木元見春 のすべての投稿

ひとりの 大切な人としての それぞれを

恋愛相手にせよ

親にせよ

兄弟姉妹にせよ

夫婦にせよ

幼少期を過ぎた 子どもにせよ

本当は24時間 あなたを見ていたい

あなたに 見ていてほしい

すべて見守りたい 見守られたい

離れると 本当は不安

何を感じ 考えているか

全部知りたい

と思うよりは

いろいろな 考え方があるよね

いろいろな 時間を過ごすよね

あなたにとって 大切なものと

わたしにとって 大切なものが

たくさん 一致すればいいね

ひとりでいても 楽しいことは起こるけれど

あなたといると 知らなかった刺激が生まれて

自分ひとりでは気づけない 喜怒哀楽が生まれて

それはそれで なお いっそう 楽しいね

という関係のほうが

より 長く お互い学び合える

いい関係を 続けていけそうだよね

あなたも ひとりの人間

わたしも ひとりの人間

どっちも大切 という 関係

常に そばにいないと いてくれないと

全部 把握していないと してくれないと

気が済まないの というのは もしかして

わたし ひとりでは

ダメなの 無理なの って

自分を否定的に捉えてることにも

つながっていたりするよね

怖い目に 辛い目に

遭ったときは 別としてさ

自分ひとりの時間に 自信がない

自分への信頼を 常に確認しておかないと不安

相手がすぐ 自分に反応を示してくれないと それもまた不安

それは束縛にもつながるし

ワガママにもつながるし

依存にもつながる

その 危険性は どうしても はらむよね

自分ひとり を

もっと充実させたほうが

自分嫌いを 変えていったほうが

相手の 時間 相手の 考え方 

相手の 個性 独立性も 認めてあげられて

何かと よい方向へ

お互いが 進んでいけると

わたしには 思えるんだ

なのでできれば少しずつ 練習してもらえればと願う

わたしも ひとりの 心を持った人間

あなたも ひとりの 心をもった人間

相手の 尊重と

自分自身の 尊重

その両方を 同じ扱いで

がんばりすぎる→見返りがほしくなる→苦しむ

25日に、友人と話していたときに聞いたこと。

ある男性が米国へ出張へ行く際に、婚約指輪を購入しようと思いました。

この男性は宝飾専門ではありませんでしたが、

商品デザインができる人だったので、ダイヤモンドの原石を買って

自分で考案した指輪を彼女に贈りたいと考え、

婚約者の女性に、確認を取りました。

女性は、婚約指輪なのだから、

ここのブランドの指輪が欲しい、と言いました。

価格的には大きな差はありませんでした。

さて、男性はどうしたかというと、

やはり自分で原石を買い、デザインしました。

そして女性に贈ろうとしたら、女性は話が違う、と怒りました。

男性は、人の気持ちがわからないヤツだ、と怒りました。

そのケンカがもとで破局したかどうかまでは聞いていませんが、

さて、この場合、悪いのはどちらでしょう、という話。

私たちの結論は「まあ、結局はどっちも、かなあ?」でした。

2人で思い出したのは、クリスマスだったせいもあるけれど、

「賢者の贈り物」という話。

今調べたら、そうでした、米国の作家、オー・ヘンリーの短編でしたね(笑)

男性は女性のためにステキな懐中時計を売って、

彼女が密かに憧れていたステキな髪飾りの櫛を買い、

女性は男性のために、豊かで美しい髪を売って懐中時計の鎖を買った、という話。

この場合は

「クリスマス、という毎年のプレゼントであること」

「サプライズ、が基本にあること」

「そのうえでの思い遣りが、お互いにあふれていること」

で、美談なわけですが……。

お互いにとって、一生に一度しかない「婚約指輪」であるがこそ。

彼女が、もともと好きなデザインであると自分ではっきりわかっている、

ステータスもある指輪を欲しがることも、

デザイナーである彼が、自分で考えた指輪を贈りたいと

(宝飾デザインはやっていないけれど)思うことも、

どちらも間違いではない。

そして、ちゃんと事前に2人で相談、確認ができたのであれば。

彼女は、彼がデザイナーであることを知っているのだから、

なぜそうしたいか、どれくらいそうしたいのかを聞いてみれば良かったし、

彼もまた、どうしてもそうしたいなら、きちんと説得すれば良かった。

そこの部分が惜しかったよね、という話。

まあ、がんばってくれたのだから、

これはこれで一生ものだね、と彼女も思えれば良かったし

(ただし婚約指輪のデザインが、その女性の

好みの範疇であったという前提も必要かも、ですが……)、

男性のほうは確認をしておきながら、結局それを無視して、

がんばって愛と努力も込めたのだから

俺のその気持ち付きで受け取れ、と押しつけるのもどうよ、と。

相手の希望を確認しておいて、それを無視した部分だけは

あきらかに男性が悪いよね、という話に落ち着いたのでした。

聞かずにやったら、さらに押しつけだし……(^_^;)

がんばったら、何らかの成果が出て、気持ちがいい。

でもがんばり方がずれていたら、成果が出ないこともあります。

この男性のように「がんばってやったという、その部分は認めてよ!」

というのは、ときに無理なことも、「普通に」あるのです。

そして、ここでタイトルの話につながるのですが、つまりね、

人はがんばったら、やっぱりその成果が、見返りが、欲しくなるのです。

「がんばったこと自体」のすがすがしさもまた、成果の一つではありますが、

それが責任を伴えば伴うほど、量などが増えるほど、見返りも欲しくなる。

これもまた、当たり前のことだと思えます。

お金だったり、愛情だったり、感謝の言葉、笑顔、喜んでいる様子。

苦労すればするほど、そういうのを得た、見たときに、

「ああ、やってよかった」と思えるわけです。

ということは。

最初は「がんばること自体」の楽しさ、があれば、そこそこできたのに。

がんばる必要があることが増えていくと、見返りがないとやっていけなくなる。

楽しい範囲を超えてまで引き受けすぎると、

楽しさよりも見返りが目当てになっていってしまうかも……なのです。

で、この金額ではこれ、割が合わないや、とか

これだけやったのに、その評価かよ! という不満にもつながる。

なので、ものすごくがんばったのに、

やがて残るのは「むなしさや疲れ」「不満」だけになっていく……。

という悲劇が生まれてしまったりもするのです。

なので、まず楽しい範囲、でとどめて欲しい。

楽しさを見つけながら、そこに意識を集中してやるのが「基本」。

で、責任があって、どうしても、量や質などを、とどめることが難しければ、

「こっちを先にやるから、こっちはあとで」みたいな形の

交渉を、「あらかじめ」きちんとしてほしい。

引き受けてしまってから遅れる場合、

どうしても、最初に責められるのはこちら、なのです。

たとえ相手がかなりの無茶振りをしてきた結果だとしても、

引き受けてしまったのは、自分の選択。

その部分の責任だけは、どうしようもないのです……。

見栄でもなく、「できない」と言ったら評価が下がるという恐れでもなく、

素直に、可能かどうかを判断できる「感覚」を、忘れないでください。

これとはまったく逆の意味で、自分がまだ未経験、未熟であるうち、

まだ能力的に「できていない」段階で、

つまらない内容だからなどの理由で「こちらの適性をわかっていない」だの、

「こんな役割を振るのはあいつが悪い」だの、

相手のほうばかり責めて、非難ごうごうになる方もいますが……。

その量が適切でなければ、先に交渉すべきでしたし

その質がハイレベルすぎるときも、先に交渉すべきです。

低レベルの内容であるなら、さっさと終わらせれば、

自分を見くびった(?)相手に、能力をきちんとアピールできますよ、

ってだけの話で。

引き受けたあとで文句を言うのであれば、自分が本当に

それをさっさと完璧にこなせるレベルにあるかどうかは、

必ず冷静に判断してからにしてください。

でないと、相手から

「それをスラスラできるようになってから、自分の希望を言え」と

言われても仕方ないことを、知っておいてください。

……厳しいかしら(^◇^;)

仕事や各種のおつき合い、家事に限ったことではありません。

たとえそれが、子育てであったとしても、なんだと思えます。

やはりそこには共通する部分が、必ずある。

自分のペースは自分でしかわからないし、適性の問題も、どうしてもあります。

やり方を工夫してみて、それでも向いてないなら、

やり方を大きく変えることも必要です。

たとえそこで自分の評価が下がるとしても。

見渡してみて、何がいけないか、どう改善すればいいかを考え、

相手(周囲の協力者、関係者など)に、きちんとその辺をわかってもらいたいなら、

こちらもまた、まず冷静に自分を判断してから、しかも

「相手側にうまく伝わりやすい『伝え方』を、自分で工夫して努力すること」も、

大切なんですよ……というお話でした。

結局、できるにせよ、できないにせよ、

がんばるうえで虚勢や見栄を張ったら、

あるいはまた、状況を伝える交渉を「おびえ」ゆえに逃げたら、

さまざまな問題が発生するかもしれず、しかも、

結果的には、自分が苦しくなっていく一方なのです。

……もちろんこれは、過去に自分がたくさん、

痛い思いを経験したから、自戒もまだまだ含めつつ、の話。

言葉が刺さった方がいたら、ご容赦ください。

感情を眺めるという、その「眺め方」~その4~

先ほど書いた、自分のなかの「苦しい感情の渦潮」

その存在をゆるす、ということ。

そんなのイヤだ、ゆるさない、という人は、

いずれ、苦しい状況そのものから卒業することを目指してほしい。

だが、

傷があること、できたこと

自体は、決して「ひどい」だけのことではないのだ。

本当に何もなく、ただただ平穏に、のんびり牧歌的な毎日。

それを「飽きずに楽しめる」かどうかは、その人の性格によるだろう。

刺激がないとイヤだ! それが当たり前で「普通」でしょう!

というこだわりのある人には、耐えられないと思う。

そのこだわり自体「あなたの好み」の範疇、個性なのだけれど。

しかもそういう刺激っていう類のものは、自分にとって必ずしも

「楽しくてうれしくて喜ばしい」ものばかりではありえないと思うのだけれど。

なぜか人って、いろいろな刺激を欲しがるのに、

それが自分にとって良いものじゃないと、ゆるせない傾向にある。

リスクがあるからリターンもあるのだけれどね、本当は……。

ま、それはさておき。

何らかの出来事、状況、人間関係により、あなたに苦しみが生まれました。

あなたの心に「傷」ができました。

その傷って、捉え方、見方、使い方次第で、こうなることをご存じだろうか。

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内側からの虹が輝いて見える、傷を内包した水晶玉。

この美しい写真は、こちらからお借りしました。

INFONIXさん

こうした輝きは、傷を内包していないと生まれないのだ。

透明で透き通った完璧な美しい自分、それを求める気持ちはわかるけれど

こうした傷が個々にそれぞれ、付いていくことにより、

あなたの個性が生まれ、あなた個人の、世界にひとつだけの輝きも生まれる。

これはたまたま水晶の写真だけれど、

私には、人ってこういうもののようにも思えている。

光の当たり方によっても輝きは変わるし、

傷の大きさや角度、つながりによっても違う。

そして、まったく傷がない人なんて、

生まれたばかりの赤ちゃんくらいではないだろうか。

親からの価値観、生まれた環境、成長過程に起こる人間関係、選ぶ学び方……。

それらがすべて一緒で、受け止め方も完璧に一緒、の人なんていない。

すべて、世界でたった一人・ひとつの存在である大切な、

あなたの個性につながってきたし、これからもつながっていくのだ。

しかもその傷と思っていたものを「輝き」に、これから変えることもできる。

でも今は、あなたがこの傷の存在自体を、自分で否定しているのだ。

上手な見方、捉え方、使い方自体がまだつかめない、というのはわかる。

そんなのは、傷ができて初めて「どうしよう」と思えるものであるし、

その時点からしか練習できないし、

あらたな傷をおそれ、おびえる気持ちもわかる。

それでも、なお。

その傷はあなたの学びに変えることができ、あなたが光を当てることによって、

そんなふうにして「捉え方」の角度を変えることで、輝きに変えられる。

そもそも私は、そんな美しい球のような「器」ではない! と思っている人。

変形しているなら、丸め直せばいい。

器が小さければ、内側から徐々に膨張させることもできる。

外側からつけた「ふくらみ」は、その立場が終われば「はがれて」しまうけれど、

内側からのふくらみは、あなた自身で作り出せていく。いろいろなことから。

カチカチでゴツゴツの器しか自分でイメージできないなら、

いっそのこといったん、粉々に壊したっていい。

あなた自身にとって「良い見方、捉え方」のできることを、

長く使えそうな粘着剤にして、まず最初は自分を粉から練って、

粘土状にして、あらたな美しい球を、作り出せばいいのだ。

どうしても透明にしたい? 

ならば思い切って、いずれは自分をかまどの火にくべてみよう。

ガラスは高温で砂を焼かないと、化学反応を起こさない。

それと同じなのだと思える。

どんな傷になるか、どんな輝きを放てるかは、

もちろん選べるときもあれば、選べないときもある。

でも、傷がある、ということ自体を受け入れることは、

決してマイナス面ばかりでないのだ。

それは、あなたが成長していくための糧にできる。

何歳からでも、お迎えが来る間際まで、輝きを増やしていける。

起こった良い出来事で自分を傲慢にしていったら、

それは果たして善なのか?

起こった悪い出来事で自分が人の痛みも知るようになったら、

それは果たして悪なのか?

そういうことなのだ。

自分に「起きたこと」の、見方を変えていく。そのためにまず、

「傷がある自分」を認めて、ゆるしてあげてほしい。

ただ、そうなんだな、と。

そのこと自体には、善悪はないのだな、と。

そういうふうに、自分の苦しみを、少し遠くから眺められるよう、

練習してみてほしい。

どんなに「今は」いびつに思えても、

離れて見られるようになれば、それを輝きにするためのヒントも生まれてくる。

今までに聞いていたメッセージが、自分のなかで「腑に落ちる」機会も生まれる。

傷を拒否し続けると、外からやってくる輝きへの「ヒント」も、

実は受け入れにくくなるかもしれない。

その傷に効くかもしれないのに、

あなたが傷の存在そのものを、否定してしまうからだ。

今は苦しいだろうけれど、その痛みは、あっても、だいじょうぶなのだ。

いずれ、だいじょうぶに、変えていけるのだ。

あなたの身体も本当は、あなたの心を安定させるべく「恒常性」を保とうと、

実は毎日毎瞬、協力してくれているのだ。60兆個の細胞の、協調した働きによって。

自分が扱える範囲、心のなかのこと。だいじょうぶ、にしていくために、

今はまず、傷があることを「眺められる」ようになってもらえたらと思う。

傷の渦中の記憶に戻って呑まれるのでなく、感情の渦潮自体を遠くから新たに、静かに。

「そう私は受け止めたんだな」という視点。そのための落ち着き。

まずは眺められるようになって、感情に振り回されなくなって、そのあと、

できるようになったときでいいから、

その出来事と感情を、見つめ直してみてほしいと願う。

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写真 Author : Hellbuny
ウィキペディア「徳島県 鳴門の渦潮」写真