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苦しみは100%悪、か ~前編~

苦しみ、というものを、まずは他者との関係の一部分から見てみる。

私は今、苦しい。

誰かになんとか、この苦しみを取り除いてもらいたい、

できればさらに幸せにしてほしい、と願うこと。

それが、まさに「どれほど苦しいことか」は、やってみればわかる。

意味がわからないなら、実際に、アメブロ内を検索してみればいい。

つらいんです、苦しいんです、こんなにひどいことがあって、

だから私を助けてください、と叫んでおられる方が、たくさんいる。

あなたも、同じなのだから、受け取りたいなら、やはりそれは

誰かにお返ししたほうがいいよね。

一方的に甘えるのは都合良すぎる、と心のどこかでわかっているはず。

だから、そういう人の誰かを選んで、心置きなく相手がすがれるように、

誠意を持って、尽くしてあげてみてください。

自分が受け取る分を、先にお返しするつもりで。

やがて、相手は、あなたの都合や考えや立場などお構いなしに、

24時間いつでも、聞いてください、つらいんです、

助けてください、と、連絡しまくってくることになるだろう。

そしてあなたは、それを受け止めることで

「うれしい、他人の役に立ってる」と思えるか、

「今は無理なのに、面倒な」と思えるか、

どちらかになっていくだろう。

うれしいと思えば立派な「共依存」の成立、自分よりも相手が必要な関係、

面倒な、と思えば、相手から離れざるを得なくなっていく。

これが、過去に何度か言ってきた「自分の回復を他人任せにすること」の

実際の流れである。

恋人さえいてくれれば幸せ、友達さえいてくれたら何とかなるのに、

家族が悪い、職場のせい、社会のせい、たまたま周囲に恵まれてないし、

それさえまともになれば……と思っている限り、

あなたの気持ちは、常に周囲の状況に左右される。

あなたが丁寧に自分で決める、選ぶことは、できなくなる。

そしてずっと、もどかしい、悔しい、つらい、苦しい、と

それだけに気を取られ、生きていく。

じゃあ逆の立場、どっぷり助けてもらう側、だったら?

やはり相手から、あなたの感情より先に、あなたに「こうしたほうがいい」

「こうするべき」「私がいるから大丈夫」「私に任せなさい」と

という種類のことを言われるようになり、

あなたの判断は、許されなくなっていくだろう。

その場合、もし安心すれば何も考えない、

自分では感じ取ることができない支配人形になっていくか、

いつまでたってもすべて支配されることに、イラつくことになっていくか、だろう。

あなたの都合に合わせ、完璧に助けてくれる相手はいない。

なぜなら相手もひとりの人間で、相手の都合があるから。

相手の都合と、自分の感情の都合、を忘れ、

家族なら、パートナーなら、友達なら、

相手さえ変わってくれれば、あるいは誰かとそれができれば、

私は苦しみから逃れられ、素晴らしい気持ちでいられるはず、と

決めつけ、夢想しているなら、

ゴメンね、それはまさにドリームでしかないのだ。

~つづく~

追伸:鬱の頭以外の人へ、そして鬱の頭の人へ

自分のことを自分でなんとかできる範囲のときには、

できるだけ、自力でやったほうが、その後の経過がよくなります。

自分のことを、少しは信じて、見直せるようになるから。

誰か優しい人にうまく出会って、なんとか導いてもらおうとすればするほど、

相手の都合に振り回される、と感じることになります。

あなたにとって100%都合のよい「お助け人」は、

これから先も、絶対に、絶対に、絶対に、現れることはありません。

あなたが傷つけられるか、あなたが傷つけるか、

いずれにしても、不満や不信や不安を残してややこしいことになるでしょう。

なぜなら。

そういう人を求め続ける限り、

あなたの気持ちや心の回復が、他人任せになるからです。

そこまで、他人にすべてを委ねなくても、

あなたには必ず、自分を信じていけるようになるだけのものは

「すでに」備わっています。

性善説的な、おおざっぱなことを言っているわけではなく、

「嫌」という気持ちは、必ず「では何ならいいのか?」を

考えていくきっかけに変えられるからです。

何がいいのか、では、どうしたらそこへ向かえるか、

何からなら、自分でも始められるのか。

それをまずはしっかり、自分で「感じ」て(理屈ではなく、

想像したときに心地よくなること、を探してください)、

必要ならきちんと紙にも書いて整理して、

まずは少しだけ、やってみてください。

そして続けることが難しいときは、休息したり、

違うやり方、自分が心地よい範囲の新たな策も、練り直してみてください。

あなたには、あなたにしかわからない、大切にしたいものがあるはずです。

それこそが必ず、あなたの力になっていきます。

あなたが望みさえすれば。

ですから、決して、あきらめないでください。

大丈夫です。

道は、必ず、あなたなりのやり方で、少しずつ見えてきます。

あなたもまた、ひとりの、かけがえのない、

大切な命を持った、「人間」という生きものなのです。

感じる心、考えてみる能力、ひらめく瞬間、を必ず持っているから。

ですからどうか、あきらめないでください。

そして、鬱の脳みそになってしまっている方へ。

その心の仕組みは、今は、脳みその回路の関係で、

かなりの確率により、自己否定につながります。

でも、暗いことを感じ続けるのをなるべく減らし、

ゆったりと、心地よく過ごすようにすることで、

脳みその状態も変化し始めます。

今はただ、休息のとき、です。

暗いことを考えてしまうと、より自分への否定感が強くなり、

結局、脳みその不調もその分、続くことになるので、

まずは考えること自体、止めてください。

そして心地よさだけを、追求してください。

いずれまた、自分のことを、否定形以外で

感じたり受け止めたりできるようになります。

悪いことばかり続くのにも、限界はありますから。

自分の脳みそに、自分でだまされないよう、

心地よいもの、時間、環境に、ひたすら囲まれてください。

そのことだけに、注目してください。睡眠でもいいのです。

16時間、24時間、48時間、好きなだけ寝てください。

暗いことを考えるよりはずっと、脳みそによい効果をもたらします。

何よりも、休息を重視しましょう。今はとにかく、お大事に。

未来をも「自力で失敗へと導く」捉え方

動けないまま、何も変えられないと思い込んでいる人は、

自分が持っている問題点を考えるときに、まずほとんどの場合、

否定形の言葉を使う。

これは、私の思考整理をときに助けていただいている

癒羽さんのブログにも書いてあったことだ。

どんなふうに否定するか。頭の中で考えているときに

でも

だって

どうせ

をたくさん使うのである。

癒羽さんは、今の仕事に就くに当たり、お師匠さんから、

「でも だって を自分が使ったら、100円貯金しなさい」と言われたそうだ。

実際にやってみたら、またたく間に食費を圧迫するくらい

100円玉を貯金箱に入れるハメとなり、

自分が思考のなかで、この言葉を多用していたことに気づかれたらしい。

実際、この言葉は、現在の自分や周りの環境、他人を

否定するだけでなく、未来の方向性をも否定してしまう。

これからを改善していく、少しでも状況よくするための

アイデアは浮かびにくくなるし、周囲には働きかけにくくなる。

想像してみてほしい。

もし、この言葉を実際に多用する人と話していたとすれば、

なんとネガティブなんだろう、あるいはどうしてこんなに不満が多いのだろう、

周囲に対しての使用なら、すごく皮肉屋さんだな、とか、

そんなふうに感じないだろうか?

わざわざ、自分で自分を悪い状況のまま、

保ち続ける努力をしているのと、同じことになるのだ。

そんな努力を、したい人がいるだろうか?

たとえば……かわいそうだね、大変だね、と、人々の関心を買って

注目してもらって、絡んでもらって、延々、慰めてもらいたい、とか?

それくらいしか、効用は、私には思いつかない。

そんなこと言ったって、現在、大変なんだもの、と言うなら、

じゃあ「でも だって どうせ」と言い続けていたら、

何か変わってよくなっていくんですか? と尋ねたい。

自力では現在、どうしても変えるのは難しい、

しばらくは、どうしても様子を見る必要があるなら、

なぜ、わざわざ「でも だって どうせ」を繰り返さなくてはいけないのだろう。

今すぐは無理だからこそ「でも だって どうせ」を使わなくていいような、

少しでも気持ちが明るくなるようなことを、考えてみてはいけないのだろうか?

あるいは、今は逃げていることが自覚できているなら、

うん、逃げてる、今は仕方ない、それが私だ、と素直に思ってしまえばいい。

悪いわけではない。待つことが必要な場合もあるのだ、実際。

だから認めて、いったん、そんなふうにグダグダ否定してしまう気持ちごと手放して、

他の否定しないでいい部分を考えるとか、全然そういうのとは関係ない、

好きなことにでも関心を向けるほうが、

よほど気持ちは落ち着くのではないだろうか?

落ち着いているときのほうが、よいアイデアも思いつきやすくなるのでは?

どうしてもできるだけ早急に解決する必要があるなら、

それこそ「でも」とか逡巡している場合ではない。

「何から」なら、自分にもできるだろうか? という無理のない検討に、

意識を集中させていったほうが、よほど建設的だ。

わざわざ自分で、過去の経験から記憶を引っ張り出して照らし合わせ、

現在も次も未来もダメに違いない、と決めつけること、

それを「でも だって どうせ」で繰り返し考え続けることについて、

私が気づけていない効果でもあるのだろうか。

……自分へのそんな言い訳が、楽しいはずはないだろうに。

人間は、反省も謝罪も改心も、改善も転換もやり直しも、

できる能力を、普通に備えてもらっているのだ。

生物学的に、脳みそにそういう仕組みを、持たせてもらえている。

だからこそ、裁判所があり、服役というシステムもあるのだ。

その仕組みを持っていないなら、刑務所なんて、そもそも作られるはずがない。

あなたは真面目で善良で状況を変える力を必ず持っているし、

それが今は見えなくても、あなた自身によって隠されているだけだ。

人間、である以上、必ず思ったこと、気づいたこと、

そういう思考をきっかけにして、何か少しずつでも変えていけるのだ。

そう、あなたが 本当に 変えたいと望むのであれば。

病だって、治ると信じたほうが、治らないと信じるより、治る確率が上がるし、

薬や治療も「効くんだ」と感じられたほうが、

実際の効果が上がりやすい。これは別にごまかしではなく、

新薬の効果を実験で確認していく過程で、

プラセボ薬、という効果のない薬をもらっても、知らされないために

薬だ、と、思って経過が良くなる人がいることが報告されているのだ。

たとえば自己治癒力を少しでも上げたい、とか、

この先、何かしらの部分で楽になっていきたい、

あるいは自己変革していきたいなら、

わざわざ悪く捉え続けるクセをまずやめること。

「でも だって どうせ」からは、よい方向への変化は

この先も一生、まず生まれないだろう、と、私はあえて言い切りたい。

なぜなら、自分にとっての悪い捉え方だけ、練習し続けることになるから。

また悪いことが起こったら、自分で自分の「だって どうせ」を

強化することになる。失敗や不満はこの先もすべて、

そこへつながるだろうから。

そして、どうなっていくか?

悪いことだけは必ず、やっぱり、と注目し、納得し、

新たな「ダメ証拠」として自分の記憶にしっかり刻みつけていく。

よいことは「たまたまそうなったに過ぎない」で終わり、

せっかくの機会もチャンスも見過ごしてしまう人生へと、

ますますなっていく一方なのだ。

さて、あなたはこれから先、自分に対して

何を選んであげますか?

この先も、自分をイジメ倒し否定しまくり、

たまに周囲のせいなどにもする人生を作り上げていきますか?

選ぶのは、常に、あなた自身である。