感情を眺めるという、その「眺め方」~その4~

先ほど書いた、自分のなかの「苦しい感情の渦潮」

その存在をゆるす、ということ。

そんなのイヤだ、ゆるさない、という人は、

いずれ、苦しい状況そのものから卒業することを目指してほしい。

だが、

傷があること、できたこと

自体は、決して「ひどい」だけのことではないのだ。

本当に何もなく、ただただ平穏に、のんびり牧歌的な毎日。

それを「飽きずに楽しめる」かどうかは、その人の性格によるだろう。

刺激がないとイヤだ! それが当たり前で「普通」でしょう!

というこだわりのある人には、耐えられないと思う。

そのこだわり自体「あなたの好み」の範疇、個性なのだけれど。

しかもそういう刺激っていう類のものは、自分にとって必ずしも

「楽しくてうれしくて喜ばしい」ものばかりではありえないと思うのだけれど。

なぜか人って、いろいろな刺激を欲しがるのに、

それが自分にとって良いものじゃないと、ゆるせない傾向にある。

リスクがあるからリターンもあるのだけれどね、本当は……。

ま、それはさておき。

何らかの出来事、状況、人間関係により、あなたに苦しみが生まれました。

あなたの心に「傷」ができました。

その傷って、捉え方、見方、使い方次第で、こうなることをご存じだろうか。

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内側からの虹が輝いて見える、傷を内包した水晶玉。

この美しい写真は、こちらからお借りしました。

INFONIXさん

こうした輝きは、傷を内包していないと生まれないのだ。

透明で透き通った完璧な美しい自分、それを求める気持ちはわかるけれど

こうした傷が個々にそれぞれ、付いていくことにより、

あなたの個性が生まれ、あなた個人の、世界にひとつだけの輝きも生まれる。

これはたまたま水晶の写真だけれど、

私には、人ってこういうもののようにも思えている。

光の当たり方によっても輝きは変わるし、

傷の大きさや角度、つながりによっても違う。

そして、まったく傷がない人なんて、

生まれたばかりの赤ちゃんくらいではないだろうか。

親からの価値観、生まれた環境、成長過程に起こる人間関係、選ぶ学び方……。

それらがすべて一緒で、受け止め方も完璧に一緒、の人なんていない。

すべて、世界でたった一人・ひとつの存在である大切な、

あなたの個性につながってきたし、これからもつながっていくのだ。

しかもその傷と思っていたものを「輝き」に、これから変えることもできる。

でも今は、あなたがこの傷の存在自体を、自分で否定しているのだ。

上手な見方、捉え方、使い方自体がまだつかめない、というのはわかる。

そんなのは、傷ができて初めて「どうしよう」と思えるものであるし、

その時点からしか練習できないし、

あらたな傷をおそれ、おびえる気持ちもわかる。

それでも、なお。

その傷はあなたの学びに変えることができ、あなたが光を当てることによって、

そんなふうにして「捉え方」の角度を変えることで、輝きに変えられる。

そもそも私は、そんな美しい球のような「器」ではない! と思っている人。

変形しているなら、丸め直せばいい。

器が小さければ、内側から徐々に膨張させることもできる。

外側からつけた「ふくらみ」は、その立場が終われば「はがれて」しまうけれど、

内側からのふくらみは、あなた自身で作り出せていく。いろいろなことから。

カチカチでゴツゴツの器しか自分でイメージできないなら、

いっそのこといったん、粉々に壊したっていい。

あなた自身にとって「良い見方、捉え方」のできることを、

長く使えそうな粘着剤にして、まず最初は自分を粉から練って、

粘土状にして、あらたな美しい球を、作り出せばいいのだ。

どうしても透明にしたい? 

ならば思い切って、いずれは自分をかまどの火にくべてみよう。

ガラスは高温で砂を焼かないと、化学反応を起こさない。

それと同じなのだと思える。

どんな傷になるか、どんな輝きを放てるかは、

もちろん選べるときもあれば、選べないときもある。

でも、傷がある、ということ自体を受け入れることは、

決してマイナス面ばかりでないのだ。

それは、あなたが成長していくための糧にできる。

何歳からでも、お迎えが来る間際まで、輝きを増やしていける。

起こった良い出来事で自分を傲慢にしていったら、

それは果たして善なのか?

起こった悪い出来事で自分が人の痛みも知るようになったら、

それは果たして悪なのか?

そういうことなのだ。

自分に「起きたこと」の、見方を変えていく。そのためにまず、

「傷がある自分」を認めて、ゆるしてあげてほしい。

ただ、そうなんだな、と。

そのこと自体には、善悪はないのだな、と。

そういうふうに、自分の苦しみを、少し遠くから眺められるよう、

練習してみてほしい。

どんなに「今は」いびつに思えても、

離れて見られるようになれば、それを輝きにするためのヒントも生まれてくる。

今までに聞いていたメッセージが、自分のなかで「腑に落ちる」機会も生まれる。

傷を拒否し続けると、外からやってくる輝きへの「ヒント」も、

実は受け入れにくくなるかもしれない。

その傷に効くかもしれないのに、

あなたが傷の存在そのものを、否定してしまうからだ。

今は苦しいだろうけれど、その痛みは、あっても、だいじょうぶなのだ。

いずれ、だいじょうぶに、変えていけるのだ。

あなたの身体も本当は、あなたの心を安定させるべく「恒常性」を保とうと、

実は毎日毎瞬、協力してくれているのだ。60兆個の細胞の、協調した働きによって。

自分が扱える範囲、心のなかのこと。だいじょうぶ、にしていくために、

今はまず、傷があることを「眺められる」ようになってもらえたらと思う。

傷の渦中の記憶に戻って呑まれるのでなく、感情の渦潮自体を遠くから新たに、静かに。

「そう私は受け止めたんだな」という視点。そのための落ち着き。

まずは眺められるようになって、感情に振り回されなくなって、そのあと、

できるようになったときでいいから、

その出来事と感情を、見つめ直してみてほしいと願う。

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写真 Author : Hellbuny
ウィキペディア「徳島県 鳴門の渦潮」写真

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