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愛されないからへこむ→やがて「ひがむ」

タイトルのこれ、「起こったときには」とてもとても、苦しくてつらい話です。

愛されないとわかったときは、どんな人でも、へこみます。

別に恋愛に限った話ではありません。

親、兄弟、子供、友達、先輩、後輩、上司、同僚、仲間……「周囲全部」に対して、

それぞれ、重く、苦しいです。

どうってことない、という場合、そもそもその相手が、

あなたにとってどうってことない存在だったというだけで。

で、そのあと、の問題。

へこみました、うん、そりゃそうなる。

じゃあ次にたぶん「なんでそうなったのか」を考えるでしょう。

そのとき。

自分が悪い

相手が悪い

ここで結論が止まってしまうと、問題は根本的に解決しません。

いつまでたっても、何度でも、どこかで、人間関係が崩れます。

そのたびに、相手か、自分のせいにして、そこで止まって、またお終い。

いや、それで別に、気にならない人ならいいのです。

うん、そうなんだね、割り切ったんだね、ってことです。

自分を嫌う相手は、私も相手にしない。

それでスッと終わらせて、気持ちがせいせい、晴れ晴れするようであれば、

過去にどんなにお世話になっていた、あるいは良好な関係だったとしても、

今、現在はもう、お互い卒業するべき関係、

その人は自分にとってもう、関わる必要がない人なんだと思えます。

でもたまに、へこみっぱなしの人がいる 。

っていうか、だんだん、「どうせ私なんて」といじけ出したり、

「一生許さない」と決めつけて、わざわざ思い出しては苦しんだりする。

ごめんなさい、それを続けておられる状態って、こう表現できるんです。

「相手に対して、自分に対して、問題を問題のまま確定させ、放置する」

そしてそういう状態を「ひがむ」と呼んだりもします。

これ、何も変わりません。何も、良い方向へはいきません。

この先、あちこちの人間関係で、それを繰り返して、

ますますへこみ、ますますひがみ、自分を、他人を、おとしめることになるでしょう。

だから、私は、尋ねます。

なんで放置するんですか? と。

たとえば自分を嫌っているから、他人とうまくいかない。

すると他者をむやみに怖がったり、嫌うことにもなり、

さらにひがむ事態が起こることにもつながる。

表面上、適当にがんばったって、根本的に何も解決できないと、

いつかまた、誰か、向かい合った相手に振り回される。

そしてまた恨む、ひがむ、さらに自分をおとしめる。

延々、そのサイクルを続けていくことで、何を得たいのでしょう。

自分を嫌っている、その気持ちを、なぜ、変えないのでしょう?

これは、相手側に問題があった場合も同じです。

自分がすでに「ひがむ」というような状態を続けている場合。

問題が起きる人とは関わらない、代わりに「そうじゃない人を見つける」

というやり方では、ある程度、しかも表面的にしか、ごまかせないと思えます。

問題そのものを自分で解決できる「力」をつけていかないと、

また何か起こったときに、また再び、同じ罠にはまります。

その力、とは。

「そんなこと」が起こっても、

まあなんとか対応し、整理、区分けして、ごまかすのではなく、きちんと

それなら仕方ない、とか、納得できるか、と思えるようになるところにまで、

自分を持っていく、気持ちを整え、落とし込むこと。

これまで私が得た感触で、なんとなく、ですが、

ある意味ひがみ続けている人の場合、そういう「解決」には目を向けず、

「次は問題が起こらないようにすること」ばかりに、目を向けているように思えます。

違うのです。逃げてても、追いかけてくるのです。

問題なんて、人と関わる限り、いろいろな形で起こります。当たり前の話なのです。

それでも、だいじょうぶ、になることのほうが、

よほどよほど、大切なのです。

長年、誰かを恨んで、あるいは自分を嫌って、

なんとなく、それがどうやら根本原因っぽくって、

人間関係、なんだかうまくいかないの、という場合。

「うまくいかないから、いつもひがんでしまう」のではなく

もはや「ひがんで根本問題を放置している」から、

結局、いつも「うまくいかない」のです 。

じゃあ、どうしたらいいのか?

「なぜ自分はそう捉えるのか」と奥のほうにある気持ちを捕まえること。

「そうに決まってるもん!」と決めつけてきたことを、

「本当にそうなのか? それしかないのか?」と疑うことです。

どんなときにどんなことを、

「そもそも」自分は問題だと感じているのでしょう?

問題が明確であるならば、じゃあどうやったら、解決できるのでしょう?

もっと突っ込みます。それって本当に、放置しかできない問題、なのでしょうか?

見ないようにしていて、かまわない話でしょうか?

他の見方、受け止め方って、一生、したくない、あるいはできないのでしょうか?

したくないなら、それは「なぜ」そう思うのでしょう?

いつからそう思ってきたのでしょう? 何がきっかけでしょう?

それ以外「ゆるされない」と決めつけているのは、なぜでしょう?

他に、どんな捉え方なら、できるでしょう?

それがもし、大切な人に起こったとしたら、捉え方も違うのでは?

……そんなふうに、ときには人に打ち明けることであらゆる可能性を知り、捉え、

要は、やり方も、捉え方も、意識してまず、できるところから変えてみる。

いろいろなカウンセラーの先生があちこちで「自分をゆるしなさい」的なことを

おっしゃっているのは、それが「捉え方を変えるきっかけになる」からです。

大きく言ってしまえば、もっと丁寧に自分を扱う、でもいい。

今までのように「延々、悪い例ばかり思い出さない」でもいい。

変えてみるしかないのです。根本的なところこそ、思いっきり。

そんなふうに「放置しない、あきらめない」ように変えていくとき、

また、奇跡的なことも起こります。

それは本当にそう。ちゃんと見合ったサポートがやってくるのです。

そんなきっかけをつくる、そのための本などは、

たくさん出ているように、私には思えます。

自分の根本的な痛さを……苦しいなら、もう、ごまかすの、やめましょうよ。

相手を、自分を、ゆるめていける捉え方、自分の中から、掘り出しませんか?

鬱の人は、本当に少しずつ。

気分が良くなっているときになら、できます。

あくまで自己否定しない範囲だけで、まずは探してみてください。

その力を見つけるための「答え」は必ず、自分のなかに、あるのです。

それに気づけるのは、あなた自身、だけなのですから。

自己満足と他者評価

恋愛にせよ、仕事にせよ、友達関係にせよ。

自分が満足・納得できるように

他人から認められることを望むと、

その望みの枠は際限がなくなる。

自分が誉められても

認めてほしい部分じゃなければ

「え、そんなの当たり前の話でしょ」

くらいにしか思えず、素直には受け取れない。

自己満足するレベルを、他人の評価任せにする限り、

違う部分は別に認めてほしいわけじゃない、とか思うし、

たとえ望んだ形の評価が得られても、すぐに

もっと もっと もっと

もっと 私のこと 認めてよ

というバキューム状態に陥るのだ。

そして、たとえば問題が起こり、場合によっては、

相手側が自分の間違いをごまかすために

こちらに責任を転嫁し、非難してきたのだとしても

「こんなこと言われるのは、やはり私がどこか悪いんだ、

何か足りないせいだ」と落ち込むハメになったりもする。

すべて、自分で自分を認めず、代わりに他人を当てにして、

「自分の代わりに他者から」認めてもらおうとするがために

起こる悲劇である。

そもそも、せっかく他人が良く言ってくれた点を

「当たり前」とか「大したことない」と考えてしまうのは、

傲慢でさえある。

はい、鬱になる前の私が、仕事の面でまさにそれをやってました。

当然なのに、と思ってた。

素直に受け止められなかった。

そうなっていた理由は、自分には自分の価値、というものがあることを

私自身、どこかで信じてなかったから。

常に常に、結果を出さないと私はダメなんだと、思いこんでた。

そうじゃないと、私は価値がない人間なのだと。

ゆがんでるよね、この考え方。しかも強情で傲慢。

他人にそう受け止めていただけたことへの感謝もなくて。

今も、それが上手に受け止められるようになったかどうか、

自分ではわからない。

でも、そう言ってくださるんだ、ありがたいなあ、

と、いう感謝の気持ちは、持てるようになった。

そして、たとえよくわからなくても、ありがたく頂戴しようと。

こうしたことも、練習が必要なのだと思える。

私は、自己満足ばかり考えすぎていて、

ずっと自分をイジメていて、

なのに自分の傲慢さには、

気づけないでいたということだ。

他者がいることのありがたさを感じるより前に、何よりも先に、

自分が自分をゆるめなくてはいけないこと、

を知った。

そしていろいろ学んで、自分がバカであることを、

だいぶん、そのまま「ま、いいや」と、ゆるせるようになった。

こうしたことに気づかせてもらえたのだから、

鬱という病を経験したことも、私には意味があったのだと、

今さらながら、思えている。

だから今は苦しい方でも、私ほどのバカは

まあ、そうそういないと本気で思えるから(^◇^;)、

それぞれの方にそれぞれの形でいつか、気づきは訪れるのだと、

そういう学び方をされているのだと、

素直に思える次第である。

そして自分の、他者の、気づきを見つめられる時間を

死なずに与えていただけたこと、

今もこうして生かしていただけていることに、感謝している。

変化のリスク。 ~後編~

同じ言葉で、前のときとは真逆の意図。

実際、私はそれを体験したことがある。

そして2回目のそのとき、以前にはなかった違和感を感じた。

この人は、前の相手とは考え方が違うはず、

何となくそんな「匂い」が、今までしてきてたのに……。

そう思えたので、後日、勇気を出して、今の相手に真意を尋ねた。

すると相手の方は「そんな意味に捉えてたのか! ひどいな」と

少し怒りは見せたけれど、やはり「心配したゆえ」の

セリフであった、と説明してくれた。

それでお互いに謝りつつ、自分のわだかまりを消すことができた。

それは仕事の面での発言で、2回めの相手は

上司(ぶっちゃけ社長)だったわけだけどね(^^;)

今だから言えるけれど、退職もちょっと覚悟してた……。

そんなふうに、前と今を「同じだ」「まただ」と

判断するのは、自分自身の感覚のみでやっているのだ。

そして、もし本当に似ていると感じたとしても

「ならば前とは違う対応を、自分が絶対にするんだ」

と、強く念じて、決意することもできる。

このとき必要なのは、やってみる勇気だけだ。

新しいやり方ゆえ、結果はどうなるかわからない。

でもわざわざ、同じことを繰り返す必要は、まったくない。

まったくないのに、同じ、と決めてそちらを選ぶのが、自分なのだ。

しかも相手は、違う人間。自分が違う反応をすれば、

相手もまた、違った対応になるはず。

たとえもし同じ相手だとしても、こちらが対応をはっきり変えたら、

答える言葉は少しくらい、相手側も変えるだろう(たまにこれが、

ものすごくよい効果を発揮することだってある、同じ相手ゆえに)。

そう、違うことをやってみる勇気、が、

自分の選択を変えてくれるのだ。

このとき、自分のことが大嫌いだと、

その選択にまったく自信が持てないだろう。

でも実は、全然、持てないままでもいい。

そのままでいいから、そのときの最善(と思えること)だけ、選ぶのだ。

そのためには落ち着く必要がある。

「前と同じだ」と思った瞬間、心臓は鼓動を早めるだろう。

だからその場であえて、深呼吸する。

一拍置いて、絶対に絶対に、すぐには答えない。

間髪入れずに答えたほうが、相手に畳みかけることができ、

有利に思えたとしても、いやいや、対応はいくらでも方法がある。

よいことならば、ゆったりと柔らかく答えるのも、またよい印象になる。

反論する必要があるなら、力を溜めて、重量感あるパンチを

繰り出したっていいわけだ。

焦って空振りするよりは、よっぽどいい。

何より。

相手の真意を探るには、こちらも「聞く耳」を持たねばならない。

「前と一緒だ、前と一緒だ」と、頭の中でわざと繰り返してしまうと、

相手のことを無視して、自分の過去の経験とテンパった気持ちで

いっぱいいっぱいになってしまう。

これは本当は、コミュニケーションではない。

相手を疑いまくりなのだから、失礼だよね、やはり。

それでは、相手の言葉は聞けない。意図は絶対、探れない。

以前と何も変わらない方向、同じパターンに陥ることを、

自分からわざわざ、選択してしまうのだ。

経験は、危機を避けるために使う。確かにそうだが、

それは同じ失敗(と思えるもの)を繰り返すために

あるわけではない。そうではなく、

次に違う対応を自分から試してみるために、

前の経験を使う(比較する)ことだって、できるのだ。

そのために必要なのは、ちゃんと落ち着いてから、

新しい勇気を出すことだけ。

真摯に、真剣に。本気で。

よい方向を探る気持ち。

この丁寧な勇気は、過去にとらわれた「怖さ」とは違うことも、わかると思う。

ドキドキするけれど、それは明るいドキドキ、冒険のドキドキであり、

あらかじめ、前と同じパターンを予測して、

焦って勝手に想像して暗くなるドキドキとは、全然、違うのだ。

以前とは、自分も相手もまったく同じではない。

違う方向を、本気で、静かに試す。

このことを肝に銘じ、新しいことを、

自分がきちんと落ち着いて試すとき、

そのリスクには『冒険の』という肩書きがつく。

過去からの怖さを捨て、その新しい冒険のドキドキのほうを、

選んでほしいと思う。

しかも、丁寧さだけ心がければ、結果がどうあれ、まずは

「試したこと自体を評価できる」自分が生まれる。

失敗しようが成功しようが、練習だもの。

やってみた、その達成感のほうをあえて意識的に集めてほしい。

丁寧にやればこそ、それが集められる。

そうやって練習を積んで、どんどん前とは違う対応を試して、

自分へのうれしい評価を増やしてほしい。

どんなに小さなことからだって、それは構わないのだ。

どうだろうか。

どうせ他人なんて、と過去のパターンにばかり相手と自分を当てはめ、

変われないから、と決めたまま、投げやりで生きるよりは、

そっちのほうが、少しはマシだと思えないかな……?