木元見春 のすべての投稿

生まれて初めてかも、な……鳥肌の立ち方

このところ、自分のなかに潜んでいた怒りの記憶のようなもの、が

急に思い出されて、おお、なんじゃこれ、と、

いろいろ探ることが、ある意味勝手に始まっているのですが。

今回はその続きではないかと思われる、

初めての「鳥肌が立つ拒否感」が現れたので

ちょっと、それについて書いてみたくなりました。

とある方の、とある、受け止め方。

その方はいつも、自分の感じたことを文章で示してくれます。

以前から「うーん、自分イジメだな」と、

私には何度か思えていたのですが。

今回、はっきりと、あまりの不可解さに、

「え? 何、それ?」と感じ、

その瞬間、鳥肌が立ったのです。

今までにも、私は

「日本語が通じないんじゃないかな、この人?」

と、つい疑問を感じてしまうような人に、

仕事でもプライベートでも遭遇した経験はあり、

そのときは怒りと同時に、あきらめの気持ちも立ち上がって、

ああ、そうか、そう捉えるのね、という割り切りにもつながったので

やがて、怒るのももったいなく感じ、最終的には

「残念」

で済んでいたのです。

今回はその方の「発信した文章」を読んだので、

自分が直接、相手と向き合ってやり取りしたわけではない分、

相手の気持ちを「横から眺めて」いたのかもしれません。

そんなふうに少し距離を置いていたから、でしょうか。

「その文章の、その表現から、私に伝わってきた

その方ご自身の、ものごとの捉え方」

に、ザワッと、鳥肌が立ってしまったのです。

それは、ある人間関係についての文章で、

その方はそこで、ご自身の考えを述べておられていて。

それを読んで、私が受け止めた感覚。

「つまりあなたが求めているのは、

『奴隷』のように自分に従ってすべて受け入れてくれ、

かつ、童話の『王子様』あるいは『優しいお母様』のように

自分の思い通りに、すべての希望を叶えてくれそうな人ですか?」

というものでした。

もちろん、本当のところがどうなのか、

確認をご本人に取ったわけではないので、

あくまで私が受け止めた感覚、でしかないのですが。

そして、かなり極端な受け止め方であると、すぐに自覚もしたのですが。

でも、その方のいくつかの日記的な文章を、

日々、読んでいくうちにある日訪れた、

まるで「ピークに達したか」のような、鳥肌でした。

これまでの私は、その方に対し、

なぜ、そんなふうに自分をいじめて苦しんでいるのに

そこを見ないままで、表面的な解決策ばっかり望むのだろう、と

日々、感じてきていたのです。

で、ある日のその方の文章で、解決策についてご本人が

「つまりは全部、人にやらせ、自分は絶対的な命令をするのみ、

それを本気で希望している」という、まるで独裁者のような

意見を述べられたかのように感じ……。

なのでそのときの「鳥肌」はたぶん、

生理的な嫌悪感と、根本的な恐怖心、だったのだと思います。

そういうものを感じたこと自体、自分に驚きました。

それはもう「あまりにねじれ過ぎていて、近づくの無理」という

感覚だったからです。

ずいぶん昔、その方からご相談……というか愚痴を、

知人のひとりとして受け止める機会があり、

その際「自分いじめ」について、

そうなってないかしら? と、お尋ねしたこともあって。

そのころには、このような「ねじれ」を、

いつか自分が感じることまでは想像していませんでした。

なるほど、そう受け止めるのね、という、ある種の想像はできました。

が、今回、鳥肌を感じたときには、

そうした想像、ができなかった。

なぜそうなるのか、そこへいきつくのかが、こちらに不明で。

まあ、それはその方が、説明を省いただけかもしれませんが、

とにかく、鳥肌が立ち、立ったことに自分が驚き、

そこで、気づいたのです。

「怒りさえ湧かない『拒否』感、というものもあるのだ」と。

私はあっさりと「なぜ」と思うことすら放棄して、

わかりあえなさ、を肌で感じ、

「薄い、でも確実に、恐怖と思えるもの」のほうへ気持ちがいったのだと。

これ、こうして文章に書くと「説明」とか「分析」っぽくなりますが、

ぶっちゃけ、一瞬の直感、感覚でした。

ダメだ、この方、もはや怖い。

そういう感じ。

過去の怒りの記憶にせよ、今回の不可解さにせよ、

私はもともと「そういうふうに捉える」こと自体を悔しい、と感じます。

つまり苦手、な種類の意識です、たぶん。

要は「なぜそう思うのかを知りたい」と、あきらめられない、

負けん気の強い人間なのかもしれませんが……。

それがここ数日で、過去の記憶も含め、

こうしてもろもろと、湧いて出てきている……。

これについては、自分でも不思議さを感じます。

でも、まあ、それはそれで、いいのだと。

結局は、怒りを感じる自分が「何を大事にしている」のか、

捉え直す機会にはなっているし、

先日、サブブログのほうで書いた「多様性」の観点でいえば、

私がこりゃもう、触れられないわ、と感じるほど、

自分とは「違う人」も、別にいて「いい」わけです。

そう感じる自分もまた、いて「いい」。

そこで私が、接触しなければいいだけのこと。

冷たいのかもしれないけれど、鳥肌が立つほど無理なものは、

はい、とりあえず今、かもしれませんが、近づくの無理です。

ご縁がもしこの先にもあるのなら、また何か起こるかも

(そして学びを受け取るかも)しれませんが、

私としてはいったん、ここでちゃんと距離を置きます。

なぜか、そんなことをたくさん感じ、見つめている今日この頃です。

書道家の武田双雲さんが、本日のブログで

「なんであの人はわかってくれないの」について

格言を述べておられるので、それをご紹介しつつ……。

自分が感じたことについては、ほぼ体験談のみで、

今回は終わらせていただきますm(_ _ )m

たまにはこういう「吐露」もありということで、

お許しくださいませ。

◎武田双雲「書の力」

「なんでわかってくれないの?」という時

そう思わないとやってられませんわ、と

私は低血圧に陥った以降、よくそう思うようになりました

(感覚に慣れるまでがホント、なかなかつらかったので)。

そうしたら、

そう思わないとやっていられない

→そう思うことを選んでいい

→なんだ それでいいのか

→じゃあ そう思うことにしよう、少なくとも血管の負担は減った

→その部分では以前、上が130あったんだから、ラッキーじゃん♪

と、「なんだかよいこと」に変わりました。

で、「そうか、そこだけ見て『も』いいんだわ」と。

ある意味、体感したのです。

だってね、「生活上つらいこと」を数えはじめると、きりがないのです。

立ちくらみはひどいわ、頻脈、頻拍はしょっちゅうだわ、

鉄分ちょっとでも不足したら朝は「起き上がる」のさえきついわ。

仕事でも身体キツく感じるし、ときにしゃがんで、迷惑やら心配やらかけるし。

ある夏、一気に降圧、だったからこそ、そういう感覚が強かった。

そのとき、そっちのイヤな方面で、

つらさや心配や不安を究極まで働かせるならば、

たとえば私の場合、血圧70~80のままだとどうなるか。

立ちくらんだときに、

いつか階段から転げ落ちるかもしれないし、

駅のホームから転落するかもしれないし、

おばあさんになって道路でしゃがみこんだら

車を運転してて私をはねた人なんか、

ものすごい迷惑をこうむるよ?

そうでなくても頻脈・頻拍がこのまま続けば

心臓が早くダメになって早死にするかもだし

ジョギング系の激しい運動は心臓異常を引き起こすと言われたし

朝はゆっくり以外、動きようがないし

も、すでに老人かよ?

って受け止め方も「できた」わけです。

そっちでも「いけた」し、

それはそれで「ものすごく気をつける」習慣が生まれたかも。

でも、そう思って生きていったって、別に楽しくなかったのです。

しかも、他のことにもどんどん波及して、

いろいろ楽しめなくなりそうだったもの。

なので、悪い方面を数え上げて、わざわざ自分で

イヤな気分を盛り上げつつ、一生を過ごすのはやめよう、と。

いい部分を「ギフト」として、そう捉えることにして、

そっちのほうをたくさん受け取ろうって。

そうしたら、3年後くらいから、だんだん平均血圧が

上がるようになって(といっても、途中からもう、

気にならなくなって血圧のチェック回数も激減したから、

忘れたころにふと「そうだった」くらいの確認になってたけど)。

上がったことはたまたま幸いで、でも別に上がらなくても、よくなってた。

以前にもご紹介したけれど、ここのブログでお知り合いになれた、

全身がんに罹られた経験を持っておられるキシリトールさん

まったく同じことをおっしゃっていて、

「ああ、私よりキツイ状況でそれはすごい」と感じたり、

「でも逆に、開き直るしかない、っていう割り切りの強さも生まれるかな」

と思えたり。

うん。

いずれにせよ、ですよ。

状況、身体、環境、

それぞれに、何がどうなろうと、何が起ころうと、

それを心配するのも、不安になるのも、開き直るのも、

ギフトだけ受け取ることにしてあとは無視するのも、

それらをどこまで配分してそれぞれどれくらい受け取るかも、

全部、自分が決めたらいいんだな、って。

元を正せばきっと鬱の体調不良から始まった次の不調だと思えるけど、

そして鬱の真っ最中は、さすがにそこまで「ギフトのみ」

って発想は無理だったけど、いろいろなことを学ぶうちに

「いつかそう思えたらいいな」という思いは始まってた。

それが始められたら、確かにだんだん、生きやすくはなったのです。

で、ずいぶんあとになって、なぜか低血圧のみがやってきたときも、

そういうふうに切り替える練習してたから、

少し「ギフト」方面に目を向けやすくなってたんだな、って。

最近、本当に今になってから、そう思える次第。

たぶん、こういうの、人生のありとあらゆることに当てはまるよね。

えーと、たとえば

「かっこよくできないといけないから」

「きれいでないといけないから」

「素晴らしいと思ってもらえるものでないと」

「立派でないと」

「健康でないと」

「完璧でないと」

そう思うと動けないし、できないことに嫌気ばっかり増殖するし、

心配や不安はそれこそ、てんこ盛りにやってくる。

でもさ、本当にそうでないと、やってはダメなの?

いいふうに受け止めたら、

できなくなってても、別の方面を捉えて、そっちを楽しんだら、

人間としては間違ってて欠陥なの? って、本気で思う。

一般的でない、常識ではない、普通ではない。

うん、そう思いたいなら、それは「ご自由」にだけれど。

でも、そう思わなくていいのもまた、「ご自由に」なんですよ。

つらいことのほうが多いに決まってる! 

自分の人生はもう全部、苦しか残ってない!

と見て、希望を捨てていくか、

小さくても、すごく大切でステキなギフトが

私のところにやってきたわ、と見るか。

ま、自分が決めれば、本当にどっちでも、いいのです。

私は、はい、自分にラクで楽しめるほうを選びますってことで。

別にたいした理由も理屈も納得もなく、

ただ、そのほうがいいから、そうします。

腹が立つ人がいたら、ゆるくてごめんなさいね(^▽^;)テヘッ

 ↑

あ、別に、ケンカ売ってませんよ(笑)

弱いって、いいかもよ(^-^)……「ひと休み」更新

知ったことが面白すぎて、

サブブログのくせに、つい熱く語ってしまって前後編。

すみません~(^_^;)

これから先の社会の、生き方や価値観。

その新たなヒントが、しかも面白くてうれしくて楽しそうなのが

いっぱいあって、さらにはそれが「弱者で『も』(というかその人たちが

いてくださったほうが絶対に)よくて」な、ステキなお話。

そういう本のご紹介です。若者にもご老人にも、おじさんおばさんにも、

お父さんにもお母さんにも社会人にもオススメしたい。

ホール(全体的)な視点、生き方にも触れてます。

多様性、そうした世界的な変化の情報もあって。

経済にも老いにも、病にも障がいにも、心理にも才能にも、子育てにも……。

はい、たまたま知ったこの書籍、本当に「超」がつく大ホームランでした(^-^)

◎『見春屋』木元の ひと休み

「生きる」のパラダイム・シフト、始まってる? ~前編~

http://miharu.pleasure.jp/?p=194

「生きる」のパラダイム・シフト、始まってる? ~後編~

http://miharu.pleasure.jp/?p=197