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ウットリしていた私

この仕事が始まったら

きっとこんなふうに あの部分で 忙しくなるから

あれをやって これもやって それからここにも注意しなくちゃ

ああ もっと気づけるかな 広く見渡せるかな

時間足りないから 大変になるけど

全部 全部 丁寧に 完璧にやって

それで ほめてもらうんだ……( ̄∀ ̄)・:*:

ほんの少しは 誇張しているけれど

ワーカホリックが楽しかった

仕事にのめりこみたかった時代の私って こんな感じ

勝手に尽くす 尽くしてる つもりになって

仕事先の 相手のこと 勝手に思い遣って

ほめてもらえるだろうという シーンを思い浮かべ

想像してウットリしていた みたいな

どのツール制作でも どんなクライアントさんだろうと

結局はそこに 当てはめようとしていた 

私の理想の「ほめてもらえる」お部屋へようこそ

相手に尽くして認めてもらえそうなところへ 導くの

やっていく途中で どの部分を尽くせば気に入ってもらえるかを探り

それにひたすら 合わせていく……と

それは美しい理想 美しいWin-Winだと 自分では思っていたけれど

なんのことはない 単なる「滅私奉公」で

Win-私なし おままごと みたいな 仕事ごっこ

はい 私が尽くす役するから あなたは受け止めて 喜び ほめる役ね

あらゆるクライアントに対し それを私が押し付け

その枠に はめようとしていたともいえる

いや 実際にね 手をかけないよりは かけたほうが

お客様は 喜ぶ確率 そりゃ高くなるし

何を喜ぶのかも 探るわけだから

関係性として 気まずくなることもないんだけれど

勝手に やりすぎ

勝手に 期待し

やればやるほど 自分で期待度が上がる分

見返りが少なく感じて

あれ? もっと? もっとかな? って

さらにあれやこれやの技術を駆使して

尽くし続けるしかなくなって……

「よいものを作る人」という評価の見返りが 出来る限り欲しいがゆえに

自分がどうしたいのかと 相手の希望が せめぎあうこともあり

ある部分 自分の意向も 消えていき

なのに顧客との間では どんなものをつくるか

どんどん 欲が深くなる一方で

どんどん 自分が やること増えて

ま 最後に壊れたのも 自業自得だったわな と

だからね やり方 変えるんだ 練習積んでいこうと思えていること

きちんとできる そこは 自負していいと思えるから

「なるべく最上級に ほめてもらえる」という

私の理想のお部屋へ 相手を招くのはやめようと思う

そもそも その部屋つくると おままごとになって

しかも最後に 自分が壊れるから

相手がどれくらいの「出来」を望んでいるかも見て

自分がどの程度 労力使うかも踏まえ

手を抜くわけではないけれど 「適正」を探るようにしようと

単価 時間 規模 その都度 いろいろ 相手によって違うのだから

やたらめったら なんでもかんでも 全力で尽くすのは

「滅私」で自分を見失うから やめようと

これって たまたま 読者さんの「恋愛」の話がきっかけで 気づけたことで

(KちゃんThanks!)

仕事も恋も 共通する面はあるんだなと 苦笑した(^_^;)

だからさ 名曲「北の宿」になぞらえて言うならば

ちょっと説明長くなるけど 昔の私って

着てもらえるかどうか まだわからないセーターを

勝手に「喜んでもらえるはず」と想像したうえ

その妄想で 寒さどころか眠気もこらえ

徹夜で 嬉々として編んでいた

わけです

うーん 我ながら なかなか ウザッ( ̄▽ ̄*)汗

もうやーめる! っと!

意識して 練習しないとなー(笑)

所有物……的扱い

いつも読ませてもらっている方の記事で。

自分と関係が深い他者に対し、

その相手を自分の所有物であるかのように

扱っている場合が……というコメントの言葉を読みました。

そう扱われている側の、心の重苦しさに思いが至って、

ちょっとゾクッとしましたさ。

夫婦間、親子間、恋人間、古くからの友人間、

とくに女子同士の間では中学、高校辺りで

どちらかが所有物扱いしてる関係って、

結構身近な例であったように感じる。

特別な庇護っぽいもの、何しても愛しい、みたいなもの、

あるいはまた、命令する側とされる側の明確な役割分担。

友達間の場合、その二人は完全にワンセット扱いになってたし、

周囲の私たちもまあなんか、入れない関係だし、と見ていたなー。

女子高では、友人の話だとさらに疑似恋愛感情も絡んで

ドロドロしていた面があったらしいです。

うーむ(^^;)

あと、大学生か、社会人初期の頃……だと思うけれど、

ありましたよね。私の作品です、という、お母さま側の発言。

当時、母の「指導」をどこか重く感じていた私は、

うーわー!! これ、さらにキッツイ重苦しいバージョンだ、と

思えてしまい、こりゃさぞかしご大変だったことだろう……と

思わず、そのご苦労に想いを馳せてしまったのでした。

他者を、所有物扱いする。

その後、私はそのすごい例をいくつか見る経験もしたのですが、

所有物扱いされた側はたいてい、人間関係で妙に萎縮しています。

そして所有物扱いしている側のほうは、

たとえものすごくワガママに振る舞っているように見えても、

思い遣り発揮しまくっているように見えても、

ある意味どこかの面で、相手に依存しています。

そんなことできるのは、その相手しかいないから。

だから、支配型の場合なんかは、萎縮している相手が

立ち直ることを許さない。有り得ない、って話になる。

ましてや自分から離れていくなんて許せないから、

離れることに協力している相手側の知人などに、

余計なことをして、みたいな阻止攻撃を仕掛けてくる。

この規模を大きくしたのが、怪しい新興宗教の脱会希望者と、阻止したい側の

もめごとにつながるんだろうな、なんてことさえ感じてしまうくらい、

激しい攻撃だったりもするわけですよ、個人レベルでも。

扱う相手の気持ちを見ず、考えをまとめる時間も待たず先回りして、

結局は自分側の有利不利や決めつけによって相手を

どうこうしようと当たり前に思えるのが本当、不思議に思えて、

私はある例で一度、なぜなのか尋ねてみたいと本気で思ったのですが、

ヘタすると怪我を負うことになるから、と止められたこともある(笑)

しかもそれ、扱う側ご本人からの忠告で。

聞かれたら殴るかもよ、ってのを

自分で正当化できるんだ、もうあらかじめ!

と、本気で驚いた。

これは無理だ……通じないし、所有物扱いされてる本人が

本気で戦わない限り、抜けられないや、と思えたのでした。

端から見ていると、所有物扱いする側って、おびえています。

おびえて、疑ってるのです、相手からの信頼を。

だったらそんなやり方、しなければいいのに、怖いから試そうとする。

で、試し始めたら今度は、相手が耐えてるの気づいてるわけだから、

今やめたら、相手が怒ったりあきれたりして

離れる可能性があるってことにも、気づいてるみたい。

ゆえによけい、その立場を止められなくなる

→嫌われちゃうかも、どうしよう

→逃げていかないよう所有物扱い激化

→さらに不安

→激化バージョン継続

なんて例も、あったりするわけです。

思いはからいを徐々にでも発揮すれば、いいだけなのにね。

耐えてくれている相手に、勝手な指示や押し付けの思い遣りだけでなく

思いはからいを少しずつ発揮すれば、

似て非なるものだけど近い面はあるから、

きっと少しずつ、上手移行していく練習を、積めるはずなのに。

そうしたら、嫌われるかも……とか、おそれることないのに……。

そのひどい悪循環の例だって(あるご家族だったのだけど)、

耐えている側はちゃんと、支配してる人のことを、愛していたのに。

支配側の人だけが、それを本当には信じられなくて、

ずっと相手に、表明しろ、と求め続けていた。

どれほどご自分に自信がなく、

この先いつまで「自分は嫌われるかも」と

日々、おびえていかれるのだろう……と、

最後のほうは、切なくなったのでした。

自分がされたらイヤなこと、他者にしないでおこう。

……ある意味、信頼関係の基本は、それだけなのに、なぁ。

心地よい あり方 を選ぶ

自分が やりたいことで

かつ 心地よくなるものを

選択することは

自分自身を 

大切にしてあげることに

つながる

うしろめたいこと

心苦しくなること

気分がよくならず 不満が残ったりして

心に引っかかって 尾を引くようなことは 

見つめれば見つめるほど

やればやるほど

自分を イジメることになり

よい心地にはなれない

たとえば 他者を殴る快感は

あとから自分を 居心地悪くさせる

いくら自分を正当化しようとしても

心地悪いことは 変わらない

それによって 自分を嫌ったら

さらに心地悪さを 引きずるだけなのだ

社会など 何か「非難すること」に

わざわざ目を向け続け 罵倒を続けるのも

どこか 自分を正当化したいからで

自分を 正当化したいのは

どこかで実は 自分を 非難している部分が あるのかもしれない

ひどいことから 目をそらせ と言っているわけではない

私だって 社会のことを 口にする

でもそれは どこを目指したいかを自分で整理して

うん そのほうが より 未来が明るくなり

自分が 相手が 周囲が みんな 心地よく感じられるな

と思えるものを 改めて 自分に

気づかせるためにやろうと 心がけている

だって素敵な未来を 創りたいから

自分にとっても 周りにとっても 

心地よくなる方向のものを 選びたいのだ

だから 怒りも なるべく どこへ向かえばいいか を感じるように

その気づきのために 使いたいと思うし

なかなか 難しくはあるけれど 

おそれも できるだけ そう使いたい

そんなふうに 自分に心地よい方向のものを

毎瞬 毎瞬 選択することは

自分の『あり方』を変える練習だと

私には思えている

『やり方』でなく『あり方』

あり方が変われば だんだん やり方も 変えられるのだと

何か やるときも

できない と決めれば 実際にやっても 

うまくいくはずがない

それでもね

うまくできなくても

失敗しても

やったほうが 自分に心地いいときは

やることを選択すると あとから

「やれたことそのもの」が うれしくなる

他者の目ではなく

自分の目で 自分に

心地よくなったね

頑張って楽しかったね

ちょっと ほめてあげようかな 自分を

と思えることのほうを 選択する練習を積めば

結局 自分が心地よくいられる練習を 積むことになるのだ

行動は あり方を変えるための ただの手段のひとつ

そんなふうに 捉えられるようになると思える

だから これからも 私は

自分が 心地よくあること

そのための

心地よくなること を 選ぶ

それはいつか 必ず

他者もまた 心地よくあることに

つながると思えるから

win-winのほうが よりうれしいから

そのための 毎瞬のあり方の練習

言い訳や 自己正当化でない

ただ素直に よいと思えることを

なるべくたくさん 自分で選択したい

空が青くて心地よいな

目が見えて 青さを心地よく感じられて うれしいな

世の中が平和で 

だから空も見られる余裕が持てて ありがたいな

そんなのでも 良いわけだし

誰が見ていなくても

すがすがしい気持ちになりたいから

道端のゴミだって

ときに拾って捨てるのだ

何をか を 別に得なくても

何をか を 達成しなくても

そういう一つひとつを 自分がより多く選ぶことが

心地よいあり方だと 自分をうれしくさせるあり方だと

私には 思える