木元見春 のすべての投稿

「どう思われるか」でなく「どう思い“はからう”か」では、と ~後編~

さらに。

これは相手側の問題、なのだけれど、

相手が「もう何も言わなくても、ハサミを貸してくれるの、

当たり前でしょう」になってしまったら?

あなたが思いはからうことが、親切心を発揮することが、

相手の「傲慢さ」につながることだってあるのです。

相手の勘違い。自分と仲良くなった人に対しては、当たり前のように

「自分への親切心を発揮してくれるものなのだ」という形。

たとえば子どものワガママを、何でもハイハイと許し続けてしまうと、

子どもがよその人に対しても、勝手な押しつけをしたり

自分だけのことを考えて、

他人へ配慮できない、意向を聞かなくなる場合などが、それに当たります。

仲良しのみんなで集まってさまざまなケーキが入った箱を囲んだとき、

「私、これがいい!」といきなり真っ先に手を伸ばして取ってしまう子、

「あ、1個余るね、じゃあ私が欲しい!」と、自分だけ2個取る子。

……実際に見たときに、それを注意しなかった親にも呆然としましたさ。

ケーキで済めばまだマシですが、

そんなふうに相手からの搾取、を感じるのであれば、

私はこう感じる、ということを、告げないと、相手が勘違いする一方です。

そこでもまた、嫌われることだけを考えておびえ、

オドオドと自分の親切心を差し出し続けたりする必要など、ないのです。

そしてもう一点。まったく逆の視点です。

相手に対し「ハサミを貸してあげてるんだから、私のこと、気に入るはず」と

期待をかけてしまう可能性もある。

見返り、「自分に対するよい感情やお返しの行動」を期待し、

人によっては強要する。

これは思いはからいではなく、単なる圧力的な取引になってしまいます。

しかもその取引が成立しないと、自分が怒る、腹が立つことになる。

親切心の押し売りも、迷惑なのです。

だからこそ「はからう」部分が、とても大切なのだと。

つまり、今回、私が感じたことを、あえて箇条書きにしてみると。

●自分の「視点」「思い」は大事にしていい

●自分だけ、相手だけ、を大事にしない

●自分が「どう思われるか」だけを見つめると動けなくなる、

 あるいは変な形で相手の言いなりになる

●相手を見返りでコントロールしようとしない

不思議なことに、この年末から最近にかけて、

そんなことをたくさん気づかせてくれる会話に巡り会ったのでした。

あなたが大事。

そして「次に」相手も、でも自分と同等の人間として、大事。

そのバランスの取り方は、相手によって、変わります。

だから面倒であっても、心を通わせたいのであれば、

実際に練習しながら「個人」対「個人」、

一人ひとりとの間で、つかんでいくしかないのだなあ、と。

それをして、気持ちが通い合い、心が通じ合ったとき。

そこには相手に対する感謝が生まれ、自分への気づきや

自分の長所の発見、そして自信も生まれます。

だからこそ、人との関係を築く練習をすることは、

自分を豊かにしてくれるのだと、そして

「結果」として生まれるものより先に、「過程」を大切にすることが

さまざまな気づきを自分に与えることになり、

自分の人生を自分でより、潤いのあるものに変えていけるのだと。

少し大げさなのかもしれませんが、今の私には、そう思えています。

「どう思われるか」でなく「どう思い“はからう”か」では、と ~前編~

このところ、何人かの方と個別に、人間関係について話す機会に恵まれ……。

いろいろ話をするうちに、そうだよな、と

改めて思えたことがいくつかありました。

当たり前と言えばそうなのかもしれませんが

書いてみたいと思います。

自分がどう思われるか、は、相手側の捉え方によって、

良いほうにも悪いほうにも転がる。

当然、出会ったころには、自分が相手に対し興味を持てないことも、

逆に相手から持ってもらえないことも、起こりうる。

ただ、自分がその相手と仲良くなりたいな、と思った場合。

相手がどんな人かを知りたいし、相手に親切にしてあげたくなりますよね。

で、そこは、自分が相手のことをどう思い「はからえる」か、によって、

違ってくるよね、と。

たとえば。

その人の元に、何らかの書類が封書で送られてきました。

で、その人が封筒を持って、周囲をキョロキョロ見渡し、何かを探している。

ここであなたが「あ、ハサミを探しているのかな」と思い、

自分の手元にあったハサミを「ハイ、どうぞ」と差し出してあげる。

そして相手から「ありがとう、よく気づいてくれたね」と言われたら、

うれしいですよね。

ここで。

過去に「思いはからう」の記事でも書いたのですが、

このあと、その人が封書を持ってキョロキョロするたびに、

「黙って」ハサミを差し出してあげることが

とても良いことなのか、というと、

実はちょっとだけ、違うと思えるわけです。

もしかしたら最初の段階で、その人が探していたのは、

カッターだったかもしれない。

中の書類を誤って一緒に切ってしまわないように、

カッターで開封したかったのかもしれない。

でも、あなたがハサミを差し出したので、

あなたの親切心に感謝して「ハサミでもいいか」と思い

「ありがとう」と言ってくれたのかもしれない。

だから本当は、最初の段階であなたが親切心を発揮したいなら

先に「ハサミを探しているんですか?」と

聞いて『確認』してあげれば、

相手も「いや、カッターを」と伝えることができ、

あなたはカッターを差し出すことができて、

その親切心はさらにすばらしいものになったかもしれない。

するとそののちも、ハサミを「一方的に黙って」差し出すのではなく

「カッターでいいですか?」とあなたは聞けることになり、

相手もその気遣いを喜んでくれて、

お互いに、より心地よく感じられることにつながります。

もしかしたらときには、カッターでなくハサミのほうが

よかったりすることもありますしね。

これが「思いはからう」ということであり、

相手も自分も、よりうれしく、より満足を感じられるやり方。

私には、そう思えています。

ところが。

「相手のことを自分がどう感じるか、思いはからうか」

ではなく、「自分がどう思われるか」だけに視点を置いてしまうと。

とたんに、この親切心でさえ、発揮できなくなります。

「ハサミでいいのかな、間違っていたらどうしよう」

「確認して『そんなこと聞くのか』と思われたらどうしよう」

ついには

「『いちいち聞くなんて、コイツ、鈍くさいんじゃないか』と思われたらどうしよう」

などと、勝手な、しかも思い込みの決めつけ的な恐怖心が湧いてくる。

結果、その人の顔色をいつもうかがい、その人が、

たまたまあなたと目が合って「カッター貸して」と言おうものなら

「ああ、よかった、ハサミを差し出してたら、笑われるところだった」

などと、捉えてしまったりもする。

それがさらに進むと、自分の評価を、採点を「待つ」ことになり、

人によっては、ハサミを貸すことさえ、怖くてできなくなる。

相手から「言ってくれる」のを待つしかできなくなり、

たまたま他の人が貸して、その人と仲良くなるのを見て「いいな……」って

思ったりしてしまうことになるかもしれない。

他の人がその人と交流するのを、こっそり傍目に見て、

うらやましがるだけで、お終い……。

自分だって気づいていたのに、働きかけることができたのに、

それはすごくもったいない。

勝手な思い込みと勘違いで、

親しくなれる機会を失ってしまっているのですから。

~長くなったので後編につづく~

今年もありがとうございました

2011年2月からこのブログを始め、

最初は鬱の方に向かって主に

病と気持ちの関係について

話しかけたいと思い、

それこそ毎日

「勢いあまって」いるかのように

書いていました。

その肩の力も

さすがに徐々に抜け、

不定期更新になってからは

鬱の病のきっかけとなってしまいそうなことや

心のこと、気持ちのこと、

受け止め方や考え方という部分で、

自分が学んだこと、感じたことを

よりいろいろ書きたくなり、今に続いています。

タイトルの、生きるか死ぬか、

という切迫感は、

そういう意味では

少し薄れているのかもしれませんが、

やはり私が話しかけたい人、には

必ず鬱での苦しみを、

鬱になってしまうほどの

苦しみを抱えられた人が

含まれていると

自分では思えています。

そもそも、このブログを書くという行動が

丸3年を越えることになりそうだとは

当初、まったく想像していなかったですし、

どこへ向かっていくかも決めておりません。

ただ、何かに支えて

いただけているのかのごとく、

恩返し、という気持ちは

保てたままでいます。

ありがたいことです。

そんな感じで来年も、

とくに何も目的を決めず、

自分が書きたいことを

書きたいタイミングで

素直に書いていきます。

それでもよろしければ、

また来年もおつきあいくださいませ。

記事を読んでくださった方、

コメント欄、ペタ等でご縁をいただけた方、

私を見守ってくださる方々、

すべての皆さまに、改めて

心からお礼申し上げます。

ありがとうございました。

来年もよろしくお願い申し上げます。

皆さまそれぞれのもとへ

愛と気づきの光が、必要なときに

必要なだけ、届きますように。

祈りをこめて。

2013年12月31日 木元見春