木元見春 のすべての投稿

「自分内」大掃除、かも?

ここ数年来、私のなかに抱えていた、モヤモヤな感情があった。

それは自分だけのことではなかったし、

その「モヤモヤ」を解決するには、あることと向き合わねばならず。

向き合うと、自分がついうっかり、ある地雷を踏むかもしれなくて、

それもまた、ちょっと面倒に思ってた。

その地雷というのは「私も一部、内面に持ってるかもしれないけれど、

表面上ははっきり、私の問題ではないと言い切れる」

ようなこと(抽象的ですみません)。

要は、問題そのものは、まあ、放っておいてもいいや、と

思えるようなことだったのだ。直接的には私の問題ではないから。

で、その「モヤモヤ」が表れる事態になることも、

極力避けていいやー、私だって人間だしね、と。

そう、思ってきたのに。

ここしばらくの間で急激に、まあ、それも見事に、その「モヤモヤ」と

もう1回、向き合ってごらん、な状況へと「連れていかれた」。

本当に「仕組まれたとしか思えない」ような見事さ。

かつ、その問題の本質自体は、

数年前と大して変わってないんだな、ということを、

苦笑しながら「事前に確認」できるような出来事まで起こって。

また、その苦笑する出来事がね、まず一瞬、あっけに取られて、

そのあと爆笑できるような形で、私のもとに到来したのだ。

こりゃあ、あまりの「仕組まれ」っぷりだわ~、としか思えない

その出来事に、私はずっと、思い出してはニヤニヤする状態。

見事すぎる、っていうか、ここまでいくとある意味、楽しいかも。

しかも、それに私が実際、向き合う日にね。

私の信頼する人たちが複数、ホントすごい偶然で、

一緒にいてくれることに「勝手になってしまった」のだ。

で、みんなに事情を共有してもらって、すでに今、

私はニヤニヤできていて(笑)、

みんなから「だいじょうぶ、がんばれ」って、言ってもらえている。

自分のその「モヤモヤ」した感情に、もうちゃんと向き合えるよ、って。

何の話かさっぱりわからなくて、ごめんなさいね。

私が抱えてきた、その「モヤモヤ」は、

私の中では「けっこう苦いし、黒い」と思える種類のもので、

本当は私、そんなふうに抱えたままではいたくなかったけど、

あまりに面倒だから、感情ごと、放置していたのですよ。

で、それに向き合って、整理あるいは割り切りをしておいで、

という機会を、まんまと「作られた」ように、感じているわけです。

しかもそのための「準備段階」ですでに、私が爆笑しつつ、

かつ「逃げないで済むように」、仕組まれている、って。

なので、はい、逃げずに、向き合ってこようと思います。

すべての事情を知っている、すごい力強い仲間たちも、

私のそばで、そのとき、直に見守ってくれるので。

……なんか、自分の内面の、イヤだと思ってきた感情、思い、思考、

そういうものたちを大掃除することが、

先月辺りからもろもろ、始まっている気がする……。不思議。

じゃあ次は、何をすることになるのかな、などと思いつつ、

とりあえず先に、自分内部の「無駄なもの」で埋めてた部分を、

まず掃除して、空けてきます。

もうその「モヤモヤ」してきた感情や思いは、私にとって

ただのガラクタだから、とっとと片付けていいよ、って

言われてるんだと思える。

はい、最後まで抽象ですが、どうかおゆるしください。

目標は「自分がいちいち、感情的に引っかからないで、

その問題が通り過ぎていくのを、ただ眺める」ようになれること。

少なくとも、その練習をしに行くのだと思える。

ある意味、ニヤニヤしながら、でもドキドキして、

ちょっと重たくも感じながら(複雑だなあ……)、向き合ってきます。

……よくできてるなあ……、ホント(^o^;)

 

私が笑顔になれて、あなたも笑顔になれて

自分が、笑顔になれる範囲のことで

(それが必ず、自分の目的のひとつであって)、

そのなかで、相手に何か役立ち、あるいは何かが届き、

相手もまた笑顔になれるようなことを、やってみる。

それが安堵の微笑にせよ、喜びの破顔にせよ。

その気持ちが通じたとき、人は、

静かで、でも心温まる確かな喜びを、感じられるのだと思う。

自分だけが、笑顔になれることを探すのではなく。

相手だけをなんとか笑顔にしようと、自分の感情や思いを殺すのでもなく。

私が微笑を浮かべられる、それが可能なことのなかから、

あなたも微笑を浮かべられるようになること、見つけてみるね。

仕事であれ、家族であれ、友人であれ……。

そういうふうに、そこを一所懸命、探せばよいんだな、と思う。

自分にも相手にも、正直になる、ということ。

自分を決して、決してだまさないということ。

力みすぎない、ということ(それをすると必ず反動が来る)。

そして相手を、自分の踏み台にもしない、ということ。

そういうものをこれからは、なんだか目指したいな、と、

いろいろな方のブログを読んで、思った。

最近また、読みたいと思えるブログやメルマガがいくつか増えたのだ。

今回の話は、これまで読ませていただいている方に加え、

それらからもヒントをいただけた。

購読時間を考え、なんだかスマホの使い方も効率的になってきたよ(笑)

決して超有名人ではない、いわゆる市井の人たちの、

よい想いや感情、気持ち、ものごとの捉え方。

それを自分が読みたいときに、

その方の言葉で伝えてもらえる……。

ステキな時代になったなあ。感謝m(_ _ )m☆

 

認めて欲しいんだよ、っていう気持ちは……

いろいろな形で、現れるのだな、と思う。

自己憐憫(れんびん)、他者への過剰関与、支配、

自己攻撃、他者攻撃、慰めの訴求、憂さ晴らし、恨み返し、……etc.

表面的に「私は あなたより 優れている」とか

「私は 他人より不幸だ」という思いが

「心のなかに現れる」ことがある、それはまあ、

人間関係のうえで、ときに起こりうることだと思う。

ただ、それを「実際に示し、他者に証明していこうとする段階」にまで至ると、

それは、他人との比較でしか自分を認められないんだ、

自分のことを本当は自分で嫌っているんだ、ってことを、

実は周囲に行動で表明していることになる。

競技などのある条件は除くとして、それ以外で

他者との比較というその感情を、具体的に表そうとするとき、

弱さ(不幸)を示そうが、強さ(能力)を示そうが、

それは「自分を認めていない」ことを態度に出しているという

同じ根っこへとつながっていくのだ。

そして、そこを何も解決しないままで放置し続けるのは、本当に苦しい。

なぜなら誰も、あなたの「代わり」に、

まるであなた自身であるかのように、

あなたを認めてあげることはできないから。

他者は、あなたに、真摯な思いから「素晴らしい」とは伝えられる。

本当に共感したうえで「たいへんなんですね」という言葉も使うことができる。

でも、誰かがあなた自身の代わりになろうとすれば、

それは「依存」にしかつながらない。

そして「依存」は、するほうも、されるほうもやがて苦しくなり、

結局いずれ、関係性が破綻するか、何かが壊れてしまう。

本人が気づかなくても、体調に現れたり、ね。

前にも書いたことがあるが、依存が起こっている関係において、

「常に私のことを認めろ」と言われ続け、それに従ってきた人の耳が、

数十年後、いきなり難聴になっていってしまった事例を、

私は2度、目の当たりにしたことがある。

どちらもまず、その強要する相手が「並んで歩くときにいる側」の

耳から難聴が始まり、いったんその症状が現れ始めたら

あっという間に加速して、やがて反対側の耳にも、影響が出始めた。

で、お二人ともそれぞれ医師から「ストレス」と診断され、

また、見事にお二人とも、強要し続けてきた相手側から

「私のせいだって医者が言うけど、なんだそれ?

そんなヘンな診断下すなんて」などと言われていた。

お二人ともそのとき、うつむいて黙っておられた。

こんな事例を2回も見たくなかったけれどね……。

たまたま、プライベートと仕事上の関係で2人、知ってしまい、

ああ、身体で拒否を始めてしまったんだな……と、思えた。

そんなふうにね、何か、ずれていってしまうのだ。

そして、自分の子どもに対しての場合は、

「頼る形」、「あるいは支配する形」のどちらであっても、

その関係を最初に「強要する」のは、

大人の側からになることが多いだろうと思える……。

そうしたことを知った私は、

だからこそもう、依存につながるかもしれない

「かわいそうごっこ」には応じられない。

たとえそれが身内であっても「できない」のだ。

求められたとしても、相手の代わりになって認めてあげられない。

相手との関係性がどんなに深くても、それゆえに

真摯にお詫びすることはあっても、

できない、と、はっきり伝えるだろう。

もし、それを自分が示していることに気づいたら、

そのときどうか、他者を「鏡」に使ってほしい。

なぜ自分がそれをそんなふうに示したいと感じるのか、

そのとき他者に、何を求めているのか、その「根っこ」をみる勇気を

いつか持ってほしいと、心から願う。

他者への「表明」は結局、自分をさらに深く傷つけることになる。

そして自分を自分で認められないという思いは、

これまででいちばん苦しいことだったと、

とてつもなく強いおびえにつながる苦しみであったと、

今の私には、思えているから。

他者や立場など外付けの条件による「納得」ではなく

「内側から起こる」思い、

誰もが内側で、すでに持っている

「自分はどんなときも、自分をそのまま、何の理由もなく認めていいのだ」

という思いに、いつか、気づかれますように……。