.html

 

もし、世界でももっとも究極な「上下」視点の例を挙げるとすれば。

現在、各国における陰謀説がささやかれている(笑)、

財閥系のロスチャイルド一族や、ロックフェラー一族かな。

 

ロックフェラーさんちの、とある人物なんて

嬉々として、自分たちがいかに世界を牛耳っているかを、

ある映画監督に語ったという話も、ネットで拡散している。

その映画監督は病で亡くなったのだけれど、実は暗殺だよ、とか。

 

その監督の話(監督のインタビュー動画を観た……)によると、

なんでもロックフェラーさんたちが、あの9.11を計画・演出したとか、

世界人口の管理や世界中の人たちを家畜化する計画のために現在、

医薬品や遺伝子組み換え食品を世界中にばら撒いたり、

家族意識崩壊、子どもを公的機関で洗脳するために、

米国女性の、社会進出のための活動(ウーマン・リブ)に

資金を提供したらしいよヽ(;´ω`)ノ まあ大変。

 

そもそも、そんなふうに自分たちの影響力を世界中に及ぼし、

自分たちがもっと、ずっと、安定して稼げるように、という野望を持つ段階で、

すごく苦しくなるよね……。その裏には必ず、

脚を引っ張られたらどうしよう、ずっと大金持ちでいたいのに、という

おびえが隠れていて。で、自分でもそれをごまかすため、

世界中の人たちを一生、見下げたつもりになって、馬鹿にして、

いろいろ画策しまくりながら生きていかなきゃいけないなんて……。

その目的が全部、金と支配。お金しか信用できなくなるだろう、実際。

もちろん敵もいっぱいだろうから、一生、

まだ上になれない、と怒ったり、怯えたり。

すごい「上下」ゲーム、人生まるごと「上下」ゲームだよね。

 

しかもだよ、上の話がもし本当なら、

その苗字を持って生まれた瞬間からもう、人生「上下」ゲームに

巻き込まれることが決まってるんだよ、この人たち。

親も兄弟もおじさんもおばさんもいとこも、

みんな、きっとゲームの中にいる。

近づいてくる人は結局、自分の金目当てなんじゃないかと疑ったり、

暗殺話が本当なら気にいらない人を「殺せ」とか、指示していかなくちゃいけない。

一族のお金と地位を守るために、

死ぬまで他者への疑心暗鬼を捨てきれない定め。

……キッツイなあ、それ。心がすさみまくる一生だよね。

私は絶対、そんな視点でそんな人生、送りたくない……。

 

すみません、ちょっと社会問題裏話みたいで、過激にもなったけれど。

このような例で、多少は、「上下」視点によるゲームのつまらなさも、

わかっていただけただろうか。上か下か、で戦うよりは、

あなたと私は違うってわけね、じゃあ、どうしようか、一緒に考えようよ、

という視点のほうを基本にしたほうが、よほど心が安定するし、

人生を楽しめて、ラクだと思える。

 

そもそも私たちはみんな、同じ「地球上」に、

一緒に立っているのだ、生物学的には。

その立ち位置って、上から見たら、こんなの。

空から日本を見てごらんよ。居住可能な地域も狭いよ(笑)

2014_09_07_2_nippon

Photo by goo map
http://map.goo.ne.jp/

 

し、か、も。

立っているように思えて、実は地球さんに「立たせてもらっている」。

日本って赤い三角のところ、こんな位置にあるから、

間違いなく全員、斜め立ち。地球が引っ張ってくれているから

立っていられるけど。

これで見ると、上下なんてもはや意味がなくなる。

この写真で言えば、地上で上になったら、

実は右斜め上にずれているだけ。風船みたいだね(笑)

2014_09_07_3_earth

Photo by Saad Faruque (ID: 201310091600)
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0
http://free-photos.gatag.net/

 

ということで。

もしこの先、うっかりゲーム思考になって勝ち負けで判断し、

自分が「下」だと思って卑屈になりそうなときや、

逆に「上」だと思って鼻高々になったときには、

どうぞ、この写真を思い出してほしい。

私たちは地上に並んで立っていて、

しかも地球のおかげで、立っていられるのだと。

 

最後に、どうでもいいけど(笑)マザーグース的な言葉遊び。

先祖がドイツから出てきたというロスチャイルドさんは、

苗字の意味が「赤の(rotはドイツ語で赤)子ども(チャイルド)」。

赤色って、人間にとってはそもそも、性欲や食欲を刺激する色。

→食欲や性欲を刺激する子ども

→つまりは、欲の子?

 

ロックフェラーさんなんて、スペルからしてもう、

そのまんま完全に「岩壁から落ちる人」。

世界の頂点に立ちたいのに、その岩壁を踏破できない定め?(笑)

 

いやぁ……暗躍してるとすれば、言霊的にも

もしかしたら、すごい定めの一族かもね。

何が大事かを世界の人たちに気づかせる、悪役として生まれる代わりに、

お金だけはあげるよ、とでも約束されているとか? うひょー(´Д`;)

でも彼らがそれぞれ目指している(かも、な?)世界は

「自分たちが優雅に管理・搾取できる社会主義世界」なわけで、

はい、社会主義も、イメージは赤だよ……ぶるぶる(((( ;°Д°))))

 

 

勝ってもいないし負けてもいない、の「空から目線」~前編~

私たちは子どものころから、教育の面で必ず「勝ち負け」という価値観に遭遇し、

実際にそのゲームをさせられ、大人になっても経験する。

運動等も含まれる競争、学力、進学、入社、

出世、金銭の差、地位、名誉……etc.

 

それで実力をはかるのはいいことだよ、と教えられ、

勝ち、負けが基本価値の一部となり、やがては「正義と悪」なども学ぶ。

で、自分と違う感覚、価値観の人を「自分より上」「自分より下」とか

いうふうにも見始めたりする。

それを性格面でも当てはめて、「上下の差」として見るようになったり。

 

でも、じゃあ本当に、実際のところはどうなんだろうね。

簡単な例で言ってみよう。

たとえば競争が当たり前の、運動。

甲子園へ出て、優勝できたら、すごいよね。

でもそのためには、本人が野球の練習に明け暮れ、

努力をしなければならない。子どものころからそれを始める人もたくさんいる。

 

では、去年の優勝者チームと、今年の優勝者チームは

どっちが「エライ」、上なんだろう。

そんなのは、判断できないよね? 年度が違えば実力も変わるし。

 

そもそも、野球に明け暮れるためには、応援する親御さん等の「環境」、

他者の協力も必要で、それに恵まれた人たちが甲子園を目指せる。

その競争に入れるかどうかもすでに、優劣、上下かな。

そもそも応援ができる親御さんがエラくて、他人より優れているのかな。

子どもが野球に興味がない、という親御さんとは、

どっちが優れているかな。

 

……ね、こう考えると、勝ち負け云々より自分が何をもって、自分をどう表現するか、の

違いだよ、っていう部分が、実はけっこう大きいのです。

何を好きだと感じ、楽しいと思い、何を目指そうと思うか。

単純に向き、不向きもそりゃあるけれど、それは個性の違い。

個性が「向いていなければ」目指してはいけない、ってわけでもないのに、

「たまたま向いてる人」が、自分や子どもが上手にできれば、

他者を「見下す権利ができる」と思うのもまた、勘違いだよね。

確かに遺伝子が「その方面で向いてた」かもしれないけれど、

他の面では「向いてない」かもしれない。

じゃあ他の面で見るときは自分が「劣ってる」と決めるのだろうか?

 

そこにあるのは「違い」であって、「上下」ではないのに。

同じ条件上の競争の場合は「上下」という結果がたまたま、伴うだけで、

その競争って、つまりはそのときの「ゲーム」的なものでしかない。

 

ということは、そのときのゲームで「上下」がたまたま

決まったからといって、その人が「人間的に優れている」わけでもない。

競争の世界であっても、たとえばイチロー選手のように

「自分で補う必要がある部分」をしっかり見極め、

家族も協力できる環境にあって、そのうえで本人がすごい努力をして

大リーガーにまで行った、そのときも、

その世界でがんばった、すごい人の『一人』になるわけで。

 

確かにその「がんばり」に対して、賞賛等の評価や給与は伴うけれど、

恵まれていたから、という部分は、絶対にその過程にはある。

それってイチロー個人が何かして、その環境を最初から設けたわけじゃない。

親が野球を許した、それが始まりで「上下」ではない、ただの「違い」だ。

 

でも彼を「上の人」、と見て、自分を卑屈に感じる人だっているかもしれない。

彼は「自分自身と実際に戦っている」だけで、

きっと他者の存在は「学びの参考」。なのに、周りは、

あいつはでも、あの部分が云々、批判者気取りになってみたり。

イチロー選手は別に、何かたくらんで他人を蹴落としたわけでもないのにね。

他者から勝手に「すごく上」に見られて、妬まれて、

批判されちゃったりもするのだ。

 

ふだんから気をつけないと、私たちはこんなふうに、

すぐにこうしたゲーム的視野に陥る。

あの人が間違っていると感じるのは、

あなたが「正しく」て「上」で「優れている」からでなく、

あなたと相手の感性や、ものの考え方が「違う」という話だ。

なのに「上下」という視点でものごとを捉え始めると、

すぐに「正しい」「間違っている」「正義」「悪」という評価にまで発展し、

そこに囚われ、自分と違う考えの人を排除したくなったり、

あるいは自分のほうになんとしても合致させようと説明をし始める。

 

うん。違いについてお互いがすり合わせることはできても、

相手の価値観を排除するのは、なんかおかしくない?

あなたはそんなにも「上」なわけ? って話。

 

もちろん、すり合わせに応じない人はいるだろう。

大勢の人からは認めてもらえない感覚を持っている人もいる。

さらには、相手のほうが「上下」に囚われて、

いろいろ説教を垂れ始めるかもしれない。

 

でも相手が「上下」に縛られているからといって、

あなたもまた「上下」に縛られなければいけないわけではない。

「上下」の視点は取り入れず、他の方法も、使っていい。

 

その、「上下」視点に縛られた人に対し、

自分が同じように「上下」視点で戦ったら、

かえってうまくいかないことも、多いんじゃないかな、と思える。

もしそれが家族であっても、「上下」、正しいと間違い、正義と悪ではなく、

「すり合わせをどこまであきらめないか」、っていう視点で

見ればいいのじゃないかと思えるのだ。

 

これは、そもそもいったいどこまで、

自分の「影響力」を広げたつもりになって

「自己満足」したいのだろうか、という話でもあるように感じる。

そんな視点で家族や友人等、周りに存在する他者と関わるよりは、

他者と一緒に、つまり対等に、交流を楽しんだほうが、

よっぽど人生、充実すると思えるのだけれど、それこそ「違う」のかな?

 

これは別に、単に「競争を下りろ」とかいう話でもない。

お互いが分かり合って競争を「楽しめる」ときにだけその視点を使い、

そうでなくて「争い」の場面では、自分が意識して

競争という視点の「つまらなさ」のほうにも

気を配ればいいのじゃないかな、と、私には思えるのだ。

そうすれば少なくとも自分は、その争いで「上下」視点だけに

囚われずに済む。他者と自分の違いをより冷静に見られて、

変な意地を張るはめになる……などの窮地には、

追い込まれずに済むんじゃないかと思えるのだ。

 

~次につづく~

 

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