「どう思われるか」でなく「どう思い“はからう”か」では、と ~前編~

このところ、何人かの方と個別に、人間関係について話す機会に恵まれ……。

いろいろ話をするうちに、そうだよな、と

改めて思えたことがいくつかありました。

当たり前と言えばそうなのかもしれませんが

書いてみたいと思います。

自分がどう思われるか、は、相手側の捉え方によって、

良いほうにも悪いほうにも転がる。

当然、出会ったころには、自分が相手に対し興味を持てないことも、

逆に相手から持ってもらえないことも、起こりうる。

ただ、自分がその相手と仲良くなりたいな、と思った場合。

相手がどんな人かを知りたいし、相手に親切にしてあげたくなりますよね。

で、そこは、自分が相手のことをどう思い「はからえる」か、によって、

違ってくるよね、と。

たとえば。

その人の元に、何らかの書類が封書で送られてきました。

で、その人が封筒を持って、周囲をキョロキョロ見渡し、何かを探している。

ここであなたが「あ、ハサミを探しているのかな」と思い、

自分の手元にあったハサミを「ハイ、どうぞ」と差し出してあげる。

そして相手から「ありがとう、よく気づいてくれたね」と言われたら、

うれしいですよね。

ここで。

過去に「思いはからう」の記事でも書いたのですが、

このあと、その人が封書を持ってキョロキョロするたびに、

「黙って」ハサミを差し出してあげることが

とても良いことなのか、というと、

実はちょっとだけ、違うと思えるわけです。

もしかしたら最初の段階で、その人が探していたのは、

カッターだったかもしれない。

中の書類を誤って一緒に切ってしまわないように、

カッターで開封したかったのかもしれない。

でも、あなたがハサミを差し出したので、

あなたの親切心に感謝して「ハサミでもいいか」と思い

「ありがとう」と言ってくれたのかもしれない。

だから本当は、最初の段階であなたが親切心を発揮したいなら

先に「ハサミを探しているんですか?」と

聞いて『確認』してあげれば、

相手も「いや、カッターを」と伝えることができ、

あなたはカッターを差し出すことができて、

その親切心はさらにすばらしいものになったかもしれない。

するとそののちも、ハサミを「一方的に黙って」差し出すのではなく

「カッターでいいですか?」とあなたは聞けることになり、

相手もその気遣いを喜んでくれて、

お互いに、より心地よく感じられることにつながります。

もしかしたらときには、カッターでなくハサミのほうが

よかったりすることもありますしね。

これが「思いはからう」ということであり、

相手も自分も、よりうれしく、より満足を感じられるやり方。

私には、そう思えています。

ところが。

「相手のことを自分がどう感じるか、思いはからうか」

ではなく、「自分がどう思われるか」だけに視点を置いてしまうと。

とたんに、この親切心でさえ、発揮できなくなります。

「ハサミでいいのかな、間違っていたらどうしよう」

「確認して『そんなこと聞くのか』と思われたらどうしよう」

ついには

「『いちいち聞くなんて、コイツ、鈍くさいんじゃないか』と思われたらどうしよう」

などと、勝手な、しかも思い込みの決めつけ的な恐怖心が湧いてくる。

結果、その人の顔色をいつもうかがい、その人が、

たまたまあなたと目が合って「カッター貸して」と言おうものなら

「ああ、よかった、ハサミを差し出してたら、笑われるところだった」

などと、捉えてしまったりもする。

それがさらに進むと、自分の評価を、採点を「待つ」ことになり、

人によっては、ハサミを貸すことさえ、怖くてできなくなる。

相手から「言ってくれる」のを待つしかできなくなり、

たまたま他の人が貸して、その人と仲良くなるのを見て「いいな……」って

思ったりしてしまうことになるかもしれない。

他の人がその人と交流するのを、こっそり傍目に見て、

うらやましがるだけで、お終い……。

自分だって気づいていたのに、働きかけることができたのに、

それはすごくもったいない。

勝手な思い込みと勘違いで、

親しくなれる機会を失ってしまっているのですから。

~長くなったので後編につづく~

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